2009年4月の展覧会 ◆マン・レイ展
会期=2009年4月3日(金)―4月25日(土) 12:00-19:00 *日・月・祝日休廊 マン・レイは、自分の名前が写真家として後世に残るのを果たして潔しとしたのでしょうか。画家として1915年に最初の個展を開催したとき、職業写真家の撮る作品写真に満足できず、自分でカメラを購入して自作を撮影したのが写真を撮り始めるきっかけでした。そして、1921年ダダイストとしてパリに渡ったあと、生活を助けてくれたのがやはりこのカメラでした。友人の作品写真を撮るうちに、作家に対する興味をポートレートを撮ることで表現するようになり、やがてファッション写真や上流階級の人たちの肖像写真によって写真家としての名声・実績を得ます。時代は、まるでマン・レイをその記録者として指名したかのように、キキをはじめ、デュシャン、メレット・オッペンハイムらシュルレアリストの作家たちをモデルとして用意します。そして、偶然レイヨグラフの技法を見つけ、ソラリゼーションを発見して、自分の作品に取り入れていきます。「写真は芸術ではない。まして私は写真家でもない。」というマン・レイの言葉は、もちろんそのままの意味ではありません。まさに今のコンテンポラリーの作家が、様々なメディアを駆使する中で写真をひとつのメディアとして使うというのと同じ感覚だったはずです。この展覧会では、画家、版画家、立体作家、映像作家、そして、写真家であったマン・レイの活動の一端を紹介するために、写真、オブジェ、版画など20点を出品します。 4月11日(土)17時より、マン・レイ・イストとして知られる石原輝雄氏をお招きしてギャラリートークを開催しました。 ■マン・レイ(Man Ray, 1890年8月27日〜 1976年11月18日) アメリカ生まれ、本名エマニュエル・ラドニツキー。1915年頃からマン・レイと名乗る。はじめ建築を学ぶが、1908年頃からアルフレッド・スティーグリッツの291画廊などに通うようになり、絵画の道を選んで1912年フェレール・センターで絵を学ぶ。1915年初個展を開催するが不評に終わる。同年、マルセル・デュシャンと知り合う。この頃から自分の作品を記録するためカメラで撮影する。1920年デュシャンらと前衛芸術の美術館「ソシエテ・アノニム」を創設。翌年、デュシャンと雑誌『ニューヨーク・ダダ』を発行するが1号で廃刊。同年、パリに移住しダダイストたちと交流を始める。画家の作品や作家のポートレートを撮影し、「写真家」として知られるようになる。偶然見つけた技法にトリスタン・ツァラがレイヨグラフと命名(マン・レイ自身が命名したという説もあり)。キキと知り合い同棲を始める。1922年頃からファッション写真や肖像写真などを撮り、生計を立てる。1924年以降ブルトンらのシュルレアリスム運動に協力するが、ダダイストとの交流も継続。1926年初の映像作品「エマク・バキア」発表。1929年リー・ミラーが暗室助手となり、この年、ソラリゼーションを発見する。1940年ドイツ軍のパリ侵攻に伴い、単身アメリカに戻る。ニューヨークからハリウッドに行き、ジュリエットと知り合う。1941年写真を撮らないと宣言、パリに残してきた油彩の複製を制作。1951年、再びパリに移る。この頃からピエール・ガスマンがプリンターとして手伝う。1961年ヴェネツィア・ビエンナーレで金賞を受賞。自伝を書き始める(1963年出版)。1966年アメリカで初の大回顧展がロサンゼルス・カウンティ美術館で開かれる。1976年ヴェネツィア・ビエンナーレで回顧展開催。フランス政府より芸術功労章を授与される。11月死去(享年86)。1994年ジュリエットを中心とする「マン・レイ・アルチーヴ」より、12,000枚の写真ネガ・フィルムと5,000枚の密着紙焼き、そして資料類がポンピドゥーセンターのパリ国立近代美術館に寄贈された。 出品リスト 2009.04.03-04.25
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