◆没後20年 孤高のモダニスト福田勝治写真展 会期=2011年1月15日[土]―1月29日[土] 12:00-19:00 ※会期中無休 福田勝治は、1899年山口県に生まれ、昭和を通して活躍した写真家です。2011年が没後20年にあたります。ときの忘れものでは、新春の特別企画として、代表作《心の小窓》《光りの貝殻》《静物》の3点と、1955年にイタリアで撮影された作品15点(未発表)の計18点を展観し、福田勝治の作品と、その功績をあらためて顕彰し、ご紹介いたします。 福田勝治は、その初期において造形的・構成的な静物写真を発表しますが、実際に写真家として世に出たのは1936年『アサヒカメラ』に連載した「カメラ診断」での成功によってであり、37歳の時でした。 『女の写し方』『現像の実際』『春の写真術』『花の写し方』などアマチュア写真家向けの手引書がベストセラーとなり、広告写真も手がけるようになります。同時に、女性美を追求したポートレートやヌードで高い評価を受けますが、日中戦争から太平洋戦争に至る中、そういった作品が自由に発表出来なくなります。それでも、時局に屈することなく自らのスタイルで制作を続けます。 戦争が終わるやいなや、すぐにヌード写真集を次々に出版し、戦後の写真界をリードします。しかし間もなく、土門拳の提唱したリアリズム写真主義の批判の標的とされ、不遇な境遇となりますが、自らの美学を貫き、「孤高のモダニスト」として自身の求める写真を撮り続けました。 1955年のイタリア旅行では、実に5,000枚もの写真を撮影し、翌年の「イタリア写真展」は大好評となり、多くの写真ファンの支持を得ました。その後、〈京都〉〈銀座〉〈隅田川〉と日本を見つめ直した連作を発表し、実験的なカラー写真〈花の裸婦〉のシリーズではユーモア溢れる自由な創造力を示しました。 1991年、多くの作品と著作を遺して92年の生涯を閉じます。 ●福田勝治の言葉 「写真は光の芸術である。モノクロームは黒と白の単色の世界ではない。黒と白に還元された抽象と象徴の造形世界であり、光が描く造形美の芸術である。(中略)女性の美も光の中で描かれた美しさであって、日常的な美ではない、光によって造形化された美である。静物も、裸婦も、イタリアの風物も同じである。光によっていかに自然をより美しく、豊に、ドラマティックに描くかが写真家の創造活動であると信じている。写真は光を発見し、選択することによって、目に映る以上のものを見、美を創造していく仕事である。」『ソノラマ写真選書19 頌歌』(朝日ソノラマ、1979年刊) ■福田勝治 Katsuji FUKUDA 1899年山口県生まれ。1921年東京で高千穂製作所に勤務しながらヴェス単で写真を撮り始める。関東大震災後、大阪に移る。1926年「第1回日本写真美術展」でイルフォード・ダイヤモンド賞を受賞。翌年、堺市で写真館を開業するもうまく行かず、生活が困窮する中でもバウハウスの影響を受けた構成的な静物写真の作品制作を続ける。1936年『アサヒカメラ』に連載された「カメラ診断」が好評となり、それをまとめた『女の写し方』をはじめとして多くの指南書を出版、広告写真でも活躍した。戦後、女性美を追求したヌード作品を発表し、日本写真界をリードする存在となる。そのなかの《光の貝殻(1949)》は福田の代表作となる。リアリズム写真運動が写真界を席巻する中でも、自分のスタイルを崩すことなく、孤高をつらぬく。1955年キャノン・コンテストで推薦を受けてイタリア旅行に招待される。翌年、「イタリア写真展」を開催し大好評を得た。この後、〈京都〉〈銀座〉〈隅田川〉などのシリーズを発表。 1950年代末より実験的なカラー写真の制作を始め、1970年には日本橋高島屋で「花の裸婦・福田勝治写真展」が開催された。1991年逝去。享年92。 山口県立美術館はじめ、横浜美術館、川崎市市民ミュージアム、東京都写真美術館に作品が所蔵されている。 飯沢耕太郎のエッセイ 福田勝治―孤高の唯美主義者 2011年1月 <没後20年 孤高のモダニスト福田勝治写真展>出品リスト 2011.1.15[Sat] - 1.29[Sat]
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