ときの忘れもの 今月のお勧め
■2019年08月01日(木)  フンデルトヴァッサー 《屋根の上の川》
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フンデルトヴァッサー
《屋根の上の川》
1987年
耳付和紙に木版
シートサイズ:57.0x42.0cm
イメージサイズ:53.0x40.0cm
Ed. 200
サインあり

フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー Friedensreich HUNDERTWASSER
オーストリアの画家、建築家。ユダヤ系チェコ人の母を持つ。ナチスの政策によって親類を失うという過去をもつフンデルトヴァッサーは全体主義的な制度を徹底して否定し個人の自由意志を尊重すべきだという考えに基づいて作品制作を行った。 20歳のときウィーン美術アカデミーで3か月ほど学ぶ。その後画家を志し旅に出た北アフリカで大自然と人との共存を目にする。そのころからすでに彼の絵は明るい色彩が多用され、曲線によって描かれていた。彼の作品には、常に自然との共存という哲学がこめられている。 都市に戻りそこで見た無機質・無彩色の画一的な建築物に違和感を覚えた彼は「血を流す建物」(1952年)で四角い高層建築の壁が赤く傷つき血を流しているような独特の建物を造る。その頃から独自の路線で建築を作ってゆく。

定規で引いたような直線を否定し自然を愛した彼は、建築でも自然への回帰を唱え、曲線を多用した独自の様式を編み出した。「直線に神は宿らない」という言葉は有名。日本国内では、大阪市扇町公園に隣接するキッズプラザ大阪や、大阪市環境事業局舞洲工場(ゴミ処理場)などを手掛ける。環境問題を意識した多彩な建築活動を行い独自の芸術観や自然観を表現していた。 1981年から母校であるウィーン美術アカデミーの教授をつとめた。2000年、晩年をすごしたニュージーランドへ向かう客船上で死去。


■2019年06月01日(土)  葉栗剛 《<男気>KABUKI(小)》
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葉栗剛
《<男気>KABUKI(小)》
2016
木彫 楠木、アクリル
H 49.0cm
サインあり

葉栗剛 Takeshi HAGURI
1957年名古屋市に生まれる。1982年に愛知県立芸術大学彫刻科を卒業し、1984年に愛知県立芸術大学大学院を修了。卒業後は木彫を主に制作しているが、野外作品はアルミニウム素材を使用する。主な個展は1996年・1998年 村松画廊(東京)、2006年 中京大学 C・スクエア(名古屋)、2009年千葉県アンデルセン公園こども美術館など多数。主なグループ展は1996年 神戸具象彫刻大賞展、2000年 フォクトランド国際彫刻シンポジウム(ドイツ)、2001年 富獄ビエンナーレ展(静岡県立美術館)、2013年 第16回岡本太郎現代 芸術賞」展 ほか。

愛知県立日進西高等学校、ふれあい公園(静岡県春野町)、伊自良村総合運動公園(岐阜県)、愛知県立西春高等学校 愛西市立佐屋小学校(愛知県)、長久手町立北小学校(愛知県) に作品が設置されている。


■2019年04月02日(火)  瑛九 《赤と黄》
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瑛九
《赤と黄》
1957年
板に吹き付け
(スパッタリング)
45.5×38.0cm(F8号)
※レゾネNo.353

瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。

明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2019年03月01日(金)  ル・コルビュジエ 《二人の女》
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ル・コルビュジエ
《二人の女》
1938年
リトグラフ
イメージサイズ:17.6×26.7cm
シートサイズ:38.5×50.2cm
Ed.100
Signed

ル・コルビュジエ Le Corbusier
建築家。1887年スイスのジュラ地方ラ・ショー・ド・ファン生まれ。本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1906年初めての住宅[ファレ邸]を設計。1917年パリに出るが、翌年左目を失明する。『エスプリ・ヌーボー』の創刊に関わり、美術運動にも参加。1922年建築事務所設立。代表作[サヴォア邸][ロンシャン礼拝堂][ラ・トゥーレット修道院][国立西洋美術館]他。1965年水泳中にカプ・マルタンで死去(78歳)。

ライト、ミースと並ぶ20世紀建築界の巨匠はリトグラフによる詩画集『直角の詩』など多くの版画を残しました。[近代建築の五原則]を提唱、近代建築国際会議(CIAM)メンバーとして近代建築理論の最大の指導者でした。油彩、彫刻、版画を制作、生涯絵筆を手放しませんでしたが、その死は悲劇的でした(母なる海に帰ったともいえますが)。そのあたりのことは磯崎新『栖十二』の美しいオマージュをお読み下さい。


■2019年02月05日(火)  ジョナス・メカス 《John, Atlantic ocean. Montauk, Aug. 1972》
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ジョナス・メカス
《John, Atlantic ocean. Montauk, Aug. 1972》
1972年 (Printed in 1999)
Type-Cプリント
イメージサイズ:49.1x32.4cm
シートサイズ :50.6x40.7cm
Ed.10
サインあり

ジョナス・メカス Jonas MEKAS
1922年リトアニア生まれ。ソ連次いでナチス・ドイツがリトアニアを占領。強制収容所に送られるが、45年収容所を脱走、難民キャンプを転々とし、49年アメリカに亡命。16ミリカメラで自分の周りの日常を日記のように撮り始める。65年『営倉』がヴェネツィア映画祭で最優秀賞受賞。83年初来日。89年NYにアンソロジー・フィルム・アーカイヴズを設立。2005年ときの忘れものの個展のために4度目の来日。

『リトアニアへの旅の追憶』『ウォルデン』の作者は映像を志す人にとって神様のような人ですが、前衛映画の蒐集保存のための美術館建設計画を進めていた頃のメカスさんは「フィルムは山ほどあるがお金がない」状態で、少しでも応援しようと83年に日本にお招きし7点の版画をつくって貰いました。それがメカスさん独自の写真作品制作のきっかけです。メカスさんの写真と版画はときの忘れものでいつでもご覧になれます。
2019年1月23日死去、享年96。


■2019年01月08日(火)  瑛九 《海の原型》
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瑛九
《海の原型》
1958年
板に油彩
91.0×160.0cm
100号変型
裏にサインと年記あり
※レゾネNo.441

瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。

明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。




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