◆戦後の前衛美術‘50〜‘70 S氏コレクションより(入札式)
会期=2014年11月29日[土]―12月6日[土] 12:00-19:00 ※会期中無休

1950年代から前衛美術運動に参加、幅広い分野で半世紀にわたり活躍したS氏のコレクションより、45点を入札方式で頒布します。
出品リストを郵送希望の方はお申し込みください。
入札は会場、メール、ファックス、郵送で受付けます。
入札締切り:12月6日(土)17時必着

●入札方法1/info@tokinowasuremono.comへのメール入札
件名に「メール入札」と書き、お名前、ご住所、入札を希望する作品のロットNo.、作家名、作品タイトル、入札価格、作品の発送方法(配送/引き取り)を必ずご明記の上、お送り下さい。

●入札方法2/会場入札
会場での直接入札を受け付けます。実物をご覧になりたい方は是非お越しください。

●入札方法3/郵送、ファックス入札
郵送の場合は、12月6日(土)必着でお願いします。
ファックスでの入札の場合は、締切り間際になると回線が混雑し受け付けできないことがありますので、お早めに送信してください。
それと同時に、必ず電話での確認をお願いします。
入札には以下の入札表をダウンロードし、全ての項目にご記入ください。
入札表(PDF)
FAX: 03-3401-1604
住所:〒106-0017 東京都港区南青山3-3-3 青山Cube101 ときの忘れもの

★いずれの方法も入札締切りは12月6日(土)17時必着です。

★落札方法はリスクの少ない「中間落札方式」にします。
最高金額を入札した方を落札者とし、最高入札金額と次点の入札金額との中間を落札金額とします。
例えば、最高入札金額が20万円で、次点の方の入札金額が10万円だった場合、その中間の15万円が落札金額となります。
入札者が一名のみの場合は、入札金額と最低落札金額との中間が落札金額となります。
リスクが少なく、安心して入札できるよう配慮した方法です。

★最高入札価格の方が複数いらっしゃった場合は、当方にて抽選とさせていただきます。

★入札の際に、落札した場合の作品の受取方法をご指定ください。

落札金額には別途消費税がかかり、梱包送料は実費をいただきます。
ギャラリーに引き取りに見える方は入札時にお知らせください。
引取の方は、送料はいただきません。

★落札・不落札通知は開札後、ご連絡致します。

出展作家:赤瀬川原平、秋山静、荒木哲夫、磯辺行久、入野忠芳、岩中徳次郎、因藤寿、内田豊清、内間安瑆、漆原英子、岡本太郎、桂川寛、鴨居羊子、河原温、斎藤吾朗、斎藤義重、坂本昌也、佐野儀雄、篠原有司男、菅木志雄、菅創吉、杉原清一、高山良策、建畠覚造、田淵安一、堂本尚郎、日和崎尊夫、三井永一、杢田たけを、元永定正、山口健、吉田克朗、吉仲太造、吉村益信、脇田愛二郎、アルマン、P.アレシンスキー、P.クレー、ケーニグ、P.スーラージュ、セザール、フェイト、フォートリエ、P.モンドリアン、他

<作家略歴>

 

■赤瀬川原平 Genpei AKASEGAWA(1937-2014) 横浜生まれ。本名、 赤瀬川克彦。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。純文学作家としては「尾辻克彦」と名乗る。直木賞作家の赤瀬川隼は実兄。1958年読売アンデパンダン展に出品、以後1964年の終了時まで出品する。1960年篠原有司男、吉村益信、荒川修作らと「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加。1963年には中西夏之、高松次郎と「ハイレッド・センター」の活動を開始し、「反芸術」を代表する作家となる。そのころ制作した一連の《模型千円札》が「通貨及証券模造取締法」違反で起訴された。この「千円札裁判」では瀧口修造らが特別弁護人として参加、芸術とは何かが法廷で争われた。前衛美術家、漫画家・イラストレーター、小説家・エッセイスト、写真家など多彩な顔をもち、1981年には芥川賞を受賞。「超芸術トマソン」「路上観察学会」「ライカ同盟」などの活動で、街中で発見した奇妙な物件を写真に記録・発表した。 千葉市美術館で「赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで」が開催されている。

 

■秋山静 Shizuka AKIYAMA(1932-1997) 茨城県生まれ。青一色のグラデーションで構成された神秘的な木版画で 国際的な評価を得る。1977年第8回版画グランプリ受賞。1979年日本現代版画 展(ボストン)、1983年現代日本版画ポーランド巡回展。1987年新構造社展文 部大臣賞受賞。1995年日韓現代美術展(ソウル)に出品。 女性をモチーフに清潔なエロスを表現した独特の表現が高く評価された。

 

■荒木哲夫 Tetsuo ARAKI(1937-1984) 東京生まれ。10歳の時、肋膜からカリエスという宿痾に襲われる。1962年武蔵野美術大学卒業。パリのフリードランデル工房で銅版画を学ぶ。1968年、1970年クラコウ国際版画ビエンナーレ・クラコ ウ国立美術館賞。帰国後は東京芸術大学で駒井哲郎に師事、銅版画を中心に多様な技法を駆使して独特の心象風景を描いた。46歳の若さで逝き、その才能が惜しまれた。

 

■磯辺行久 Yukihisa ISOBE(1936-) 東京生まれ。高校時代に、瑛九らのデモクラート美術家協会に入会、リ トグラフの制作を始める。62年読売アンデパンダン展にワッペンを連ねたレリ ーフ作品を出品し注目を集める。瑛九のもとに集まった若い才能の中で池田満寿夫、靉嘔と三羽烏といわれ、63年には日本国際美術展で優秀賞を受賞。66年渡米、建築や都市計画に関心を移し、アメリカと日本でエコロジカル・プランニ ングを手掛ける。91年目黒区美術館で個展開催。再び美術家として制作活動を再開した。

 

■入野忠芳 Tadayoshi IRINO(1939-) 広島市生まれ。1945年被爆。62年武蔵野美術大学卒業。75年現代日本美術展で「裂罅(れっか)」により大賞受賞。2002年文化庁特別派遣芸術家在外研修員。2006年広島文化賞受賞。2011年目黒区美術館の「原爆を視る」展に15才から30才までの油彩を出品予定だったが、<大震災の惨状や原発事故による深刻な影響を受けている多くの方々の心情等に配慮>して同展は中止となった。登山家であり、旅のエッセイも手がけている。 http://www.geocities.jp/irinoo/profile.html

 

■岩中徳次郎 Tokujiro IWANAKA(1897-1989) 和歌山県生まれ。1930年斉藤与里に師事する。小学校教諭を務める傍ら制作、発表を続ける。塊樹社展、東光会展、文展などに出品していたが、1950年岡本治男らと三重県津市広明町に津美術研究所を開設。1952年抽象に転じる。1966年オップ・アートの系列に属する幾何学的抽象を志向する作家たちのニュー・ジォメトリック・アートグループに同人として参加する。アメリカを初め、パリやドイツなど海外でのグループ展に参加し海外で高い評価を受けた。絵画への理論的研究が明確な方法となって、80歳に近い頃から明晰な幾何学的抽象の作品を多く描いた。 著書に『形(フォルム)−美しい造形 の秘密を解く鍵』(1958年アトリエ社)、『フォルムの基本−デザインの為 に』(1960年美術出版社)がある。1984年には近代日本画の技法(TX)美しい構図展(山種美術館)の企画を担当するなど幅広く活躍した。1994年三重県立美術館で岩中徳次郎展が開催された。

 

■因藤寿 Hisashi INDO(1925-2009) 北海道稚内市生まれ。苫小牧工業学校を卒業後、北海道大学超短波研究所に勤務する傍ら1947年頃よりクレヨン画を始める。1950年第2回読売アンデパンダン展に出品。心象を表現した鮮やかな画面から、1956年以降はモノクロームによる表現を展開する。1963年埼玉県大宮に移り個展を中心に精力的に制作発表を行なう。1970年代からな紫の絵具を何層にも描き重ねる独自の技法で注目を集めた。2002年北海道立旭川美術館で回顧展「因藤壽展」が開催された。

 

■内間安瑆 Ansei UCHIMA(1921-2000) 沖縄からの移民の子としてアメリカに生れる。40年日本に留学、早稲田大学で建築を学ぶ。戦後、創作版画の恩地孝四郎に巡り逢い抽象木版に志す。55年東京・養清堂画廊 で初個展。60年帰米、以降ニューヨーク在住。62,70年グッゲンハイム・フェ ローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授。浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と呼ぶ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出す。鮮やかな色彩のハーモニー、微妙なぼかしが入った色面が幾重にも重なる複雑な構成、多色にもかかわらず画面全体には静かな気品が漂う作品群はアメリカで高い評価を獲得した。2014年沖縄県立美術館で回顧展が開催された。

 

■漆原英子 Hideko URUSHIBARA(1928-2002) 父は漆原木虫。1946年聖心インターナショナルを卒業。阿部展也のアトリエで学ぶ。無意識にペンや筆を走らせる手法による幾何学的な構成による作品や、動物と人間が合体したような幻想絵画を多く描いた。狂気をはらんだ美を絶妙な色彩感覚と構図で表現し、高い評価を得た。

 

■岡本太郎 Taro OKAMOTO(1911-1996) 神奈川県生まれ。1930年から1940年までをフランスで過ごす。 1948年花田清輝らと「夜の会」を結成し前衛美術運動を始め、同年9月に「アヴァンギャルド芸術研究会」を結成。抽象美術運動やシュルレアリスム運動と 直接関わる。戦後、絵画や立体を精力的に制作するだけでなく、旺盛な執筆活動も行なった。1969年壁画《明日の神話》完成(メキシコ)。1970年万国博にて《太陽の塔》を制作する。

 

■桂川寛 Hiroshi KATSURAGAWA(1924-2011) 北海道生まれ。1948年多摩美術専門学校入学。1949年勅使河原宏、 関根弘、瀬木慎一、安部公房らが結成した「世紀の会」に参加。1950年第2回読売アンデパンダン展に「開花期」出品。1952年前衛美術会に入会、小河内ダ ム建設反対運動に加わりルポタージュ絵画を制作。1968年「反戦と開放展」、1975年「天皇・戦争・アジア展」、1987年「パレスチナ連帯展」を開 催。2004年『廃墟の前衛――回想の戦後美術』を刊行。

 

■鴨居羊子 Yoko KAMOI(1925-1991) 大阪生まれ。父はジャーナリストの鴨居悠、弟は画家の鴨居玲。1945年20歳の頃美術家を目指す。新聞社に入社、1955年大阪読売新聞学芸記者を辞めて独立。下着デザイン・製造販売に着手。白い質素な下着しかなかった時代に、カラカラフルな下着を売り出し人気を博す。1956年下着メーカー「チュニック制作室」を創設。1970年個展「ヘラクリオンの体」開催。画家、デザイナーとして活躍し、文筆活動でも才能を発揮した。2010年川崎市岡本太郎美術館で「前衛下着道 鴨居羊子とその時代」が開催された。

 

■河原温 On KAWARA(1933-2014) 愛知県生まれ。1952年上京、翌年からアンデパンダン展に出品し、「浴室」「物置小屋」シリーズで時代の閉塞感を表わし注目される。その後、メキシコ、パリなどを経て、65年より活動の拠点をニューヨーク へと移し、1966年1月4日より「日付絵画」(デイト・ペインティング)の制作を開始する。時間、空間、意識、存在といっ たコンセプチュアルアートにおける第一人者として国際的にきわめて高い評価を受けている。後年の河原はインタビューや写真撮影に応じなくなり、自作について文章を書くこともなくなった。2015年にはニューヨーク、グッゲンハイム美術館で回顧展が予定されている。

 

■斎藤吾朗 Goro SAITO(1947-) 愛知県生まれ。多摩美術大学油絵科卒業。1971年同大学研究科修了。1973年日本人では初のルーブル美術館でのモナ・リザの公認模写を行う。1974年「屋根の上の記念撮影」第18回シェル美術賞展で2等受賞。1975年 「屋根の上の七五三」で第43回独立展独立賞および海老原賞を受賞。1998年 「おばあさんのモナ・リザ」油絵の版画版(2003)がルーブル美術館館長の所蔵品となっている。自らが赤絵と呼ぶ鮮やかな赤色を基調とした絵で三河の風景や身近な題材を描く。独立美術協会会員。1998年池田20世紀美術館で「斎藤吾朗の世界展」が開催された。

 

■斎藤義重 Yoshishige SAITO(1904-2001) 東京生まれ。造形作家。大正から昭和初期、当時さかんに移入された ヨーロッパの前衛美術、とりわけダダと構成主義を手がかりに自身の表現を模 索。二科展にレリーフ状の作品を出品しようとしたところ絵画部・彫刻部とも に受け付けられなかったというように、戦前から既成のジャンル分けではとらえきれない作品によって異彩をはなつ。戦後、国内外からの評価が高まり多摩美術大学の斎藤教室からは関根伸夫はじめ1970年前後に登場する「もの派」を筆頭に、すぐれた現代作家が輩出した。1960年代前半に集中して取り組んだ電動ドリルで合板に点や線 を刻み絵具を塗りこめる作品では、板面を刻む行為と、その痕跡としての傷が 主題となっている。晩年は黒色に塗布された板を連結した「複合体」シリーズへと進展し、独自の構成主義的作品を制作した。97歳の長寿を全うしたが、生前から東京国立近代美術館はじめ主要美術館で幾度も回顧展が開催されている。

 

■篠原有司男 Ushio SHINOHARA(1932-) 東京生まれ。本名・牛男。愛称「ギューチャン」。1952年東京芸術大学美術学部油絵科に入学、林武に師事するが中退。1960年「読売アンデパンダン展」で活躍していた吉村益信、赤瀬川原平、荒川修作らとともに「ネオ・ダダイズム・ オルガナイザーズ」を結成。その後も「イミテーション・アート」や「花魁シ リーズ」などの作品を次々と発表。「ボクシング・ペインティング」は篠原の代名詞となるが、これはマスメディア向けのパフォーマンスであり、芸術のつ もりは毛頭なかったと、のちに赤瀬川との対談で明かしている。1969年、ロ ックフェラー三世基金の奨学金を受けて渡米し、以後ニューヨークに在住。2007年第48回毎日芸術賞を受賞。2012年、ニューヨーク州立大学ニューパルス校ドースキー美術館で初の回顧展を開催。2013年篠原有司男・乃り子夫妻の日常を綴ったドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』(監督:ザッカリー・ハインザーリング)が話題となった。

 

■菅木志雄 Kishio SUGA(1944-) 岩手県生まれ。多摩美術大学油画科で学ぶ。在学中に斎藤義重と高松次郎に影響を受け、「もの派」グループの中心メンバーとなる。視角を操作する絵や立体作品の制作と同時に素材を使った《積層空間(1968)》のような作品制作を始める。1967年第11回シェル美術賞展1等賞受賞。1968年椿近代画廊で初個展。1970年第5回ジャパン・アート・フェスティバル大賞を受賞。ギャラリーのみならず、東京都現代美術館など各地の美術館で個展を開催する。海外での発表(1973年パリビエンナーレ、1986年ポンピドゥー美術館、1994年グッゲ ンハイム美術館等)も多い。夫人は詩人・小説家の富岡多恵子。

 

■菅創吉 Sokichi SUGA(1905-1982) 兵庫県生まれ。家庭の事情から美術学校に進学できず日本画家の秋吉蘇月に師事する。20歳で上京し独学で制作を続ける。戦後、毎日新聞嘱託の画家として活動する。1963年から米国に渡り制作と発表を続け高い評価を得 る。美術団体に属さず個展を中心に日本画、油彩画、立体作品の制作、発表を続けてきた。1982年伊東の池田20世紀美術館での回顧展の会期中に死去。1996年3月NHKテレビの「日曜美術館」で放送された「菅創吉の世界」が多くの人々に強烈な印象を与え、再評価の気運が高まった。

 

■高山良策 Ryosaku TAKAYAMA(1917-1982) 山梨県生まれ。兄は日本画家の高山無双。1931年に上京し製本工場に勤めながら独学で絵を学 ぶ。1938年陸軍に徴兵され、過酷な状況下でも軍隊での生活を題材に鉛筆や水彩によるスケッチを描いた。1940年シュルレアリスム絵画を描く福沢一郎の絵画研究所で学び影響を受ける。1943年戦争中は東宝航空研究資料室に入り、国策映画の特撮用のミニチュアを製作する。多くの美術家が集まっており、山下菊二、難波田龍起らを知る。1945年戦争末期の3月「池袋モンパルナス」のアトリエつき住宅に転居。1946年山下菊二、大塚睦らと「前衛美術会」を結成。1953年映画『ひろしま』のセットデザインをてがける。以後様々な映画のセット、ミニチュア、人形制作を行う。1967年『ウルトラマン』に続いて『ウルトラセブン』にも参加し、ほとんどの怪獣の造形を担当した。晩年はシュルレアリスムに立脚した土俗的な絵画作品を描く。2001年練馬区立美術館で「高山良策の世界展」が開催された。

 

■建畠覚造 Kakuzo TATEHATA(1919-2006) 東京生まれ。彫刻家建畠大夢の長男。1941年東京美術学校彫刻科を卒業。1953年から1955年までフランスに留学。サロン・ド・メ(Salon de Mai)などに出品。帰国後に金属を利用した幾何学的な造形を追求、50年代の日本抽象彫刻のパイオニ アとして活躍した。1959年から多摩美術大学の教授として後進を指導。純粋で端正でありながらユーモアあふれる作品は高村光太郎賞、中原悌二郎賞、ヘンリー・ムーア大賞展特別賞等、国内外の賞を多数受賞し、2005年には文化功労者として顕彰された。長男の建畠朔弥も彫刻家、次男の建畠晢は詩人・美術評論家、京都市立芸術大学学長。

 

■田淵安一 Yasukazu TABUCHI(1921-2009) 福岡県生まれ。学徒動員で入隊し終戦を迎える。東京帝国大学文学部美術史学科でドラクロワ以降のフランス絵画を研究しつつ、新制作派協会に出品を続け、卒業後の1951年に渡仏。以後60年もの間、フランスを拠点に創作活動を続けた。当初は具象的な画風だったが、当時ヨーロッパの美術界を席捲した抽象表現主義を吸収し、厚塗りのマチエールの作品を描くようになる。西欧と日本という、異国で制作する画家として根源的なテーマを自問し続け独自の絵画世界を生み出した。2014年神奈川県立近代美術館鎌倉にて「田淵安一 知られざる世界」が開催された。

 

■堂本尚郎 Hisao DOMOTO(1928-2013) 京都生まれ。伯父の日本画家である堂本印象をはじめ、芸術一家の中 で育つ。京都市立美術工芸学校で日本画を学び、1955年に渡仏してからは洋画 に移行。アンフォルメル運動に参加し、激しく左右に振れる筆触で、横長の画面を覆う独自の抽象画を制作。パリのスタドラー画廊で初個展をひらき成功を収める。アンフォルメルを離れてからは車の轍の跡や鎧戸を連想させる厚塗りの「連続の溶解」シリーズを制作、70年代には円形が繰り返し用いられ、80年代以降は様々な色のアクリルを用いて連続するS字状が画面全体に広がる、薄塗りの「連鎖反応」シリーズや、絵具をたらしこむモノクローム作品を手がけた。2001年フランス政府芸術文化勲章オフィシエ章を受章。2007年文化功労者として顕彰される。

 

■日和崎尊夫 Takao HIWASAKI(1941-1992) 高知県生まれ。日本美術家連盟の版画工房で畦地梅太郎の講習と、加藤清美の腐食銅版画の講習を受講。1964年帰郷し、廃れていた木口木版画技法を独学で身につけ、「海渕の薔薇」「KALPA」など完成度の高い作品を発 表し一躍注目を集める。1966年日本版画協会新人賞、1967年日本版画協会賞を受賞。1977年木口木 版画家の会「鑿の会」結成に参加。1991年山口源大賞を受賞。闇を刻む詩人と謳われ、[版]でしか表現できない独自の世界を築き、数々の酒にまつわる武勇伝に彩られた天才画家は50歳で逝ったが、短い生涯に500点余りの木口木版画を残した。

 

■杢田たけを Takeo MOKUTA(1910-1982) 兵庫県豊岡生まれ。本名・武雄。日本画家だった祖父(僧侶)の影響で画家を志し、日本美術学院の通信教材で学びながら、日本画を描きはじめる。1935年第五回独立展に初入選した後、須田国太郎に師事。油彩や板や布、金属などを直接画面に貼り付けるアッサンブラージュや立体作品を手がけるなど前衛的活動を展開した。1959年斎藤長三らと「鷹の会」を結成。1966年坂本善三らとグループ「角(ツノ)」を結成。現代日本美術展や日本国際美術展などにも出品した。1998年自伝『その愛と芸術』が刊行され、姫路市立美術館で「没後10年 杢田たけを展」が開催された。

 

■元永定正 Sadamasa MOTONAGA(1922-2011) 三重県生まれ。1955年関西を拠点にする「具体美術協会」に参加、 吉原治良に師事する。絵具のたらし込みなど流動感ある絵画によって、折から世界を席巻したアンフォルメルの画家として一躍注目を浴びる。1964年現代日本美術展で受賞したのをはじめ、各種国際展などで活躍。1983年には日本芸術大賞を受賞し、名実共に日本を代表する抽象画家としての地位を確立した。

 

■吉田克朗 Katsuro YOSHIDA(1943-1999) 埼玉県生まれ。多摩美術大学絵画科の斎藤義重教室で学ぶ。1968年から70年代にかけて「もの派」の中心作家として〈Cut-off〉シリーズをはじめとする物性の強い立体作品を制作。 1968年現代日本美術展、1969年「現代美術の動向」展、1971年「パリ青年ビエ ンナーレ」などに出品。1969年から風景や人物のスナップ写真を使ったシルクスクリーン(後にフォトエッチング)による版画の制作を始め、1970年第1回ソウル国際版画ビエンナーレで大賞を受賞。1973年文化庁海外芸術研究生としてロンドンに滞在。1980年代からは絵画の制作を始め、平面的な色彩の《かげろう》シリーズ、黒鉛と指を使った《蝕》シリーズを制作した。

 

■吉仲太造 Taizo YOSHINAKA(1928-1985) 京都生まれ。早くから画家を志し、小学校卒業後に京都市立美術工芸学校を受験するが、小児麻痺により左足が不自由であったため不合格となる。1946年のちの行動美術京都研究所となる京都人文学園絵画部に入所し、画家としての第一歩を踏み出す。1952年に上京し岡本太郎の呼びかけで美術家の国際交流と連帯をめざしたアートクラブに参加。1955年には前衛作品を結集させ新たなう ねりを生み出そうとしていた岡本の招きにより、二科会第九室に出品。43歳でうつ病を発病して以後は、無彩色のキャンバスにシルクスクリーンを用いて静物などの映像を浮かび上がらせる作品や、無駄な要素をそぎ落として白い絵具を主とした作品へと移行していった。病により56歳で歿したが、1999年渋谷区立松濤美術館と京都市美術館で「戦後美術を読み直す 吉仲太造」が開催されるなど、再評価の声が高い。

 

■吉村益信 Masunobu YOSHIMURA(1932-2011) 大分県生まれ。高校時代は地元大分の美術サークル「新世紀群」で磯崎新、赤瀬川原平、風倉匠らと活動した。1951年武蔵野美術学校油絵科に入学。卒業後は読売アンデパンダン展に出品を始めた。1957年父の遺産を元に新宿区百人町に小さな土地を購入し磯崎新に設計を依頼、住居兼アトリエ「新宿ホワイトハウス」を建て後にネオ・ダダの拠点となる。1960年篠原有司男、荒川修作らとネオ・ダダイズム・オルガナイザーを結成。1962年渡米。帰国後はネオン・アート、ライト・アート、発注芸術の第一人者として、テクノロジーに関心を寄せた作品が高く評価される。1970年の大阪万国博でも活躍し一躍注目され、その後エコロジーやインドへの接近など反文明的な姿勢を示したが、1970年代後半にはアーティスト・ユニオンの事務局長を務めアーティストの社会的自立に貢献した。常に人々の先頭に立ってリーダーシップを発揮し、既成の枠にとらわれない自由な活動を展開した。

 

■脇田愛二郎 Aijiro WAKITA(1942-2006) 静岡県生まれ。父は画家の脇田和。1964年武蔵野美術大学本科西洋学科卒業。その後渡米。1969年のニューヨークでの個展から国際的な評価を集める。彫刻、モニュメント、さらに環境アートの分野で意欲的に活躍。その作品は各地で発表設置され、ニューヨーク近代美術館、カーネギー美術館などにも所蔵されている。また家具をはじめとするデザイン活動も多岐にわたる。

 

■アルマン Arman(1928-2005) フランスに生まれる。本名ルマン・フェルナンデス(Armand Pierre Fernandez)。 日用品や廃棄物を大量に集積した作品などで知られる。イヴ・ クラインやセザールらとヌーヴォー・レアリスムという集団を組み、廃物を芸術作品に変容させることで第二次世界大戦後の大量消費社会の中の生産・消費 ・廃棄のメカニズムを批判した。大量生産品などの集積と組み合わせにより物の目的や意味を失わせ、一方でゴミや日用品の持つ形態、集まった時に織り成す形態を浮き彫りにさせた。

 

■ピエール・アレシンスキー Pierre ALECHINSKY(1927-) ベルギーに生まれる。当初はキュビスムの影響下にあったが、アンソー ルの作品を知り表現主義的色彩を強める。「若きベルギー絵画」「コブラ」などの運動に参加。日本の書にも興味を持ち、森田子龍の「墨美」グループと交 流。1955年には来日して映画「日本の書」を制作。1960年代初頭にアメリカを訪問して以降は油彩を放棄し、アクリル画や版画を制作。渦巻くような独特の魅力的な線による、幻想的ヴィジョンに満ちたエネルギッシュな作風を得意とする。

 

■パウル・クレー Paul KLEE(1879-1940) スイスに生まれる。ミュンヘン美術学校で学ぶ。主夫として家事と育児をこなすかたわら独自の表現と芸術論を磨いていく。1914年友人らとチュニジアを旅行。この時期を境にクレーの絵画は「線描」から「色彩」へと大きな発展を遂げる。1919年、美術工芸学校バウハウスが設立され、クレーは友人のカンディンスキーと共に教師に任命される。1933年スイスへ亡命。生まれ故郷へ 逃れたあとは、不便な暮らしと晩年に発症した皮膚硬化症との闘いの間も創作に専念し、ドイツ時代には描かれなかった大作やたくさんのデッサンを遺した。 今回の出品作品はオリベッティ社が所蔵する有名な1930年の水彩画「Ghost of a warrior」を限定250部でリトグラフにしたもの。スイスのパウル・クレー・センター(Zentrum Paul Klee)に問い合わせたところ、はっきりとはわからないが、クレーのコレクションで有名なパリの大画商ベルグラン(the Heinz Berggruen Gallery)が持っていたときに、作られたのではないかとの返事でした。

 

■ジョン・フランクリン・ケーニッグ John-Franklin KOENIG(1924-2008) アメリカ・シアトルに生まれる。子どもの頃からシアトル東洋美術館のコレクションに感銘を受け、成人してからは何度も来日し日本文化や美を追求し作品制作に生かした。戦中シェルブールを飛行中にフランスに一目惚れし、戦後フランスに渡り教育を受ける。アメリカとフランスで暮らす。欧州のモダニズムに影響され、コラージュ、抽象絵画に取り組むようになる。1985年フランスの芸術文化勲章を授与される。 今回の出品作は親日家のケーニッグ(ケーニグ)が来日時にS氏に贈ったものと思われる。

 

■ピエール・スーラージュ Pierre SOULAGES(1919-) フランスに生まれる。少年時代から生まれ故郷の先史時代の遺跡、巨石記念物、壁画およびコンクの大修道院をはじめとするロマネスク建築と美術を身近に見て育った。18歳のときパリでセザンヌとピカソの作品を知り、抽象絵画を描き始める。主として白地に黒や、クルミ染料を使った焦げ茶のシンプルな幅広い筆跡の重なりによる画面を構成する。単純な絵具の帯の重なりのようにみえる画面は、複数の空間が存在するかのような奥行きのある建築的な構造となっている。「黒の画家」と謳われ、1979年頃より光と絵画の関係性を探るための「黒」の絵画シリーズを展開している。2009年パリのポンピドゥー・センターで大回顧展が開催された。

 

■セザール Cesar(1921-1998) フランスに生まれる。有名なフランスの映画賞「セザール賞」は彼の名による。本名セザール・バルダッチーニ(Cesar Baldaccini)。1947年から鉄の彫刻制作を始める。1960年友人の工場で目にしたスクラップを四角い金属塊に圧縮する大型プレス機に魅せられる。自動車をプレス機で圧縮した作品をサロン・ド・メに出展し賛否両論の話題をさらった。手作業によらず自らの意のままにならない作品 ―廃車を押しつぶした「圧縮(コンプレッション)彫刻」はそれまでの彫刻の概念を乗り越え、国際的に高い評価を獲得した。友人のジョルジュ・クラヴァンヌが主催し始まったフランスの映画賞は、トロフィーを彼が制作したことに因み「セザール賞」と呼ばれるようになった。

 

■ルイス・フェイト Luis FEITO(1929-) スペインに生まれる。1956年にパリに留学。オートマティズムやアンフ ォルメルの影響を受ける。1957年現代美術グループ「エル・パソ」を結成。抽象画の中におけるアンフォルメルや抽象表現主義をスペインの前衛芸術の中にどのように反映させるかを追求する。その後モントリオール、次いでニューヨークと拠点を移し活動を続ける。

 

■ジャン・フォートリエ Jean FAUTRIER(1898-1964) フランスに生まれる。ロンドンで美術教育を受け、第一次世界大戦から復員後は写実的な画風から暗い色彩の抽象的な表現へと変化しながら、パリで作品発表を続ける。1943年ドイツ軍の捜査から逃れるために友人の導きでパリ近郊へ逃れる。ここでフォートリエは代表作となる連作「人質」の制作に取り組み始め、パリ解放後に発表し反響を呼ぶ。時代を反映した「人質」という主題のみならず、パレット・ナイフによって念入りに厚く塗り重ねた淡い色彩によって描かれる極めて抽象的な人物表現は、戦後のパリの美術界に大きな衝撃を与え、アンフォルメルの先駆けとなった。1960年ヴェネチア・ビエンナーレで大賞を受賞。1959年南画廊の個展のために来日、日本の美術界に大反響を巻き起こし、志水楠男が画商として現代美術を主導するきっかけともなった。現在、大阪の国立国際美術館で回顧展が開催されている。

 

■ピエト・モンドリアン Piet MONDRIAN(1872-1944) オランダに生まれる。初めは風景や静物を描いていた。1910年にパリに 出てキュビスムに触れ、フランスの点描派やポスト印象派などの新しい絵画の 傾向を知り、やがて完全な抽象へ移行する。1914年にオランダに帰国。1917年前術的な芸術誌『デ・ステイル』を創刊し、抽象主義の芸術運動を繰り広げる とともに、今日モンドリアン・スタイルとして親しまれている垂 直・水平線 と三原色の色面からなる幾何学的抽象画のスタイルを確立した。カンディンスキーとともに、現代抽象絵画への道を切り開いた20世紀の巨匠と呼ばれている。



展示風景

 


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