私がイリナ・イオネスコを日本に招いたのは3回でした。1回目が初来日でした。O氏には感謝してもしきれないことですが、ワシントンホテルのスイートに宿泊してもらいました。2回目は私が全て仕切りPTYX(私の会社です)が単独で招きました。イリナに少しでも日本的な環境で過ごしてもらおうと選んだホテルは三島由紀夫が好んで宿泊した事でも知られるお茶の水のヒルトップホテルでした。この時にイリナは東京と大阪のニコンサロンで写真展を開きました。また東京都写真美術館では講演会をし、大阪では大阪ニコンで講演をしました。大変忙しい日程でしたが、ホテルはことのほか気に入り窓の外から聞こえる虫の音に心を驚かせていたようです。
実は、目黒区美術館での講演会のビデオがあったのですが残念ながら私が誤って犬の番組を上書きしてしまい残念ながらいまでは見る影もありません。
3回目の来日は私の家に招きました。これも私単独で呼んだもので、かなり金銭的な無理を押して呼びました。食事も高価なホテルのレストランの物ではなく鍋を囲んだりと、とても倹約した食事をしてもらいました。正直言って、私の金銭的な事情のためでした。この来日の目的は、やはり日本での撮影でした。ある劇団の看板女優をイリナに撮って欲しいという申し出があったからです。私の経済状態はどん底でした。それにもかかわらず、日本に来たいと会うたびに言っていたイリナの願いを叶えたかったのです。これは今考えても無謀でしたし、不幸の始まりでした。お茶の水でのイリナのワークショップの時にモデルとしてあの看板女優が助けてくれたのですが、本来払うべきモデル料を彼女に一銭も支払うことが出来ませんでした。お恥ずかしい限りです。
そのような状況を全く知らないイリナは、当方の家に着くと「オープン・セサミ」と言って私をからかうのでした。井村の家は物であふれアリババの家だというのです。それでも布団を気に入ってくれ自炊も楽しんでいるようでした。ただイリナが嫌ったことがひとつありました。それは魚の臭いです。前夜に食べた魚の残りが生臭い臭いとなっていました。私たちにとってはそれほどとは思っていなかった臭いですが、唯一彼女が気になり早く処理することをもとめたのがこの臭いでした。
イリナはこの家でも撮影をしました。勿論私はそこに参加はしません。玄関に布団を敷き、ただ一人仲間はずれにされたように眠りにつきました。撮影はとても楽しく順調に終わりました。楽しくと言うのは時々笑い声が聞こえたからです。まさにそこは桜の園だったようです。
私はイリナに金銭的な何物も渡すことが出来ませんでした。非常識と言われてもおかしくない事です。実際イリナはこのことをとても落胆していました。しかし実際、支払える物は何もなかったのです。イリナの不快そうな顔と苛立ち。私は全ての収支を見せて理解を求めたのです。これは私の甘さです。ファンであるからと言って許されることではなかったのです。彼女の帰国の日、撮影をした劇団の女性も撮影を申し出た女性も彼女を見送りに来ようとしませんでした。それは遠慮があったのでしょう。イリナにとってこの3回目の来日ほど後味の悪かったものはなかったのです。でもその後、彼女が来日したとき会いに行くと快く私を迎えてくれました。「ムッシュ・イミュラ!」
これで私の話は終わりです。またどこかでお会いしてイリナとのエピソードをお話ししたいものです。ピラミッドの計画のために。
2009年1月20日(いむらはるき)
"Porte Dorée 15"
1972年(1998年プリント)
ゼラチンシルバープリント
9.8×14.4cm Ed.10
サインあり
"Porte Dorée 14"
(1998年プリント)
ゼラチンシルバープリント
14.4×9.8cm Ed.10
サインあり
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*画廊亭主敬白
昨2008年2月に始まった井村治樹さんの連載エッセイが遂に最終回を迎えました。
15回にわたり、イリナとの交友を惜しみなく明かしてくださった井村さんに深甚の謝意を捧げます。ご愛読いただいた皆さんにも御礼申し上げます。
ご承知の通り、数年前から私どものときの忘れものは写真の企画に大きく舵を切りました。
もちろんそれ以前に細江英公先生に30年以上にわたり親炙したこと、ジョナス・メカスや瑛九を扱ってきたという経緯はあるのですが、写真を画商としての営業の柱に据えたのは、実は井村さんという特異な(最も良質な)コレクターに巡りあったことがきっかけでした。
あるとき、見知らぬ人から一本の電話がありました。
電話主「ときの忘れものさんではリキテンスタインを扱っていますか」
亭主「扱っています」
電話主「いくらで買い取ってくれますか」
亭主「実物を拝見してからでないと値段は踏めません」
電話主「じゃあ、近く持っていきますから」
というような、まあいつものようなやり取りがあったのですが、その後うんともすんとも言って来ない。忘れた頃になって孫のような可愛いお子さんを連れて突如あらわれたのが自称無職、子育て中の井村さんでした。
リキテンならぬ、箸にも棒にもかからぬ胡散臭い掛け軸を持ってこられたのには仰天しましたが、話すと只者ではない。
私にとっては、運命的な写真のコレクターとの出会いでした。
井村さんがどう凄いのかは、この連載の第一回に書いたのでご参照ください。
井村さん、どうぞ今後とも私たちを教え導いてください。
実は、目黒区美術館での講演会のビデオがあったのですが残念ながら私が誤って犬の番組を上書きしてしまい残念ながらいまでは見る影もありません。
3回目の来日は私の家に招きました。これも私単独で呼んだもので、かなり金銭的な無理を押して呼びました。食事も高価なホテルのレストランの物ではなく鍋を囲んだりと、とても倹約した食事をしてもらいました。正直言って、私の金銭的な事情のためでした。この来日の目的は、やはり日本での撮影でした。ある劇団の看板女優をイリナに撮って欲しいという申し出があったからです。私の経済状態はどん底でした。それにもかかわらず、日本に来たいと会うたびに言っていたイリナの願いを叶えたかったのです。これは今考えても無謀でしたし、不幸の始まりでした。お茶の水でのイリナのワークショップの時にモデルとしてあの看板女優が助けてくれたのですが、本来払うべきモデル料を彼女に一銭も支払うことが出来ませんでした。お恥ずかしい限りです。
そのような状況を全く知らないイリナは、当方の家に着くと「オープン・セサミ」と言って私をからかうのでした。井村の家は物であふれアリババの家だというのです。それでも布団を気に入ってくれ自炊も楽しんでいるようでした。ただイリナが嫌ったことがひとつありました。それは魚の臭いです。前夜に食べた魚の残りが生臭い臭いとなっていました。私たちにとってはそれほどとは思っていなかった臭いですが、唯一彼女が気になり早く処理することをもとめたのがこの臭いでした。
イリナはこの家でも撮影をしました。勿論私はそこに参加はしません。玄関に布団を敷き、ただ一人仲間はずれにされたように眠りにつきました。撮影はとても楽しく順調に終わりました。楽しくと言うのは時々笑い声が聞こえたからです。まさにそこは桜の園だったようです。
私はイリナに金銭的な何物も渡すことが出来ませんでした。非常識と言われてもおかしくない事です。実際イリナはこのことをとても落胆していました。しかし実際、支払える物は何もなかったのです。イリナの不快そうな顔と苛立ち。私は全ての収支を見せて理解を求めたのです。これは私の甘さです。ファンであるからと言って許されることではなかったのです。彼女の帰国の日、撮影をした劇団の女性も撮影を申し出た女性も彼女を見送りに来ようとしませんでした。それは遠慮があったのでしょう。イリナにとってこの3回目の来日ほど後味の悪かったものはなかったのです。でもその後、彼女が来日したとき会いに行くと快く私を迎えてくれました。「ムッシュ・イミュラ!」
これで私の話は終わりです。またどこかでお会いしてイリナとのエピソードをお話ししたいものです。ピラミッドの計画のために。
2009年1月20日(いむらはるき)
"Porte Dorée 15"
1972年(1998年プリント)
ゼラチンシルバープリント
9.8×14.4cm Ed.10
サインあり
"Porte Dorée 14"
(1998年プリント)
ゼラチンシルバープリント
14.4×9.8cm Ed.10
サインあり
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*画廊亭主敬白
昨2008年2月に始まった井村治樹さんの連載エッセイが遂に最終回を迎えました。
15回にわたり、イリナとの交友を惜しみなく明かしてくださった井村さんに深甚の謝意を捧げます。ご愛読いただいた皆さんにも御礼申し上げます。
ご承知の通り、数年前から私どものときの忘れものは写真の企画に大きく舵を切りました。
もちろんそれ以前に細江英公先生に30年以上にわたり親炙したこと、ジョナス・メカスや瑛九を扱ってきたという経緯はあるのですが、写真を画商としての営業の柱に据えたのは、実は井村さんという特異な(最も良質な)コレクターに巡りあったことがきっかけでした。
あるとき、見知らぬ人から一本の電話がありました。
電話主「ときの忘れものさんではリキテンスタインを扱っていますか」
亭主「扱っています」
電話主「いくらで買い取ってくれますか」
亭主「実物を拝見してからでないと値段は踏めません」
電話主「じゃあ、近く持っていきますから」
というような、まあいつものようなやり取りがあったのですが、その後うんともすんとも言って来ない。忘れた頃になって孫のような可愛いお子さんを連れて突如あらわれたのが自称無職、子育て中の井村さんでした。
リキテンならぬ、箸にも棒にもかからぬ胡散臭い掛け軸を持ってこられたのには仰天しましたが、話すと只者ではない。
私にとっては、運命的な写真のコレクターとの出会いでした。
井村さんがどう凄いのかは、この連載の第一回に書いたのでご参照ください。
井村さん、どうぞ今後とも私たちを教え導いてください。