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瀧口修造

Shuzo TAKIGUCHI
(1903.12.7~1979.7.1)

詩人、美術評論家として知られる。シュルレアリスムの理念を体現し、戦前・戦後を通じ日本における前衛芸術運動の理論的・精神的支柱として、多くの芸術家の活動を鼓舞し続けた。内外の造形作家と詩画集を共作したほか、自らも多数の造形作品を残している。
1903年、富山県に生まれる。幼少期から文学・美術に親しみ、特にウィリアム・ブレイクに傾倒していた。慶應義塾大学英文科在学中に、指導教授だった西脇順三郎を通じてシュルレアリスムを知り、『シュルレアリスム宣言』、『磁場』などを読んで深く影響され、一連の実験的な詩的テクストを発表するとともに、ブルトン『超現実主義と絵画』を全訳した。31年に卒業後、映画製作所PCL(写真化学研究所。東宝の前身)にスクリプターとして勤務する傍ら、美術評論活動を開始した。海外のシュルレアリストたちと文通を続け、ブルトン『通底器』、『狂気の愛』、「文化擁護作家会議における講演」やエルンスト、ダリの著作などを翻訳・紹介、37年には山中散生とともに「海外超現実主義作品展」を開催した(記念出版『アルバム・シュルレアリスト』も編集)。「超現実造型論」「前衛芸術の諸問題」などの美術評論だけでなく「写真と超現実主義」「物体と写真」などの写真評論も執筆し、画壇に属さない前衛美術家・写真家たちの研究・発表グループを理論的に指導した。しかしこうした活動は、国際共産主義運動に関係する危険なものと見なされて、41年春から7ヶ月余り特高によって拘留され、中断を余儀なくされた。
戦後は読売新聞などに多くの美術評論を発表し、時代を代表する美術評論家として活動した。タケミヤ画廊の企画を委嘱され、208回に及ぶ展覧会を開催して、多数の若手美術家に発表の機会を設ける一方、51年に結成された「実験工房」の活動にも顧問格として関与するなど、清廉な人柄も相俟って影響力は絶大であった。

58年、ヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーとして訪欧、イタリアの彫刻部門の代表だったフォンターナを高く評価して絵画部門で票を投じた後、欧州各地を訪問し、ブルトン、デュシャン、ダリ、ミショーらと面会した(ブルトンとの会談を自ら「生涯の収穫」と回想している)。帰国後、時評的な美術評論の発表が減少する一方、展覧会序文などの私的な執筆が増加した。公的な役職を辞任する反面、赤瀬川原平の「千円札事件」(65~70年)では特別弁護人を積極的に引き受けている。ミロ、サム・フランシスなど、多くの造形作家と詩画集を共作したほか、自らもドローイング、水彩、デカルコマニー、バーント・ドローイング(焼け焦がした水彩)、ロトデッサン(モーターによる回転線描)などの、独特な手法の造形作品を制作し、個展も数回開催している。67年には戦間期の詩的テクストを集成した『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』を刊行した。夢の記録の形をとった散文作品や、諺のような短いフレーズの作品も残している。自ら構想したコンセプチュアルな「オブジェの店」に対して、上記の訪欧後も文通を続けていたデュシャンから「ローズ・セラヴィ」の名を贈られた。この返礼に『マルセル・デュシャン語録』を刊行(68年)、その後もデュシャン研究を継続し、「大ガラス」の一部を立体化したマルティプル『檢眼圖』も制作している(東京ローズ・セラヴィ、77年。造形作家岡崎和郎との共作)。79年に心筋梗塞のため没した。
(執筆:土渕信彦)

 

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瀧口修造・シュルレアリスム関連年表

西暦

年齢

瀧口修造 関係

アンドレ・ブルトン、シュルレアリスム関係

1896

 

 

アンドレ・ブルトン生まれる。

1903

0

12月7日、富山県婦負郡寒江村大塚に生まれる(長男。姉2人の弟。医師の家系で父の専門は眼科)。

 

1906

3

この頃に自分で絵を描くこと、絵を人に描いて貰うことの楽しみを覚える。

 

1910

7

寒江村立尋常小学校に入学する。(後年まで学校に怖れと嫌悪感を抱く)

 

1915

12

父、他界。遺品にカメラが残され、写真に親しむ。初めて暗室に入り、写真を現像。イメージの出現に感動する。

動員され、ナントの神経精神センターに配属される。

1916

13

県立富山中学校に入学する。

ジャック・ヴァッシェと出会う。

1917

 

 

フィリップ・スーポー、ルイ・アラゴンと知り合う。チューリッヒで「ダダ」誌創刊。

1918

15

黒部川上流のスケッチ帳を図画教師にほめられ、絵への興味が再燃。

『マルドロールの歌』を読む。(第一次世界大戦終結)

1919

 

 

「文学」誌創刊。スーポーと自動記述開始。

1920

17

短歌に衝動を感じ、地方紙・校友会誌などに投稿。象徴詩の世界に憧れる。「白樺」や美術書を濫読。

トリスタン・ツァラ、パリに到着。パリ・ダダ始まる。ブルトン、スーポー『磁場』刊行。(フランス共産党、コミンテルンに参加)

1921

18

富山中学を卒業。受験準備を理由に上京。

ツァラとブルトンとの対立表面化。シモーヌ・カーンと結婚、新婚旅行を兼ねてウィーンにフロイトを訪問。

1922

19

母、急逝。医科進学を断念。岸田劉生の「麗子像」を見て不思議な感動を覚える。

ダダと絶縁。「文学」誌第二期。「眠りの時代」。マン・レイ、マックス・エルンスト、パリに到着。(ソ連成立)

1923

20

慶応義塾大学文学部予科に入学するが失望、図書館に籠り、ウィリアム・ブレイクなどを原書で読み耽る。震災を機に退学、長姉を頼り北海道小樽に渡る。

アンドレ・マッソン参加。マルセル・デュシャン「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称「大ガラス」)完成。(ヒトラー、クーデター失敗)

1924

21

2人の姉と文房具兼手芸材料店を開く計画を進める(翌年開業し、商品整理や店番などを手伝う)。大学に再入学するよう説得される。

「シュルレアリスム研究センター」創設。『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』。「シュルレアリスム革命」誌創刊。(レーニン死去、スターリン政権掌握)

1925

22

長姉らの説得に従い再上京。慶応義塾大学文学部英文科に復学する。

「シュルレアリスム革命」誌に「シュルレアリスムと絵画」を連載。集団遊戯「優美な屍骸」。ピエール画廊で最初のシュルレアリスム展。トロツキー『レーニン』を読む。「クラルテ」誌と接近。(モロッコのリフ戦争)

1926

23

同人誌「山繭」に加わり、詩を発表。西脇順三郎教授に卒業まで5年間教わる。

「シュルレアリスム画廊」開設、マン・レイ展開催。ナジャと出会う。スーポー除名。

1927

24

ランボーの詩に啓示を受ける。西脇教授の書斎で知った『磁場』、『シュルレアリスム宣言』の原書を入手し、(この年または翌年の)夏休みに小樽近郊の蘭島海岸で読解に取り組む。

共産党に入党。アルトー脱退。アンゴの館で「ナジャ」を執筆。シュザンヌ・ミュザールと出会う。

1928

25

「山繭」誌に詩「地球創造説」を発表。以後31年頃まで一連の実験的な詩的テクストを発表。

『シュルレアリスムと絵画』 、『ナジャ』。マッソン脱退。

1929

26

西脇順三郎の『超現実主義詩論』の編集を手伝い、巻末に「ダダよりシュルレアリスムへ」を寄稿する。

シャトー街の集会。「シュルレアリスム第二宣言」。「シュルレアリスム革命」誌終刊。デスノスら脱退。ダリら参加。ジョルジュ・バタイユ、「ドキュマン」誌創刊。

1930

27

ブルトン『超現実主義と絵画』を翻訳出版。(この年または翌年)写真館を開業して生計を立てようと計画し、一時、西銀座の写真スタジオに勤務。

「革命に奉仕するシュルレアリスム」誌創刊。ダリ、「偏執狂的・批判的方法」提唱。『処女懐胎』。『工事中徐行』。シモーヌ・カーンと離婚

1931

28

慶応義塾大学を卒業。「詩と実在」、「絶対への接吻」、マン・レイ論などを発表。

ダリ、「象徴機能をもつオブジェ」。

1932

29

PCL(写真化学研究所。東宝の前身)に入社し、スクリプターとして勤務。「巴里東京新興美術展」でエルンスト、タンギー、ミロらの実作を観て感動。

アラゴン事件。『白髪の拳銃』『通底器』。

1933

30

 

「ミノトール」誌創刊(事実上の機関誌)。トロツキー、フランスに到着。(ナチス政権成立)

1934

31

激務のため健康を害し、休職。後に文芸課に籍を移す。「新造型美術協会」の活動に協力、会員の鈴木綾子を知り、(翌年)結婚する。

ジャックリーヌ・ランバと出会い(「ひまわりの夜」として有名)結婚。トロツキー追放、「ヴィザなき惑星」発表。ブリュッセルで講演「シュルレアリスムとは何か」。

1935

32

「カイエ・ダール」誌に“AU JAPON”を寄稿。ブルトンから直送されてきた「文化擁護作家会議」の講演原稿を翻訳(翌年、『超現実主義の交流』に掲載)。

プラハで講演「オブジェのシュルレアリスム的状況」。「カイエ・ダール」誌、シュルレアリスム特集。共産党と絶縁。「文化擁護作家会議」。バタイユと接近、「コントル・アタック」結成。『シュルレアリスムの政治的状況』。ジャックリーヌとの間に娘オーブ誕生。(スターリン大粛清開始)

1936

33

胃潰瘍に悩む。PCLを退社。「アヴァンガルド芸術家クラブ」を組織(例会には特高が臨席し監視される)。「超現実造形論」発表。ブルトン「欲望のデカルコマニーについて」を翻訳。

「コントル・アタック」を離脱。「オブジェ・シュルレアリスト」展。ロンドンで「シュルレアリスム国際展」。オスカール・ドミンゲス、デカルコマニーを開始。「欲望のデカルコマニーについて」。「モスクワ裁判の真実でスターリンを非難。アルトーと和解。

1937

34

「海外超現実主義作品展」を組織(記念出版『アルバム・シュルレアリスト』を編集、表紙のデカルコマニーを制作)。阿部芳文(展也)との詩画集『妖精の距離』刊行。

画廊「グラディヴァ」開設。ウォルフガング・パーレン、フュマージュを開始。『狂気の愛』、『黒いユーモアについて』。アルトー、精神病院に収容される。(ゲルニカの爆撃)

1938

35

『近代芸術』を出版。「ピカソの火」を発表し「ゲルニカ」を紹介する。「アンドレ・ブルトンの美学」でブルトン『狂気の愛』を抄訳。「写真と超現実主義」など、一連の写真評論を発表。新バウハウス運動にも関心を寄せ、モホリ・ナジ、ケペッシュらと文通。

メキシコにトロツキーを訪問。シュルレアリスム国際展。『シュルレアリスム簡約辞典』。一時召集される。(ミュンヘン会談)

1939

36

『ダリ』を刊行。日本大学芸術学部で「近代芸術」の講義を担当。長姉の逝去に伴い小樽を訪れる。

「ミノトール」誌終刊。ダリ追放。エリュアール、マン・レイら脱退。ブルトン再召集される。デュシャン『ローズ・セラヴィ』。(独ソ不可侵条約、ポーランド分割、第二次世界大戦勃発。フロイト死去)

1940

37

特高の圧迫。孤独に陥る。シュルレアリスム観が瓦解し、深刻な挫折感に捕われる。ミロに関する世界初のモノグラフィ『ミロ』刊行。

シュルレアリストたち、マルセイユに集結。(パリ陥落。メキシコでトロツキー暗殺される)

1941

38

特高に検挙され約7ヶ月間拘留後、起訴猶予処分で釈放。(太平洋戦争勃発)

『黒いユーモア選集』『ファタ・モルガナ』(いずれも発禁)。マルティニック諸島経由、ニューヨークへ。(独軍ソ連侵攻)

1942

39

保護観察下に置かれ、観察司に(時局協力的な)執筆を迫られる。友人の訪問が絶え、深い孤立感に陥る。

「VVV」誌創刊。ニューヨークでデュシャンと「シュルレアリスム国際展」。「シュルレアリスム宣言、発表か否かのための序文」。エール大学で講演「両大戦間のシュルレアリスムの状況」

1943

40

胃潰瘍再発する。国際文化協会の嘱託となり、京都、奈良の古美術撮影に加わる。

ジャックリーヌ、ブルトンの元を去る。エリザとの出会い。

1944

41

撮影旅行を続ける。

ガスペジー半島へ旅行。『秘法十七』。(パリ解放)

1945

42

空襲で、ブルトンの書簡、署名本、機関誌など一切を焼失。金沢で終戦を迎える。

エリザと結婚。『シュルレアリスムと絵画』増補版。

1946

43

日米通信社に参与として勤務、「日米ウィークリー」誌の文化欄を担当する。

パリに戻る。

1947

44

胃潰瘍で一時危険な状態に陥る。

シュルレアリスム国際展。『シュルル・フーリエへのオード』。パリでデュシャンと「シュルレアリスム国際展」

1948

45

この年前後に多数のピカソ論を発表。

「ネオン」誌創刊。アルトー死去。

1949

46

読売アンデパンダン展で多くの未知の新人作家と出会う。『近代芸術』再刊。

「精神の渉猟」事件(モーリス・ナドーらがランボーの未発表作として出版した「精神の渉猟」を贋作と看破し抗議)。

1950

47

読売新聞を中心に多くの美術評論を発表。

『黒いユーモアの選集』新版。NEF誌特別号「半世紀のシュルレアリスム」

1951

48

「タケミヤ画廊」運営に協力し57年まで208回の企画展を開催。若い造形作家・作曲家たちのグループ「実験工房」に顧問格として関与(「実験工房」の名も命名)。『近代芸術』第3刊。

カルージュ事件。

1952

49

美術映画「北斎」に多くの労力を費やす。

アンドレ・パリノーとラジオ対談(『対談集』)。「メディオム」誌創刊。

1953

50

新宿区西落合に小住宅を新築、以後、終生居住する。

「封印された星」画廊開設。『野の鍵』

1954

51

詩画集『スフィンクス』を刊行(久保貞次郎私家版)。

ヴェニス・ビエンナーレでエルンストが絵画、ミロが版画、アルプが彫刻の各大賞受賞。

1955

52

『十六の横顔』を出版。「藝術新潮」誌に「異色作家列伝」連載(後に『幻想画家論』として刊行)。

エルンストを除名。「吃水部におけるシュルレアリスム」発表。

1956

53

『シュールレアリスム』刊行。

「シュルレアリスム・メーム」誌創刊。

1957

54

タピエ、マチューら来日。アンフォルメル旋風。サム・フランシスとの交友も始まる。

ルグランとの共著『魔術的芸術』。

1958

55

ヴェニス・ビエンナーレの日本代表として渡欧(彫刻部門のイタリア代表フォンターナにあえて絵画部門で投票し、本人に喜ばれる)。フォンターナ、ムナーリと交流。欧州各地を訪れ、タピエと再会。ブルトン、デュシャン、ダリ、タピエス、ミショーらと面談。

「BIEF(ビエフ)」誌創刊。

1959

56

美術評論執筆に障害を覚える。『幻想画家論』刊行、デュシャンに献呈し文通が始まる。

ミロと詩画集『星座』。シュルレアリスム国際展(エロス)。

1960

57

スケッチブックに万年筆で文字でない線描を走らせる。第1回個展(南天子画廊)。

デュシャンの監修による「魔術師の領域へのシュルレアリスムの侵入」展。

1961

58

第2回個展(大阪北画廊。第1回、第2回とも題は「私の画帖から」)。

ミラノの「シュルレアリスム国際展」に協力。「ラ・ブレッシュ」誌創刊。

1962

59

元日からデカルコマニーに没頭、第3回個展「私の心臓は時を刻む」で発表する(南画廊。翌年、神戸国際会館に巡回)。クレー論の執筆が捗らず、斎藤神経科の北杜夫に受診。バーント・ドローイングを試みる。『近代芸術』第4刊。

『シュルレアリスム宣言集』決定版。

1963

60

美術評論を避け作家に個人的に贈る言葉が増加。ティンゲリーにロトデッサンを贈る。

『ナジャ』自筆改訂版。

1964

61

「オブジェの店」を開く構想を抱き、デュシャンから「ローズ・セラヴィ」の店名を贈られる。返礼に『マルセル・デュシャン語録』を計画する。サム・フランシスとの詩画集『黄よ、おまえはなぜ』刊行。

ワルドベルグ企画「シュルレアリスム―源泉、歴史、周辺」展に異議。

1965

62

野中ユリとの詩画集『星は人の指ほどの―』刊行。赤瀬川原平の「千円札事件」で特別弁護人となる。

ルイユ画廊で「シュルレアリスム国際展」(「絶対の隔離」)。『シュルレアリスムと絵画』決定版。

1966

63

ブルトン逝去に衝撃を受ける。来日したミロと意気投合、詩画集を計画する。『余白に書く』刊行。

ブルトン逝去。

1967

64

野中ユリとの詩画集『不知抄』刊行。『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』刊行。

「アルシブラ」誌創刊。

1968

65

『マルセル・デュシャン語録』完成(特装版60部にはデュシャン、ジャスパー・ジョーンズ、ティンゲリー、荒川修作のオリジナル入り)。自宅の庭に自生したオリーヴの実の瓶詰を造り始める。

デュシャン逝去。

1969

66

『アンドレ・ブルトン集成』監修。脳血栓で入院。『画家の沈黙の部分』刊行。「本の手帖」誌で瀧口修造特集。

シュルレアリスム運動終息宣言。「クーピュール」誌創刊。

1970

67

ミロとの詩画集『手づくり諺』刊行。胃潰瘍の手術を受ける。

 

1971

68

第4回個展(新宿のスナック・バー「セバスチャン」)。

 

1972

69

『三夢三話』、『幻想画家論』新装版、『略説・虐殺された詩人』、『地球創造説』刊行。

「クーピュ―ル」誌終刊。

1973

70

「シュルレアリスムと画家」叢書「骰子の7の目」を監修。「マルセル・デュシャン回顧展」のレセプションに招かれ渡米。カタログに"Personally Speaking" を寄稿。

フィラデルフィア美術館・ニューヨーク近代美術館「マルセル・デュシャン回顧展」

1974

71

「現代詩手帖」誌で瀧口修造特集。デカルコマニーなども掲載。

 

1975

72

アントニ・タピエスとの詩画集『物質のまなざし』、『寸秒夢』刊行。

 

1976

73

ミロからカタルーニャのひょうたんを贈られ喜ぶ。

 

1977

74

岡崎和郎と『検眼図』を共作。ポンピドゥー・センター「マルセル・デュシャン展」の23名の「目撃者」(Temoins Ocultistes)の1人を務める。

ポンピドゥー・センター「マルセル・デュシャン展」

1978

75

ミロとの詩画集『ミロの星とともに』刊行。

 

1979

 

加納光於との詩画集『掌中破片』刊行。
7月1日、心筋梗塞のため死去。

 


参考文献
1.瀧口修造「自筆年譜および補遺」、『コレクション瀧口修造』第1巻、みすず書房、1991年3月
2.濱田明・田淵晉也・川上勉編『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』、世界思想社、1998年6月
3.朝吹亮二編「アンドレ・ブルトン年譜」、「現代詩手帖」1994年10月
4.星埜守之・鈴木雅雄編「アンドレ・ブルトン図書館」、「ユリイカ」1991年12月

主要著作

1.詩集・詩画集など
『妖精の距離』(阿部芳文との詩画集)、春鳥会、1937年
『黄よ、おまえはなぜ』(サム・フランシスとの詩画集)、南画廊、1964年
『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』、思潮社、1967年
『手づくり諺』(ジョアン・ミロとの詩画集)、ポリグラファ社、1970年
『三夢三話』、草月出版部、1972年
『寸秒夢』、思潮社、1975年
『物質のまなざし』(アントニ・タピエスとの詩画集)、ポリグラファ社、1975年
『ミロの星とともに』(ジョアン・ミロとの詩画集)、平凡社、1978年


2.美術評論
『近代芸術』、三笠書房、1938年
『幻想画家論』、新潮社、1959年
『点』、みすず書房、1963年
『余白に書く』、みすず書房、1966年
『シュルレアリスムのために』、せりか書房、1968年
『画家の沈黙の部分』、みすず書房、1969年


3.翻訳
アンドレ・ブルトン『超現実主義と絵画』(初版の全訳)、厚生閣書店、1930年
『マルセル・デュシャン語録』(『塩の商人』などの訳)、東京ローズ・セラヴィ、1968年

<年表、著作リスト制作・土渕信彦>

 

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