◆S氏コレクション 駒井哲郎PART I展
会期=2009年11月20日[金]―11月28日[土] 12:00-19:00 ※会期中無休 サラリーマンコレクターであるS氏が35年かけて蒐集した駒井哲郎の銅版画の中から、第一回展示として30点を出品します。 ■駒井哲郎(Tetsuro KOMAI) 1920年東京生まれ。35年西田武雄主宰の日本エッチング研究所で銅版画を学ぶ。42年東京美術学校卒業。48年第16回日本版画協会展で入選。51年春陽会会員となる。第1回サンパウロ・ビエンナ−レでコロニ−賞、52年第2回ルガノ「白と黒」国際展覧会で国際次賞受賞。53年資生堂画廊で初個展。浜口陽三、関野凖一郎らと「日本銅版画家協会」を結成。54年渡仏、パリ国立美術学校のビュラン教室に在籍、翌年帰国。56年南画廊の開廊展で個展。57年第1回東京国際版画ビエンナ−レ展出品。58年女子美術大学非常勤講師(63年まで)。59年日本版画協会賞受賞。第5回日本国際美術展でブリヂストン美術館賞受賞。70年多摩美術大学教授(62年から非常勤講師を務める)。フィレンツェ美術アカデミ−の名誉会員となる。72年東京芸術大学教授(59年から非常勤講師を務める)。76年永逝(享年56)。銅版画のパイオニアとして大きな足跡を残す。91年資生堂ギャラリ−で「没後15年 銅版画の詩人 駒井哲郎回顧展」。 <S氏コレクション 駒井哲郎 PART I 展>出品リスト 2009.11.20[Fri] - 11.28[Sat]
展示風景 『ときの忘れものアーカイブスvol.4/S氏コレクション 駒井哲郎 PART I 展』 コレクションの異端―S氏駒井哲郎コレクションについて思うこと 瀧沢恭司 2009年12月7日 私はS氏という人を知らない。画廊主によれば、今回展示される駒井哲郎の銅版画約数十点のほかに萩原英雄の版画を多数コレクションしているという。さらに油彩画などもコレクションしているらしい。それはすごいことだ。人の常として私も、さぞかし資産家か、高収入がある人だろうと想像した。ところが画廊主は言った。普通のサラリーマンの方で、特別な資産家でもない、と。そんな人がどうしたらそんなに美術品を蒐集できるのだろうか。駒井哲郎の作品といえば、安くないのが実情だ。どうやら、S氏は長い時間をかけてこつこつと作品を集めてきたらしい。駒井については、およそ35年前から蒐集を開始したという。では、年齢もそれ相応の方ですね、という質問に、50代後半だと思いますよ、と画廊主は軽く言った。そうすると二十代前半から駒井哲郎作品を集めてきたということになる。 今から35年前といえば1974年。気になって、駒井作品が当時どのくらいで購入できたか、版画雑誌で調べてみた。『版画藝術』No.5(1974年4月)の巻末に掲載された画廊別版画価格リストによれば、駒井作品の取り扱い画廊だった自由が丘画廊が《平原》(1972)に45,000円、《食卓T》(1959)に70,000円という価格を付けていた。《束の間の幻影》(1951)には150,000円の価格を付けている。サンパウロ・ビエンナーレの受賞作とあって、さすがに高い。翌年4月発行の同誌には、同じ画廊が《黄色い家》(1960)に85,000円、詩画集『人それを呼んで反歌という』(1965、以下『反歌』と表記)表紙の「かたつむり」作品に80,000円、この詩画集に収められた《残雪譜》に60,000円を付けている。ちがう雑誌も見てみよう。『プリントアート』15号(1974年4月)には、同社が発行した《二樹》(1972)の頒布情報が掲載されていて、15,000円とあった。 他の作家に目を移すと、当時、浜口陽三と長谷川潔の銅版画は共に300,000〜400,000円程度の頒布価格が付いていて、日本人作家ではすでに別格の感がある。それ以外で価格が高いのは池田満寿夫作品である。ビエンナーレでの度重なる受賞による作品の国際的な流通と、それ自体のオリジナル性の高さなどへの評価が反映されていたのだろう。それ以外の作家は―特に戦後登場した日本の現代作家の版画は、おしなべて10,000から30,000円程度の頒布価格が付いている。 さて、その当時のサラリーマンの収入はといえば、大卒の国家公務員の初任給が73,000円程度だった。それが三年後の1977年には100,000円前後に跳ね上がっている。さすがに高度経済成長期である。 一方、駒井哲郎の作品価格も上昇していった。それは物価の上昇率よりもだんぜん大きかった。1976年に作家が死去したことも大きく影響したが、それ以上に作品の評価が高まり、戦後日本の版画史への位置づけが不動となったことがその要因である。そして、駒井の世界に強力にひきよせられるコレクターが増えたことや、相次いで開館する美術館がこぞってコレクションしたからでもあった。1983年の頒布価格を見てみよう。《丸の内風景》(1938)が300,000円、《月の兎》(1951)が600,000円である(『版画藝術』40号)。1988年には、《死んだ鳥の静物》(1962)―S氏が何と4点も所蔵する作品だ―が650,000円だった(『版画藝術』60号)。 ごく普通のサラリーマン生活をおくってきたというS氏は、こうした頒布状況にあった駒井の版画を、収入をやり繰りしながら大量に蒐集するに至ったというわけだ。その熱意は想像を超えている。 そこで気になるのがコレクションの特徴である。その最大の特徴は、一作品(一イメージ)について複数の刷りを所蔵していることだ。普通は一つの作品を所蔵したら、次はそれ以外の作品に目がいくというものだろう。まあ、二枚の刷りを所蔵するということは、場合によっては普通に在り得ることかもしれない。最初に入手した刷りの状態の良し悪しなどと比較して、別の刷りを入手したくなるというケースもあるだろうと想像できるからだ。 そのケースのひとつが、『反歌』表紙画コレクションである。
まず前者は、創造美術教育協会創立(1952年)に参加し、新しい美術教育運動を推進していた久保貞次郎が使い始めたことばであった。美術に無関心な人々に三点以上の作品を所蔵させ、それによって美術への関心を高めることや広めること、さらに作家を支援して、世俗的な評価に迎合しない独創的な芸術家を輩出することを意図して続けられた運動だった。その運動は1960年代後半まで続いたが、その余熱が「ときの忘れもの」の画廊主である綿貫不二夫氏がかつて主宰した「現代版画センター」を生み出していった。 一方後者は、1957年開催の第1回東京国際版画ビエンナーレを機に発足した現代版画制作と頒布の組織であり、美術出版社サービスセンター内に事務所が置かれ、「小コレクター」運動同様にやはり久保が中心となって1960年代末まで続けられた。その期間に機関誌として『版画』が発行され、それが発展して『季刊版画』という専門誌まで創刊された(1968年10月)。 1970年代半ばから始まったS氏の駒井作品の蒐集は、実は、こうした「小コレクター」運動や「版画友の会」の動きにうながされて出現した版画コレクターの歴史の展開の中に位置づけられるのである。またS氏の版画コレクションは、1960年代後半から70年代にかけておとづれた版画の隆盛と、先述のような動きを受けて形成された版画蒐集への関心の高まり、そして1970年代前半に創刊された様々な版画雑誌―『プリントアート』(1971年創刊)、『gq』(1972年創刊)、『版画藝術』(1973年創刊)、『版画センターニュース』(1975年創刊)など―の発行を背景に開始され、展開されたものであったことも踏まえておくべきである。 このようなS氏の駒井哲郎コレクション展が、版画コレクションを推奨した久保貞次郎のもとで版画を生業にしていた綿貫氏の画廊で開催されていることは、少なからず歴史の循環を感じさせてくれる出来事だ。 (たきざわきょうじ) ■瀧沢恭司 Kyoji TAKIZAWA 1962年生 日本大学芸術学部卒業。1987年より町田市立国際版画美術館学芸員。日本近代美術史専攻。 企画展覧会に「ブブノワ1886-1983」(1995年)、「極東ロシアのモダニズム1918-1928」(2002年)、「美術家たちの『南洋群島』」(2008年)など。 著書に、『大正期新興美術資料集成』(共著、2006年、国書刊行会)、コレクション・モダン都市文化『構成主義とマヴォ』(ゆまに書房、2007年)など。論文に「マヴォの国際性とオリジナリティー」『Fuji Xerox Art Bulletin』(2005年)など。 見積り請求(在庫確認)フォーム |