ジョナス・メカスさんがニューヨークの自宅で亡くなったのは昨2019年1月23日、前年暮れに96歳のお誕生日を迎えたばかりでした。
不意に訪れた死去の報に私たちは茫然としました。
なにかぽっかり胸の中に穴があいたような、もうあの暖かな笑顔に会えないと思うと心細さがつのりました。
激動の20世紀を生き抜いたメカスさんは1922年12月24日、人口わずか100人ほどの寒村に生まれました。
故郷リトアニアは、ソ連、ドイツに相次いで占領され、メカスさん自身も強制収容所そして難民キャンプを転々とする生活を経て1949年、アメリカに亡命します。リトアニアでは詩人そして新聞や文学雑誌の編集に携わっていましたが、渡米後、言葉も通じないブルックリンで機械工や清掃員などの仕事をする傍ら、一台の16ミリ・カメラを手にします。自分の住む場所やリトアニア系移民の日々の生活を日記のように撮り始めます。
日常的な記録の断片を集積し、再構成する独特のスタイル「日記映画」の創始者であり、独特の言葉の響きをもつナレーションや、選択された音楽の効果、それらが相まって醸し出されるメランコリックでノスタルジックな映像は、新しい映像表現を求めていた若い人々に大きな影響を与えます。
戦後アメリカのインディペンデント映画や実験映画をリードし、それらの上映の場をつくることに尽力します。さらにそれらの収集・保存を目的とした「アンソロジー・フィルム・アーカイブス」設立に情熱を傾け、亡くなるまで館長として奮闘されました。
私たちがメカスさんに巡り合い、初めて日本にお招きしたのは1983年ですが、以来、展覧会、上映会、版画のエディションなど、メカス芸術の紹介に努めてきました。
初来日の折の版画制作がきっかけで、メカスさんが1980年代以降、精力的にとりくんだのが自身が撮影した16mmフィルムから数コマを選び、写真として焼きつける「静止した映画フィルム」と呼ばれる仕事です。
今回追悼の心をこめて展示するのは、初期版画と写真作品の約20点です。
案内状に掲載した「this side of paradise」シリーズの元になった映像は、1960年代末から70年代始め、ジョン・F・ケネディの未亡人であったジャッキー・ケネディに請われ、子息のジョン・ジュニアやキャロラインと従姉弟たちに映画を教えていた時期に撮影されたフィルムです。
悲劇的な父親の死からまだ間もないころ、父親のいない暮らしに慣れるまでの、心の準備が少しでも楽にできるよう、子供たちが何かすることをみつけてやりたいと考えたジャッキーが、子供たちに美術史を教えていたピーター・ビアードを通じて、メカスさんに頼んだのでした。
アンディ・ウォーホルから借り受けたモントークの古い家で、ジャッキーとその家族、メカスさん、週末にはウォーホルやビアードが加わり、皆で過ごした夏の日々の、ある時間、ある断片が作品には切り取られています。
「それは友と共に、生きて今ここにあることの幸せと歓びを、いくたびもくりかえし感ずることのできた夏の日々。楽園の小さなかけらにも譬えられる日々だった。」 ジョナス・メカス
久しぶりのメカス作品の展示ですが、コロナウイルス禍の日々、ご無理のない範囲でご覧いただけたら幸いです。前回同様、WEB展を準備していますので、どうぞお楽しみください。
■ジョナス・メカス(1922-2019)
1922年リトアニア生まれ。ソ連次いでナチス・ドイツがリトアニアを占領。強制収容所に送られるが、45年収容所を脱走、難民キャンプを転々とし、49年アメリカに亡命。16ミリカメラで自分の周りの日常を日記のように撮り始める。65年『営倉』がヴェネツィア映画祭で最優秀賞受賞。83年初来日。89年NYにアンソロジー・フィルム・アーカイヴズを設立。2005年ときの忘れものの個展のために4度目の来日。『リトアニアへの旅の追憶』『ウォルデン』の作者は映像を志す人にとって神様のような人ですが、前衛映画の蒐集保存のための美術館建設計画を進めていた頃のメカスさんは「フィルムは山ほどあるがお金がない」状態で、少しでも応援しようと83年に日本にお招きし7点の版画をつくって貰いました。それがメカスさん独自の写真作品制作のきっかけです。メカスさんの写真と版画はときの忘れものでいつでもご覧になれます。
2019年1月23日死去、享年96。
展示風景 ※画像をクリックすると拡大します。