2002年1月〜3月の展覧会
弊廊「ときの忘れもの」の2002年 1月〜3月の企画展・常設展のご案内を申し上げます。 

[ 小野隆生初期作品展]
会期…………2002年1月 11日(金)〜1月26日(土)11:00〜19:00 日曜・月曜・ 祝日は休廊
概要…………肖像画という世界で真摯に制作を続け、卓抜な描写力とその存在感は今 の時代に希有な「画家」という呼称がふさわしい小野隆生。1971年イタリアにわた り、以来30年イタリアに在住し、モデルはいないということですが、イタリアの街角 で実際すれ違うかもしれないと思ってしまうほど、個性あふれ、存在感のある人間の肖像を描いています。ほとんどがイタリア系の顔だちの肖像画ですが、その瞳を覗くとき、人間であることの心の深みがそこには流れており、自分の中に共鳴する音が聞こえてきます。
20代に入ってすぐイタリアに渡り、ヨーロッパの古典絵画を学び、イタリア各地の教 会や美術館収蔵作品の修復に携わりながら、描いてきた1970年〜80代を中心に初期の 作品を出品いたします。
小野隆生(おの たかお)………1950年岩手県生まれ。71年イタリアに渡り、国立ロ ーマ美術学校絵画科、国立フィレンツェ美術学校絵画科、国立ローマ美術学校彫刻科に学ぶ。76年銀座・現代 画廊で第1回個展。77年国立ローマ中央修復研究所絵画 科に入学(80年卒業)。77-85年イタリア 各地の教会壁画や美術館収蔵作品の修復 に携わる。地震で崩落したアッシージのサン=フランチェ スコ教会のジオットの作品も1980年に小野が修復を手掛けたものである。現在、イタリア在住。
小野隆生「家族」テンペラ 23×60.7cm
[ 第12 回瑛九展―フォトデッサン型紙展]
会期…………2002年2月 1日(金)〜2月16日(土)11:00〜19:00 日曜・月曜・祝日は休廊
概要…………瑛九ほど、油彩、水彩、フォトデッサン、銅版、リトグラフ、木版とい ったさまざまな表現方法を追究し、それぞれの表現を極めた作家は少ないのではないでしょうか。独自の表現を生み出すために、実験的な試みはとどまるところがないといえるでしょう。技法やテーマ別に連続してきた瑛九展ですが、今回はフォトデッサンをとりあげ、奇跡的に残っていたその型紙を紹介いたします。いわば作家の創作の秘密をときあかす、展示となるでしょう。
マン・レイらのレイヨグラム(フォトグラム)と、瑛九のフォトデッサンとの違いや 共通点をときあかす意味でも、瑛九が実際に使用した型紙の研究が、進むことが期待されます。
1930年代に瑛九 は、カメラを使わず印画紙に直接光をあてて感光させる「フォトデッサン」を創始し、作家として初めて出した作品集はフォトデッサン作品集『眠りの理由』でした。生涯で、フォトデッサンは2,000点以上が制作されたものと思われ ます。今回出品される型紙は、光にあてて感光する際に印画紙の上に置かれた型紙です。型紙には失敗した印画紙や色画用紙を使っていたり、鉛筆で下書きされた線や切り抜いたライン、そこここに瑛九の手の痕跡が感じられます。瑛九から託され大事に保存されていたこの珍しいフォトデッサン型紙、10数点を出品いたします。
瑛九(Q Ei えいきゅう 本名・杉田秀夫)
………1911年宮崎生まれ。15歳で『アトリヱ』『みづ ゑ』など美術雑誌に評論を執 筆。1936年フォトデッ サン作品集『眠りの理由』を刊行。1937年長谷川三 郎らと 自由美術家協会創立に参加。戦後は既成画壇 を批判して、1951年デモクラート美術 家協会を結  成、靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英 公ら若い作家に大きな影響を与えた。1960年48歳 で死去。
瑛九 フォトデッサン型紙 感光紙 45.6×56cm 

 

[ ジョナス・メカス展―版画と写真]
2002年3月 1日(金)〜3月16日(土)11:00〜19:00
日曜・月曜・ 祝日は休廊


 故郷リトアニアをソ連、ドイツに相次いで占領され、強制収容所そして難民キャンプを転々とする生活を経て1949年、アメリカに亡命したジョナス・メカス。リトアニアでは詩人そして新聞や文学雑誌の編集に携わっていましたが、渡米後、言葉も通じないブルックリンで機械工や清掃員などの仕事をする傍ら、一台の16ミリ・カメラを手にします。そして、自分の住む場所やリトアニア系移民の日々の生活を日記のように撮り始めます。その後は、詩人として、そして戦後アメリカのインディペンデント映画や実験映画をリードした映像作家として映画を志す若い人々に大きな影響を与えつつ、インディペンデント・フィルムの収集・保存を目的とした「アンソロジー・フィルム・アーカイブス」設立に情熱を傾け、館長として長年活動しています。
 メカスは、日常的な記録の断片を集積し、再構成する独特のスタイル「日記映画」の創始者であり、独特の言葉の響きをもつナレーションや、選択された音楽の効果、それらが相まって醸し出されるメランコリックでノスタルジックなニュアンスに富む映像は、他にはない魅力を放っています。映画に写し出される人々は、メカスの家族や友人達ですが、観客にとっても、かけがえのない肉親なのではないかと思わせます。粗い粒子の画面のなかで、笑ったり踊ったりする人々はとても愛しく、彼等を愛してしまうことを止められません。郷愁、愛情、魂、どんな言葉を使っても観客が感じてしまう心の動きを伝えることは不可能に思えます。胸を切り裂き、何かを感じて脈打つ心臓を、ここに差し出してみせるしかないのかもしれません。
 今回の企画展では版画と写真、計40点あまりを出品します。出品されるのは、近年、メカスが精力的にとりくんでいる仕事の一つ、彼自身が撮影した16mmフィルムより、3コマ程度の部分を抜粋し、写真として焼きつけるシリーズで「静止した映画フィルム」と呼ばれる仕事です。今回の写真作品シリーズ「this side of paradise」の元になった映像は、1960年代末から70年代始め、ジョン・F・ケネディの未亡人であったジャッキー・ケネディに請われ、子息のジョン・ジュニアやキャロラインといとこたちに映画を教えていた時期に撮影されたフィルムです。悲劇的な父親の死から程ない頃、父親のいない暮らしに慣れるまでの、心の準備が少しでも楽にできるよう、子供たちが何かすることをみつけてやりたいと考えたジャッキーが、子供たちに美術史を教えていたピーター・ビアードを通じて、メカスに頼みました。アンディ・ウォーホルから借り受けたモントークの古い家で、ジャッキーとその妹家族、子供達、メカス、週末にはウォーホルやビアードが加わり、皆で過ごした夏の日々の、ある時間、ある断片が作品には切り取られています。

 「それは友と共に、生きて今ここにあることの幸せと歓びを、いくたびもくりかえし感ずることのできた夏の日々。楽園の小さなかけらにも譬えられる日々だった。」   ジョナス・メカス

 映画と写真の中間領域に位置するような、この興味深い試みは、湧き出る水のように豊かなイメージを語りかけてくれます。なお、メカスが3回の来日のときに撮影した『日本の旅』(16mm、24分)の上映会を行う予定です(予約制)。  ジョナス・メカスの関連情報としては、3月7・8・9日には、メカス日本日記の会とアテネ・フランセ文化センター主催で、メカスの新作『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』の上映会が行われます。


JONAS MEKAS(ジョナス・メカス)…1922年12月24日リトアニアのセメニスキアイの農家に生まれる。1936年初めての詩集を出版。1940・42年ソ連軍(赤軍)、ナチス・ドイツのリトアニア占領。反ナチ新聞の発行が発覚し、強制収容所に送られる。1945年収容所を脱走、難民キャンプを転々とするが、マインツ大学で哲学を学ぶ。1949年ハンブルク港から出航、アメリカ・ブルックリンに移り住む。1950年様々な仕事をしながら、当時住んでいたウィリアムズバーグやリトアニア系移民を撮り始める。1954年『フィルム・カルチャー』誌を発行。1955年詩集「セメニスキウ・イディレス」第2版がヴィンカス・クレーヴ詩賞を受ける。1958年『ヴィレッジ・ヴォイス』誌に「ムービー・ジャーナル(映画日記)」を連載、後に出版(76年まで継続)。「ニュー・アメリカン・シネマ・グループ」の設立に協力、60年設立。1961年「フィルムメーカーズ・コーペラティブ(映画作家協同組合)」を組織。1964年「フィルムメーカ一ズ・シネマテーク」を組織。1965年『営倉』(1964年、68分)がヴェネツィア映画祭ドキュメンタリー部門で最優秀賞受賞。1968年ユダヤ博物館のフィルム・キュレーターを務める(〜71年)。1969年アンソロジー・フィルム・アーカイブスの設立準備を開始。1971年夏、リトアニアを訪問。1975年ベルリン映画祭、ロンドン映画祭、アムステルダム映画祭参加。1983年アンソロジー・フィルム・アーカイブス設立計画アピールのために初来日。原美術館他で「アメリカ現代版画と写真展―ジョナス・メカスと26人の仲間たち」開催。初のシルクスクリーンによる版画を制作。1989年アンソロジー・フィルム・アーカイブス開館。1991年・96年来日。1999年パリ・ギャラリ・ドゥ・アニエスで「JONAS MEKAS―“this side of paradise”fragmentof an unfinished biography」展を開催。2000年「ジョナス・メカス映像展―[thisside of paradise]」が愛知芸術文化センター他で開催。


「水上スキーにでかけたその日、ジョンが船長を務めた モントーク、1972年8月」
「John was the captain, that day, when we went water skiing , Montauk, Aug. 1972」
2000年 オリジナルプリントEd.10 30×20cm サイン有
「アンソニー、ジョン、リーはホーム・ム−ヴィー科の優等生。教授役はわたし モントーク、1972年」
「Anthony, John and Lee were perfect students of home movies, and I acted as a professor, Montauk, 1972」
2000年 オリジナルプリントEd.10 
30×20cm サイン有
「夜の街を走る車 マンハッタン
1983年 シルクスクリーンEd.75
53×37.5cm サイン有



【TOP PAGE】