弊廊「ときの忘れもの」の2006年5月〜の企画展・常設展のご案内を申し上げます。 ◆第130回企画展 永井桃子新作展会期=2006年5月26日[金]〜6月3日[土] 12:00―19:00 *日曜・月曜・祝日は休廊 裏の家の庭が少し騒がしいな、又植木屋さんが剪定に来ているのかな。初め思ったのはそんな事でした。が、この日は違いました。差し込んでくる窓の光の量が多くなり、見ると、大きな欅が何本も伐採された所でした。私よりもずっと年上の木です。 しかし、この光景に驚きもせず、淡々と見ている自分がありました。もっと動揺しても良い筈、何しろ窓から毎日見ていた木々なのですから。ところが、「どうにもならない事」に対して生じたのはわずかな諦めの感情でした。日常に時々のぞく隙間のような、どこか落ち着かない感覚の中にあるもの。 そんな日常の寂しさの中からも、小さな希望を汲みとり留めるもの。そして描かれた物もまたささやかな光を持つ、そんな絵画になればと思っています。 永井桃子 ■永井桃子(ながい ももこ)1976年東京生まれ。2000年女子美術大学大学院美術研究科美術専攻修了。 1989年初めて銅版画を制作。1992年東北電力[夢見る子供童話賞]絵本部門大賞受賞、受賞作品『ウサギの畑』は講談社より出版。1998年女子美術大学卒業制作展で優秀賞を受賞。 2000年スカイドアアートプレイス青山で初個展を行なう。2001年トーキョーワンダーウォール賞受賞(翌年都庁トーキョーワンダーウォールで個展)。01年、04年、05年ときの忘れもので個展。2006年損保ジャパン選抜奨励展に出展。 <永井桃子展>出品リスト 見積り請求(在庫確認)フォーム 展示風景 <コレクターの声>第一回 原茂「あつ!」「おおつ!」「こっ、これはっ!」 思わず漏れる声にマウスを握っていた手を慌てて口元へ。恐る恐る振り返る後の襖に開く気配はない。ほっと胸を撫で下ろして再び目をディスプレイに。家人が寝静まった深夜。密やかなる大人の楽しみである。こちらが食い入るように眺めているのは、私のお気に入り、永井桃子の新作映像。全部で17枚の画像がアップされている。いったいどこから差し込んでくるのか、何層もの薄絹を通して宙全体から降ってくるような柔らかな光。触ったらきっと手の平が吸い付くにちがないしっとりと肉厚な肌。吐息にふるふるとふるえる柔毛に覆われているかに見えるはなびら。しんとしずまりかえってあたりに人の声なく、遠くから恐竜の叫びが聞こえてきそうな太古の森林を思わせる植物群。タイトルは「光途」(ひかりみち)。 そこには植物が描かれていながら、しかし描かれているのは「薔薇」とか「百合」といった名前の付いた存在ではない。もちろん、「〜のように」見える植物もある。けれどもそれは、決して植物図鑑のように、他の植物と区別できるような描き方で描かれてはいない。永井桃子が描くのは、個別の植物ではなく、いわば「植物そのもの」であり、さらに言えば「植物的」とでも言いうるようないのちのありかたそのものであるように思える。 あちらこちらと獲物を求めうろうろするのではなく、たとえそこがどんな場所であっても、じぶんの置かれた場所に根を張り、ただ上よりのひかりを求めからだを伸ばし、降り注ぐひかりをからだぜんたいで受け止め、そのひかりによって自分じしんの中でちからといのちを生み出し、蜜を、実を、そしてついには自分のからだそものもさえも他のいのちに与え、そして与えることによっていのちを伝えてゆく「植物」のいのちのゆたかさ、ふかさ、けだかさがそこには描き出されているように見える。他のいのちを奪うことによってしか生きることのできない「動物」(けもの=ケダモノ?)のいのちに対して、与えることによって生きる「植物」のいのちは、私たちにまことのいのちのあり方を指し示しているようにさえ思えるのである。その意味で「光途」とは、まさにわたしたちのひかりへの途でありいのちへの途のことなのだ。 ある人が、2004年の「永井桃子展」〔2004年4月20日(火)〜5月1日(土)〕で展示された116.8×274.0cmの大作に、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」の印象的なラストシーン、清浄化された腐海の最深部に置き忘れられたナウシカの飛行帽の傍らで芽生えた若芽が成長したらきっとこんな森になるんじゃないかしらとコメントしていたが、納得である。 特に今回目を引いたのは、DMにもなった「光途−日々」。ふんわりとした緑のしとねを思わせる草むらに、赤、白、桃、橙、黄、色とりどりの五弁の小花が散らされている。これれまで太古の巨木を仰ぎ見るような視点に、足下の野の花にふと目をとめ、慈しむような眼差しが付け加わったとでも言えるであろうか。 これまで「見上げる」しかなかったまことのいのちのあり方、ひかりへのみちは、実は、私たちのごくふつうの当たり前の「日々」の中にあること、私たちの足元にある、ちいさな、わずかな、日々の生活の中の小さな彩りにも似た出来事に、喜びや感謝、信頼と希望を見出すことができるなら、そこにもまた、否そこにこそ、まことのいのちにいたるひかりのみちが開かれているということではないだろうか。 うつくしくあることが、目に見えるかたちのうつくしさではなくありかたそのもののうつくしさであることを永井桃子の作品は無言の内にしかし雄弁に指し示しているように見える。ギャラリーがどことなくしんとして、荘厳といえるような雰囲気をたたえていたことを思い起こす。次の個展が今から楽しみである。 【TOP PAGE】 |