イリナ・イオネスコが私に紹介した女流写真家はクリスチャン・スペングラーでした。パリのレアール付近のひとけのないカフェで会いました。恐らくイリナより20歳以上も若い女性です。その出で立ちは大変印象的で、ショールのような薄い生地を原色に近い赤や緑、青に染めさらにそれを幾重にも重ね、体に巻き付け風になびかせながら、つまずくように歩いて来ました。つまずくというのが良いのか、踊るようにと言うのが良いのかわかりませんが、どちらにしても奇妙な仕草なのです。言葉は悪いかもしれませんが、彼女が世界的に有名なフォトジャーナリストだと知らなければ、狂女と誤解されても不思議ではないような歩き方と色彩です。イリナの言ったカラーとはこの事なのでしょうか。
 カフェでの初対面の挨拶が終わると、近くにある彼女の仕事部屋に招かれました。そしてくつろぐまもなく彼女は私に1冊の大変分厚い本を渡しました。それは彼女が自分で作った彼女自身の写真集の試作品でした。ページをめくり、その試作品の完成度の高さに息をのみました。また彼女の写真の緊張感に息をのんだのです。そこにはモノクロの世界が広がっていたのです。カフェで見た原色に包まれた彼女ではなく、フォトジャーナリストとしての彼女の仕事の集大成がそこにありました。
 彼女は中東などの戦火の中で女性を撮り続けている稀有な写真家です。またその多くが死んだ者たちを送る黒衣の女性たちです。彼女にとっては戦場はモノクロの世界なのです。だから彼女も黒衣をきて戦場に赴くのだそうです。
しかし、その中で色彩を持つ物があります。それが葬儀なり戦死した者を彩る祭壇です。彼女にとってイリナとは全く正反対にモノクロは現実であり色彩の世界は観念の世界です。プラトンのイデアが彼女にとっては色彩に彩られた世界なのです。それは死という永遠の時間の中に存在する世界です。
 イリナは何を言いたかったのでしょうか。イリナは彼女を尊敬しています。しかも彼女を被写体にして写真を撮っています。私に何かを伝えたかったのは明らかです。モノクロとカラー。イリナは何度と無くカラーを撮ろうとしたようです。そう言えば日本でやくざを撮ったことがあります。刺青に大変興味があったのです。私は彼女の希望を叶えようとO氏にアレンジを頼みました。その甲斐があって、素晴らしい刺青を撮ることが出来ました。でも何故かイリナはカラーで撮りました。日本ではモノクロしか撮らなかった彼女が。
 数年後、この写真がイリナ自身によって海外の写真誌で紹介されました。しかも写真展も開催されたのです。
 数日後、イリナに会ってスペングラーのことを伝えました。稀有な写真家だと伝えたのです。イリナはカラーとモノクロの話は一切せずに私の顔をのぞき込み、満足げに数回顔を縦に振ったのです。とても優しい笑みをたたえながら。
 次回はいよいよ初来日したときの様子を書きます。イリナが何に驚いたかとても面白いですよ。ご期待ください。
2009年1月10日(いむらはるき)

エヴァ5イリナ・イオネスコ
"Eva 5"
1996年プリント
ゼラチンシルバープリント
27.5×19.0cm
Ed.20 Signed