◆ジョナス・メカス新作写真展
会期=前期:2009年9月1日[火]―9月19日[土] 12:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
展示風景後援:駐日リトアニア共和国大使館 2006年にはリトアニア代表としてヴェネチア・ビエンナーレに出品し、87歳になる今年も、ロンドンでの展覧会に向けて精力的に制作活動を続けているジョナス・メカスさんから新作45点が到着しました。メカスが発表している写真作品は自ら<フローズン・フィルム・フレームズ−静止する映画>と名づけている通り、メカス自身が撮影した16mmフィルムより、数コマ程度の部分を抜き出し、写真として焼きつけるシリーズです。 常に持ち歩いているカメラが捕らえた日記的な記録映像を集成し、メカス独自の「日記映画」が実現された後に、そのフィルムからいくつかのコマを選択し、焼き付ける方法で制作されています。 今回展示される新作写真は45点、「ジョン・レノンとオノ・ヨーコ」「詩人・吉増剛造」「リトアニアへの旅の追憶より、母」など、メカス映画の主要な登場人物から、何気ない道ばたの花、日本の子供たちまで、メカス映像の一瞬のきらめきが見事に印画紙の上に定着され、静かに私たちに語りかけます。 会期ぎりぎりにニューヨークから着いたので、まだホームページへの掲載が完了していませんが、前回のものよりはひとまわり大きいサイズです(35.4×27.5cm)。 発表価格は、@157,500円(シート、税込)です。 ●9月5日(土)17時よりギャラリートーク「メカスと私」を開催します。 講師:吉増剛造(詩人)*要予約(参加費1,000円/1ドリンク付) ●同日18時半より吉増剛造さんと、ゲストのセバスチャンさんを囲んでパーティを開催します。 どなたでも参加できます。メカスさんの来日はありませんが、かわりに息子のセバスチャンさんが留学先の上海から初めて来日し、参加されます。 ●18日(金)19時より映像作品「リトアニアへの旅の追憶」の上映会を開催します。 上映作品「リトアニアへの旅の追憶」 *要予約(参加費1,000円/1ドリンク付) ■ジョナス・メカス Jonas MEKAS 1922年リトアニア生まれ。ナチス・ドイツのリトアニア占領により、強制収容所に送られるが、45年脱走。難民キャンプを転々とした後、49年アメリカに亡命。16ミリカメラで自分の周りの日常を日記のように撮り始める。65年『営倉』がヴェネツィア映画祭で最優秀賞受賞。83年初来日。89年NYにアンソロジー・フィルム・アーカイヴズを設立。2002、05年ときの忘れもので個展。 <ジョナス・メカス新作写真>出品リスト 2009.9.1[Tue] - 9.19[Sat] ギャラリートーク 2009年9月5日(土) コレクターの声 第19回 「リトアニアへの旅の追憶」を見て 中村恵一 2009年9月28日 ジョナス・メカスは映画の数コマをプリントした作品を「フローズン・フィルム・フレームズ」=「静止した映画」とよんでいるが、今回の上映はヴィデオでもDVDでもなく、16ミリのフィルムであったところに意味があったように思う。なにより、改めて映像の力を思い知らされたのは、同じ位置に上映され続ける小さな光の四角のフレームを87分にもわたって観客すべてが見続けたことである。同様なことを絵画や写真に求めることは、ほぼ不可能であろう。フィルムで上映したことによる意味のひとつに、映写機の構造がある。映写機にはシャッターがあるので、実際には動いて光り続けているように見える画面が実はかなり闇ばかりなのだ。一瞬の光とほとんどの闇の連続が映画の本質なのである。つまり、フィルムの場合には我々は闇を覗いていることになる。暗闇の中に自らをおいたことがあるだろうか。完全な暗闇の場合、人によっては根源的な恐怖を感じることもあるだろう。しかし一方、暗闇は我々の視覚以外の感覚を研ぎ澄ますことになる。そして、いわゆる感覚レベルではなく、思考レベルでの感覚を研ぎ澄ますことにもなる。闇におかれていると深い思索へと自然に入ってゆくことがある。フィルムを使って暗闇の中で映写機によって上映を行うことは、観客が映像を受け取るばかりではなく、その映像について考えるという物理的な機会を与えていることに他ならないのだと思う。ここにフィルムで上映を行う意味があったのだ。 87分に及ぶ映画のほとんどは、メカスの個人的な知己の日常的な情景の連続である。メカスは「幸せな場面だけを撮影したい」とどこかで述べていたが、フィルムの中のたとえば母親や兄弟、親族たちは水を汲み、火を焚き、食事を作り、歩き、大気を感じているのだ。つまり「生きている実感」だけが積み重ねられている。メカスにとって生きる=撮影する事だったのだろうし、フィルムの中にこそメカスの生の記憶が込められているのだろう。そうした個人的なフィルムを見るのはどういう感じなのだろうかと思ったが、これが不思議なほどに違和感なく、面白いのはどうしたことだろうか。もう一つ面白かったことは、ほとんどメカスがモンタージュやフェードを使っていない点だった。小手先で意味をつなぎたくはなかったのだろう。16ミリのムービーキャメラはマガジンに制約があって、短い時間しか撮影ができない。そうした制約を逆に武器にしているのは、まるで日本の定型詩のようだ。16ミリフィルムは1秒間に24コマの写真を撮影する。87分間ということは、5,220秒、125,280枚の写真を観たことになる。その膨大な量の写真たちにゆっくりとしたメカスの言葉がかさねられてゆく。その言葉のどれもが私には詩としてしか聞こえなかったのだった。
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