概要………戦後美術のさまざまな潮流のなかにあって、一貫して抽象を追求した作家というのはそう多くはありません。ときの忘れものの2004年最初の企画展は、70年以上画家として生き、独自の抽象世界を切り開いた難波田龍起の水彩と版画を出品いたします。
難波田龍起は、少年時代に高村光太郎との偶然の出会いによって、文学そして絵画への道を開かれました。その後、光太郎と一緒に観た展覧会でゴッホの「鰊」を目にして深い感動を覚え、早稲田大学を中退して絵画を志します。戦前は風景画、ギリシャ彫刻、埴輪などをモティーフに詩的な具象絵画を制作しましたが、戦後一気に抽象に転じ、
構成的、幾何学的などの時期を経て、おぼろげに人と風景が混然一体となったようにも見える、連続したモティーフと曲線による生命感あふれる独自の画風を築きました。90歳を過ぎてなお大画面に果敢に取り組み、その生命の切れる最後まで絵筆を置かず、画家としての生涯を全うした難波田が描き出したのは、「生きもの」「生成」といった「生」そのものの形象でした。詩情や情感が込められた透明な色彩や伸びやかにうねる線描から溢れ出てくるそれらは、今なお輝きを放ち、万物の「生」を讃美し続けています。
難波田龍起(なんばた たつおき)………1905年北海道・旭川生まれ。1923年早稲田第一高等学院入学。この年の9月関東大震災、震災直後の夜警当番で高村光太郎の面識を得る。1926年早稲田大学政治経済学部入学。この頃エリザベト・ゴッホ著『回想のゴッホ』を耽読する。1927年高村光太郎と第6回日仏美術展を訪れ、ゴッホ「鰊」を見て感動する。太平洋画研究所で石膏デッサンの勉強を始める。1928年光太郎に川島理一郎を紹介され、川島の主宰する絵画研究会の金曜会に入る。この頃ルドンに傾倒。1929年第4回国画会展に「木立(中野風景)」が初入選。1942年第1回難波田龍起個人展覧会(銀座・青樹画廊)開催。1960年アーサー・フロリーより吉田遠志のアトリエで指導を受け、石版画を制作する。1978年現代版画センターより銅版画集『街と人』『海辺の詩』(各7点組、限定75部)を刊行し、ギャラリーミキモトで発表展を開催、以後全国を巡回する。この頃銅版画を集中して制作する。1982年「形象の詩人 難波田龍起展」が北海道・旭川美術館で開催される。1987年東京国立近代美術館で「今日の作家―難波田龍起展」が開催される。1988年第29回毎日芸術賞を受賞。1994年「難波田龍起展」が世田谷美術館で開催される。1995年ときの忘れものより「難波田龍起銅版画集 古代を想う」(4点組、限定35部)を刊行。1996年文化功労者に選ばれる。1997年逝去。 |
「青のファンタジー」 1993年
水彩 37.0×53.2cm サイン有 |
「秋色」 1979年 水彩
23.0×20.5cm サイン有 |
「恵庭の牧場にて」 1953年
水彩 23.0×26.0cm サイン有 |
「無題」 1963年頃 リトグラフ
42.0×27.5cm Ed.20
サイン有 |
「昼と夜」 1978年 銅版カラー
20.0×15.0cm Ed.75 サイン有 |
「飛翔」 1978年 銅版カラー
28.0×18.0cm Ed.35 サイン有 |