第339回 佐藤研吾展 群空洞と囲い 会期=2022年3月25日(金)―4月3日(日) 11:00-19:00 ※会期中無休 YouTubeで画廊の展示風景や、作家による作品説明などをご覧いただける動画を公開中です。 動画は下記の再生マークをクリックしてください。再生が始まります。 展示風景・作品コンセプト紹介動画 ※画像をクリックすると拡大して表示されます。 |
2018年にときの忘れものにて初個展『佐藤研吾展―囲いこみとお節介』を開催した若手建築家・佐藤研吾。2回目となる本展では、新作のピンホールカメラなどの立体や、写真、ドローイングなどを展示します。2020年に拠点を東京から福島県大玉村に移したのち、東北と首都圏を往復しながら建築設計を中心に様々な活動を行なっており、ときの忘れものブログでは佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」を毎月配信。展覧会に合わせてカタログを刊行します(執筆:佐藤研吾、都築響一)。
作家在廊予定日:3月25日(金)―4月3日(日)13時〜19時まで。
但し、土曜と日曜の26日、27日、2日、3日は11時〜19時まで在廊します。
●『佐藤研吾展 群空洞と囲い』図録刊行
発行日:2022年3月25日
発行元:有限会社ワタヌキ/ときの忘れもの
17.1×25.6cm、24頁
テキスト:佐藤研吾、都築響一
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
図版:32点
税込価格 880円+送料250円
【ステートメント】
空海による教風が確立された密教を純密と呼ぶのに対して、それ以前の有象無象の密教を雑部密教、雑密と呼ぶことがある。雑密は、地場の神信仰と結合し、体系化されずに断片的かつ同時多発的に生まれ出た、私度の僧による信仰であった。
雑密の内で制作された一木彫の仏像には、当時の腐敗した仏教界、社会全体に怒りの念を表明する、屹立とした荒々しさがあった。おそらくは木彫でないと表現できないような、ドップリと大らかに構えた量感ある異様な造型感覚が注入されていた。
歴史の中では古代から中世への転形と言える束の間の造型であったのかもしれないが、正統に対する異端、中心に対する外縁が担わざるを得ない先鋭性がそこにはあった。造型の極北として、外縁から生まれ出た必然として、雑密仏は再考される必要がある。
そんな、夢想に近い、1000年前の制作への思考を、私は東北地方の片田舎で巡らせている。福島県大玉村。東北といってもほとんど関東すれすれの土地だ。村のどこからでも安達太良山がヌッと顔を覗かせている。そして冬には、山から冷たい風が常にビュービュー吹き降りてきて、降り積もった雪も地吹雪となって吹っ飛んでしまう。そんな場所に、私は今暮らしている。地域圏は違うが、自分が在地社会に身を置いたことで、かつての雑密仏に込められたような、外縁としての造型感覚を突き詰めて考えることができるかもしれないと考えた。それは、移動が制限されていた昨今のコンディションによってさらに強く思うに至った。
東北では比較的容易にクリの丸太が手に入る。寒冷地の利であるとも言える。そしてクリの丸太に空洞を彫り抜く。空洞を彫るのは、これが同時に建築の縮減模型の役割も果たすからだ。そして、彫った空洞に鉄をまとわり付かせ、自立させる。そのままゴロンと転がっているのもある。空洞は、家具あるいは何かを囲い込むための道具として、ヒトの生活圏のどこかに位置付けられる。あるいは複数の空洞の隙間にヒトが居どころを見つけるのかもしれない。
鉄とクリの取り合いは重要な関心事である。それは物体と物体との接触についての試行錯誤でもあるし、分子レベルでの結合の工夫でもある。これらの空洞は、ある種の開口部にまつわる実験体だ。入口と出口。あるいは入口だけ。空洞はその形式故に必ずある方向が定められる。そして方向を持った複数の空洞が、古寺に集結する雑密仏の如く群居し、揺蕩う煙のように微かに連続する風景を企てる。
展示風景 ※画像をクリックすると拡大します。