弊廊「ときの忘れもの」の2006年6月〜の企画展・常設展のご案内を申し上げます。 ◆第131回企画展 フォーゲラーとヴォルプスヴェーデ展会期=2006年6月9日[金]〜17日[土] 12:00―19:00 *日曜・月曜・祝日は休廊 明治末期に雑誌『白樺』で紹介されるや当時の若い作家たちに大きな影響を与えたハインリッヒ・フォーゲラー(Heinrich Vogeler 1872〜1942年)と、芸術家村ヴォルプスヴェーデに集った3人の仲間たち/フリッツ・オーヴァーベック(Fritz Overbeck 1869〜1909年)、フリッツ・マッケンゼン(Fritz Mackensen 1866〜1953年)、ハンス・アム・エンデ(Hans am Ende 1864〜1918年)/の銅版画を紹介します。 ■出品作/フォーゲラーの銅版代表作「春」(1896年)をはじめ、1897年に発表された版画集『ヴォルプスヴェーデより』所収のハインリッヒ・フォーゲラー「いばら姫」「春の夕べ」「カラマツ」、フリッツ・オーヴァーベック「ヴォルプスヴェーデ」「静かな場所」「私の窓から」、フリッツ・マッケンゼン「ハムメ川」「泥炭地のヤン」「炉ばた」、ハンス・アム・エンデ「子どもの頭部」「泥炭地の風景」「白樺の小さな森」など、ヴォルプスヴェーデに集った青年画家たちの瑞々しい叙情に溢れた銅版画連作15点を出品します。 1 ハインリッヒ・フォーゲラー 『春』 1896年 34.2×24.7cm 版上サイン 2 ハインリッヒ・フォーゲラー 『ヴォルプスヴェーデより』カバー 1897年 銅版 52.8×35.8cm 版上サイン 非売 3 フリッツ・マッケンゼン ハインリッヒ・フォーゲラー 『ヴォルプスヴェーデより』扉絵 1897年 15.1×31.2cm 版上サイン 非売 4 ハインリッヒ・フォーゲラー 『いばら姫』 1897年 銅版 27.0×25.0cm 版上サイン 5 ハインリッヒ・フォーゲラー 『春の夕べ』 1897年 銅版 19.8×11.8cm 版上サイン 6 ハインリッヒ・フォーゲラー 『カラマツ』 1897年 銅版 25.3×22.0cm 版上サイン 7 フリッツ・オーヴァーベック 『ヴォルプスヴェーデ』 1895年 銅版 25.0×35.5cm 版上サイン 8 フリッツ・オーヴァーベック 『静かな場所』1896年 銅版 19.5×27.0cm 版上サイン 9 フリッツ・オーヴァーベック 『私の窓から』1897年 銅版 19.5×27.5cm 版上サイン 10 ハンス・アム・エンデ 『白樺の小さな森』1897年 銅版 29.5×21.8cm 11 ハンス・アム・エンデ 『子どもの頭部』1897年 銅版 29.6×21.3cm 版上サイン 12 ハンス・アム・エンデ 『泥炭地の風景』1897年 銅版 27.0×29.5cm 13 フリッツ・マッケンゼン 『ヤン・ファン・モーア』1897年 銅版 38.5×27.5cm 14 フリッツ・マッケンゼン 『ハムメ川』 銅版 14.3×22.0cm 版上サイン 15 フリッツ・マッケンゼン 『炉ばた』1897年 銅版 24.6×39.5cm 見積り請求(在庫確認)フォーム ■ヴォルプスヴェーデ Worpswede 19世紀末、北ドイツ、ブレーメン郊外の小さい町ヴォルプスヴェーデに新しい芸術を目指す青年画家たちが定住し、<夢見られた共同体>芸術家コロニーをつくった。 フォーゲラーやリルケなど多くの芸術家が集い、芸術と生活の融合を目指し絵画だけにとどまらず、工芸、建築と幅広い芸術活動を展開したが、その最盛期は短く、やがてそれぞれの道を歩むことになる。 今回紹介する銅版画連作は、彼らの青春の記念碑ともいえる作品である。 泥炭地にあったヴォルプスヴェーデは外界からは孤立しており、住民たちは貧しく、泥炭地で採掘した泥炭をブレーメンヘ売りにいって生計を立てていた。 白樺の樹々、泥炭小屋、一面の荒れ野、このような土地に、デュッセルドルフとミュンヘンのアカデミーで親しくなった3人の若い美術家たち、フリッツ・マッケンゼン、オットー・モーダーゾーン、ハンス・アム・エンデがまずひかれて集まった。 アカデミックな藝術や伝統的な思想に不満をもっていた彼らは、ロマンチックな自然との一体感に心動かされ、手つかずの自然を、自分たちの創造の源泉と感じ、自然と人間を中心に据えた新しい風景画に取り組もうとしていたのである。 「彼らは本質のところで孤独であり、自然に向かうことで、移ろいやすいものより永遠のものを、過ぎ去りゆく運命にあるものに対して、もっとも奥深い規則的なものを前の方へ引き出すのである。・‥どこか自然のもつ大いなる連関のなかに、自分自身を挿入するために自然を把握することを、自らの課題と見ているのだ。」(リルケ) 1884年最初にマッケンゼンがヴォルプスヴェーデにやって来た。続いて、1889年の夏、モーダーゾーンとアム・エンデが訪れる。 そして芸術家村が誕生した。 1893年と1894年にはフリッツ・オーヴァーベックとハインリヒ・フォーゲラーが訪れた。 若い芸術家たちがモデルとしたのはバルビゾンの画家たちだった。バルビゾン派は1830年にパリとアカデミーに背を向け、自由な自然のなかで絵を描くために、パリの南東60キロのところにある村に移り住んだのだった。ミレー、コロー、トロワィヨン、ドービニーとルソーは、ヴォルプスヴェーデの画家の尊敬すべき師だった。 「ヴォルプスヴェーデ芸術家協会」として、若い画家たちは1895年の春、はじめてブレーメン美術館で展覧会をおこなったが、地元の評判は決してよいものではなかった。 しかし数か月後にミュンヘンのガラス宮殿で国際展覧会が開催された折り、若い芸術家たちの作品発表は大成功をおさめる。 観衆と批評家たちが熱狂し、「故郷の大地に対する無限の愛」の表現と評価され、彼らは一躍有名になる。この成功は、芸術家たちを勇気づけた。彼らの絵画は、大規模な展覧会や国際的展覧会を巡回し、国内外の美術館に収められた。 1897年画家たちは「ヴォルプスヴェーデ芸術家連合」と名乗る。 彼らの蜜月は長くは続かず、外部で認められるとともに、内部の緊張が高まった。共同で芸術上の努力を目指した絆は断ち切れた。1899年モーダーゾーンは芸術家連合から脱退した。そのときから、ひとりひとりが自分自身の道を歩むこととなった。 名声を得たハインリッヒ・フォーゲラーと彼のバルケンホフの邸宅は1900年以後、リルケ夫妻など芸術、文学、演劇のあまたの個性が集う所となった。 ヴォルプスヴェーデの画家たちはこの時代、ドイツの他の芸術家村をはるかにしのぐ地域的名声に達していた。彼らは時代の憧憬に合致する後期ロマン主義的な自然の抒情性をあらわしていた。歴史的には彼らは潮流展開の始めというより終わりに位置していた。ほぼ同じ時代に、ミュンヘンとベルリンのゼセッシオンの創設とともに印象主義の到来があり、そのわずか数年後には、「プリュッケ」芸術家集団の表現主義をもって、ドイツ芸術の近代への決定的転換が起こるのである。 ヴォルプスヴェーデの画家サークルからは、パウラ・モーダーゾーン=ベッカーだけが、近代の発展への重要な寄与で浮かびあがった。しかしヴォルプスヴェーデの画家たちは、自由な自然のなかへ勇敢に歩み入ったことによって、また独自の感性に導かれた風景画のひとつであるという信条によって、そのための道の地ならしをしたのである。 *「パウラ・モーダーゾーン=ベッカーとヴォルプスヴェーデの画家たちー素描と版画 1895〜1906」展図録(2005年伊丹市立美術館)所収のカタリーナ・エーリング<ヴォルプスヴェーデ、ドイツの芸術家村>を要約、引用しました。 ■ハインリッヒ・フォーゲラー年譜 Heinrich Vogeler 1872年(明治5年) 12月12日、ブレーメンで鉄をあつかう富裕な商人カール・エドアルト・フォーゲラーの息子として生まれた。 1890年(明治23年) デュッセルドルフ美術アカデミーに入学、ペーター・ヤンセン、エドアール・フォン・ゲプハルト、アルトウール・カンプフ等に人物画、装飾を学ぶ。 1892年(明治25年) オランダ、ベルギー、イタリアに研修旅行。 1893年(明治26年) アカデミーを卒業し、パリに行き、ルーヴル美術館やビブリオテーク・ナショナルを見る。 1894年(明治27年) ブレーメンの近くの村ヴォルプスヴェーデに滞在し、同地の芸術家グループと接触する。フリッツ・マッケンゼン、オットー・モーダーゾーン、ハンス・アム・エンデ、フリッツ・オーヴァーベックと共に〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉を設立する。 ハンス・アム・エンデに銅版画と木版画の技術を学び、エッチング第一作目を制作。 後に妻となる、教師の娘マルタ・シュレーダーと出会う。父カール死亡。 1895年(明治28年) ブレーメン美術館とミュンヘンのガラス宮殿での「国際美術展覧会」において〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉による最初のグループ展。そこでセンセーショナルな成功を収める。 ハンス・アム・エンデの指導のもと、マッケンゼン、オーヴァーベック、フォーゲラーは〈ヴァイヤーベルク・オリジナル銅版画協会〉を設立し、共同で版画の作品集を出版、販売する。4人の最初の版画集『ヴァイヤーベルクから』を発刊する。 ベルリンのO・フェルジングから銅版画のプレス機を手に入れる。 ヴォルプスヴェーデの町外れにある藁葺の農家を買って自分の家として改造する。 ハウプトマンの『沈鐘』の挿絵。 1896年(明治29年) 街道に沿って白樺を植え、自邸にバルケンホフの名を冠する。 1897年(明治30年) ドレスデンにしばらく滞在する。ここで開かれた展覧会でムンクの「病める娘」を見て衝撃を受けたという。 版画集『ヴォルプスヴェーデより』が、マッケンゼン、オーヴァーベック、アム・エンデ、及びフォーゲラーの12葉の銅版画で発刊される。 1898年(明治31年) フィレンツェヘの旅。ポッティチェリを見る。ここでライナー・マリア・リルケと知り合う。書物の装幀の最初の重要な依頼を受ける。 バルケンホフの大改装。 クリスマスにリルケがフォーゲラー宅を訪問する。リルケはフォーゲラー宅を去った後、バルケンホフに捧げた銘文をフォーゲラーに送っている。 ドレスデンにおける最初の大規模な個展の開催。 1899年(明治32年) フォーゲラーの詩集『おまえに』およびエッチング集『春に寄せて』が刊行される。 モーダーゾーン及びオーヴァーベックとともに〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉から脱退、その後協会は解散する。 R・A・シュレーダーのすすめで、ミュンヘンで出版社インゼルの仕事をするようになる。雑誌『インゼル』に協力する。ミュンヘンにしばしば滞在する。 リルケの第二詩集『わが祝いに』(G・H・マイヤー刊)の挿絵を描く。 1900年(明治33年) リルケがバルケンホフに長期滞在する(8月末から10月初めまで)。 A・W・ハイメルのために工芸デザイン、ハイメルのシュワービング(ミュンへン)の家の設計。 この頃頻繁にバルケンホフで芸術の夕べを開く(客人としてハウプトマン兄弟、デーメル、ビーアバウム、ベートゲら)。 1901年(明治34年) ヴォルプスヴェーデ出身のマルタ・シュレーダーと結婚(娘マリー=ルイーゼ、ベッティーナ、マルタ)。 アムステルダム、プリユージュ、パリへ旅。 リルケはクララ・ヴェストホフと、モーダーゾーンはパウラ・ベッカーと結婚。 1902年(明治35年) ブレーメン美術館(クンストハレ)で上演されたライナー・マリア・リルケ監督の演劇「ベアトリックス姉妹」の舞台美術を手がける。 1903年(明治36年) マルタとイタリアへ旅。オットー・ゾーンとナポリ、ポンペイをまわる。 リルケの『ヴォルプスヴェーデ』が出版される。 リルケが妻クララと共にあらためてバルケンホフの客人となる。 1905年(明治38年) 室内設計、装飾を担当したブレーメン市庁舎「黄金の間(ギュルテンカンマー)」が完成。ユーゲントシュティールの最も重要な室内工芸のひとつとなる。 オルデンブルクで開催された北西ドイツ美術展の特別室に大作《夏の夕べ》を出品し、金賞を獲得する。 1906年(明治39年) セイロン島へ旅行。 弟フランツ・フォーゲラーがヴォルプスヴェーデに「美術と工芸の家」を創設する。 ドレスデンにおける第3回ドイツ工芸美術展に《若い女性のための部屋》を出品する。 1907年(明治40年) パウラ・モーダーゾーン=ベッカーの死。ゴーリキイを読む。 マルタとの仲が悪くなりはじめる。 1908年(明治41年) バルケンホフの最後の大改装。 弟フランツと共に家具、インテリア・デザインのための「ヴォルプスヴェーデ工房」を設立する。 ドクター・レーンベルグの家の設計。 鉄道の客車の設計。 1909年(明治42年) イギリスの研修旅行に参加し、「ヴォルプスヴェーデ工房」のために労働者集合住宅の設計案をつくる(実行されず)。 結婚生活の危機、フォーゲラーの作品に対する一般の関心も薄れる。 1910年(明治43年) ブリュッセル国際展への参加。「ヴォルプスヴェーデ工房」が表彰される。 ヴォルプスヴェーデ駅竣工。 ブレーメン美術館で展覧会。 東京・上野公園竹ノ台陳列館で開催された白樺社主催「南薫造・有島壬生馬渡欧記念絵画展覧会」に参考品として銅版画3点が展示される。日本初のフォーゲラー作品の展示となる。 1911年(明治44年) パリとスイスに旅。パリでリルケと再会。 前年に創設された日本の文芸誌『白樺』と接触する。 雑誌『白樺』第2巻第9号(9月1日付)でフォーゲラーが紹介される。 白樺社主催「泰西版画展覧会」(東京霊南坂下 三會堂)にフォーゲラーのエッチング14点およびヴォルプスヴェーデの他の画家たちの作品が展示される。 雑誌『白樺』第2巻第12号(12月1日付)でフォーゲラーを特集する。 1912年(明治45年) ザルツブルグ、ウィーン、ミュンヘン、ヴュルツブルグ、ベルリンへ旅。 白樺主催「第4回美術展覧会」(霊南坂下 三會堂)に一室が与えられ、銅版画38点が出品される。また京都での「第5回美術展覧会」(岡崎公園 府立図書館)にエッチング30数点が展示される。 『白樺』10月号のために表紙を描く。 リルケの著した『マリアの生涯』にフォーゲラーが挿絵を入れるという協同計画が、フォーゲラーの素描を不服としたリルケにより頓挫する。 1913年(大正2年) ベルリン滞在。 白樺主催「第6回美術展覧会」(虎の門議員倶楽部)にフォーゲラーの描いた「白樺」図案が展示される。 1914年(大正3年) 第一次世界大戦はじまる。公私共に展望を失い、志願兵として出征する。 ハイメルの死(ルドルフ・アレクサンダー・シュレーダーと共にインゼルをやっていた)。 この年の終りにリルケと最後に会ったといわれる。 1915年(大正4年) 軍務の訓練。カルパチア山脈に出征し、後にルーマニアに移動。 1916―17年(大正5−6年) ポーランド、ルーマニア、ロシアに転戦。 ロシア革命おこる。 ボリシェヴィキのビラを読んで共鳴、反戦思想が芽生える。 1918年(大正7年) 「皇帝への手紙」で戦争継続に抗議し、一時ブレーメンの精神病院に収容される。非法定神経障害と診断され、除隊。 政治的世界観が変貌し、ブレーメンの社会主義着たちと接触する。 ブレーメン労働者及び兵士評議会ができ、その委員となる。 バルケンホフで政治集会。 1919年−1924年(大正8年−13年) バルケンホフが警察と治安当局から組織的に監視される。逃走中の革命家を匿った疑いで警察に捜索され、フォーゲラーは逮捕される。 「バルケンホフ労働者共同体」設立(1923年まで存続)。これは1921年以降「バルケンホフ労働者学校」として、農業および手工芸のコミューンを形成する。 コミュニストのマリー・グリースバッハとの交流。 1920年(大正9年) マルタと娘たちとの離別。マルタらは新築のハウス・イム・シュルーに転居する。 バルケンホフの壁画制作(−1926) 1922−23年(大正11−12年) 最後の銅版画制作。 1923年(大正12年) 後に二人目の妻となるソニア・マルフレフスカと初めてソビエト連邦(以下ソ連)を旅行。モスクワで二人の息子ヤン・ユルゲンが誕生。 「モスクワ西方国家的少数派共産主義大学」の芸術学部長となる。帰国後、共産党に入党。 バルケンホフ「子供の家」、「赤色救援会」と共同利用。 1924年(大正13年) 母マリー死亡。 バルケンホフが「ドイツ赤色救援会」の所有となる。 複合絵画技法の形成。 1925年(大正14年) ロシア革命の宣伝の書『ロシアの旅』を出す。 ベルリンに移住。合間にバルケンホフ・ディーレにフレスコ画を制作(1939年、改築により破壊される)。ベルリンで複合絵画展覧会、国際赤色救援会の任務によりソ連旅行。 1926−27年(大正15−昭和2年) マルタと正式に離婚。あらためてソ連に旅行し、クレムリンに居を構える。ソニア・マルフレフスカと結婚。 中央アジアへ旅(サマルカンド、アシュハバード、クラスノヴォトスク、バクー)ドイツに帰国、ベルリンに移住。 バルケンホフの壁画が完成するが、当局より撤去を求められる。それに対してトーマス・マンら芸術家・文化人の広範なプロテストの運動広がる。 リヴェラに会う。 1928年(昭和3年) 革命的ドイツ造形芸術家同盟設立。 次第にソニアと疎遠になる(後にロシアで結婚解消)。 1929年(昭和4年) 注文画家として窮乏生活。共産党から追放される。 ベルリンのアーキテクトウールビュローのデザイナーとして働く(−1931)。 1930年(昭和5年) バルケンホフで赤色救援会が複合絵画展を開催、フォーゲラーの最後のヴォルプスヴェーデ滞在となる。 1931年(昭和6年) 再びソ連に渡る。〈建築標準化委員会〉に協力。ソビエト・ロシアで宣伝画家として働く。 1932年(昭和7年) モスクワ新西洋美術館におけるフォーゲラー展。 ヴォルプスヴェーデの子供の家<バルケンホフ>は閉鎖、所有権が個人の手に渡る。 1934年から(昭和9年から) モスクワ西洋美術館が複合絵画《ハンブルクの整備工》を購入。 カレリアのペトロサヴォスク郷土博物館のために作品を制作する。 カレリア・タシケント、アゼルバイジャン、クルディスタンの旅。 1935年(昭和10年) モスクワで複合絵画の個展。雑誌『国際文芸』への協力。 1936年(昭和11年) カレリアのペトロサヴォスクで「社会主義の産業」展のために素描90点余りの注文制作を受ける。複合技法の放棄。その後ソビエト連邦人民博物館の依頼で、連邦内の遠隔地へ制作旅行。 1941年(昭和16年) ソニアと離別。ソビエト芸術家モスクワ協会の展示室で絵画80点による展覧会。 ドイツ軍のソ連侵攻後、フォーゲラーは赤軍の宣伝部門に加わり、前線に送るパンフレットをデザインする。またモスクワ・ラジオ局のドイツ語放送で声明文の執筆と朗読。 彼の名はドイツ治安当局の特別手配者リストに掲載される。ドイツ軍がモスクワの手前まで侵攻してきたとき、中央アジアのカザフスタンに疎開。ダムで土木工事作業につく。 1942年(昭和17年) 物質的に窮乏し、健康状態も悪化する。入院するが、6月14日にカザフスタンにて死す。 ■ハンス・アム・エンデ略歴 Hans am Ende 1864年(元治元年) 12月31日、牧師の息子としてトリーアに生まれる。 1872年(明治5年) 一家はナウムブルク(チューリンゲン)近郊のキルヒシャイディンゲンに移住。1543年以来ドイツの精神的エリートを教育した有名な修道院寄宿寮プフォルタ校に通う。 1884−1889年(明治17−22年) ミュンヘンの芸術アカデミーで勉学開始。銅版画家ホルツアプフェルから銅版のさまざまな技法を学ぶ。 1886/87年(明治19−20年) カールスルーエの芸術アカデミーに一時滞在。 1888年(明治21年) ミュンヘンでフリッツ・マッケンゼンと知り合う。ガラス宮殿でバルビゾン派の画家、トロワィヨン、コロー、ミレー、ドービニーの絵に出会う。ミュンヘンのギャラリーでは、ベックリン、フォイエルバッハ、レンブラントに感嘆する。 1889年(明治22年) マッケンゼンに従い、ヴォルプスヴェーデに行き、翌年からは繰り返し戻ってくる。 この時期は主にベルリンで母と重病の弟と住む。 1894年(明治27年) フリッツ・マッケンゼン、オットー・モーダーゾーン、フリッツ・オーヴァーベック、ハインリヒ・フォーゲラーと共に〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉を設立する。 1895年(明治28年) 年初めにヴォルプスヴェーデに定住。 ブレーメン美術館とミュンヘンのガラス宮殿での「国際美術展覧会」において〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉による最初のグループ展。そこでセンセーショナルな成功を収める。 ハンス・アム・エンデの指導のもと、マッケンゼン、オーヴァーベック、フォーゲラーは〈ヴァイヤーベルク・オリジナル銅版画協会〉を設立し、共同で版画の作品集を出版、販売する。4人の最初の版画集『ヴァイヤーベルクから』を発刊する。 アム・エンデは最初の独自のプレス機を入手する。ミュンヘン、ガラス宮殿の展覧会で、彼の銅版画《ヴォルプスヴェーデの水車》と《中庭》は大きな注目を浴びる。 1897年(明治30年) ブレーメン出身のマグダ・ヴィルアッツェンと結婚。〈ヴォルプスヴェーデ芸術家連合〉設立の際は最初の記録係となる。 版画集『ヴォルプスヴェーデより』が、マッケンゼン、オーヴァーベック、アム・エンデ、及びフォーゲラーの12葉の銅版画で発刊される。 1898−1913年(明治31−大正2年) バルケンホフのとなりに家を建てる。芸術家共同体の解散後には、アム・エンデはマッケンゼンと親密な仲になり、両者は一層の成功と名声を得る。 1914−1918年(大正3年) 第1次世界大戦の際は志願兵として前線に赴き、フランスのアラス近郊で重傷を負う。 7月19日にシュテッティンの病院で死去。 ■フリッツ・オーヴァーベック略歴 Fritz Overbeck 1869年(明治2年) 9月15日、ブレーメンで4人の子どもの末っ子として生まれる。父はドイツの最も重要な造船会社、北ドイツ・ロイド社の共同創設者で技術部長。 1877−1879年(明治10−12年) 父と兄、姉の死。 1889−1893年(明治22−26年) デュッセルドルフの芸術アカデミーで勉学。最初の銅版画。 1892年−1893年(明治25-26年) 夏期にヴォルプスヴェーデで最初の滞在。モーダーゾーンとは同じ芸術的目標で結ばれ、親密な仲間となる。 1894年(明治27年) 1年の兵役の後、秋にヴォルプスヴェーデに定住する。ベックリンと17世紀オランダの風景画に驚嘆する。 フリッツ・マッケンゼン、オットー・モーダーゾーン、ハインリヒ・フォーゲラー、ハンス・アム・エンデと共に〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉を設立する。 1895年(明治28年) ブレーメン美術館とミュンヘンのガラス宮殿での「国際美術展覧会」において〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉による最初のグループ展。そこでセンセーショナルな成功を収める。 ハンス・アム・エンデの指導のもと、マッケンゼン、オーヴァーベック、フォーゲラーは〈ヴァイヤーベルク・オリジナル銅版画協会〉を設立し、共同で版画の作品集を出版、販売する。4人の最初の版画集『ヴァイヤーベルクから』を発刊する。 1897年(明治30年) ヴァルスローデ出身の女子生徒ヘルミーネ・ローテと結婚(息子フリッツ・テオドール、娘ゲルダ)。彼の絵はミュンヘンとドレステンの展覧会でゴールドメダルを授与される。 版画集『ヴォルプスヴェーデより』が、マッケンゼン、オーヴァーベック、アム・エンデ、及びフォーゲラーの12葉の銅版画で発刊される。 1899年(明治32年) モーダーゾーン及びフォーゲラーとともに〈ヴォルプスヴェーデ芸術家連合〉を脱会。 1903−1904年(明治36−37年) オーヴァーベックはヴォルプスヴェーデとこの地の芸術家共同体から離脱。ハルツ山と北海の島ジュルトに旅行、そこで、新たな絵画モチーフを見出す。彼の絵画《泥炭地で》は、ミュンヘン・ゼセッシオン展覧会に出展され、ノイエ・ピナコテークによって購入された。 1905年(明治38年) ヴォルプスヴェーデを去り、家族とブレーメンの北方ブレッケンに移り住む。 1908−1909年(明治41−42年) レーン河とダヴォス山に旅行、そこで結核を患った妻がサナトリウムで療養していた。 1909年(明治42年) 6月9日、心臓麻痺で死去。 ■フリッツ・マッケンゼン略歴 Fritz Mackensen 1866年(慶応2年) 4月8日、当時のハノーヴァー王国、グレーネのパン屋の店主の息子として生まれる。 1883年(明治16年) 当時ヨーロッパの最良校に数えられたデュッセルドルフの芸術アカデミーで勉学を開始。同級生オットー・モーダーゾーンとの友情。 1884年(明治17年) 最初のヴォルプスヴェーデ滞在、1886年と1887年の夏休みもここで過ごす。 1888年(明治21年) ミュンヘンの芸術アカデミーで研究の継続。 1889年(明治22年) オットー・モーダーゾーンとハンス・アム・エンデとともにヴォルプスヴェーデで夏を過ごす。ヴォルプスヴェーデに定住する。 1892−1894年(明治25−27年) カールスルーエの芸術アカデミーとベルリンの芸術アカデミーに一時的滞在。 1894年(明治27年) 秋にハンス・アム・エンデ、オットー・モーダーゾーン、ハインリヒ・フォーゲラー、フリッツ・オーヴァーベックと共に〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉を設立する。 1895年(明治28年) ブレーメン美術館とミュンヘンのガラス宮殿での「国際美術展覧会」において〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉による最初のグループ展。そこでセンセーショナルな成功を収める。マッケンゼンは《野外の礼拝》でゴールドメダルを獲得する。 ハンス・アム・エンデの指導のもと、マッケンゼン、オーヴァーベック、フォーゲラーは〈ヴァイヤーベルク・オリジナル銅版画協会〉を設立し、共同で版画の作品集を出版、販売する。4人の最初の版画集『ヴァイヤーベルクから』を発刊する。 1896−1899年(明治29−32年) 成功が続く。マッケンゼンの絵画は、ベルリン、ドレスデン、ミュンヘン、ウィーンの展覧会でメダルと表彰を受ける。芸術家たちの間では論争が増え不信感が高まる。 〈ヴォルプスヴェーデ芸術家連合〉(1897年)、そう命名されるべき定款の文章作成は、グループの分裂を阻止する試みであった。1899年には解散に至る。 1897年(明治30年) 版画集『ヴォルプスヴェーデより』が、マッケンゼン、オーヴァーベック、アム・エンデ、及びフォーゲラーの12葉の銅版画で発刊される。 1898年(明治31年) 9月にパウラ・ベッカーはマッケンゼンの生徒となる。 1900−1901年(明治33−34年) ライプツィヒとデュッセルドルフのアカデミーがマッケンゼンに教授職を申し出るが、彼はヴォルプスヴェーデに留るため辞退する。 1907年(明治40年) 生徒のヘルタ・シュタールシュミットと結婚(娘アレクサンドラ)。 1908−1918年(明治41−大正7年) ワイマール大公アカデミーの教授、1910年以降は校長。夏期はヴォルプスヴェーデで過ごす。 1922−1932年(大正11−昭和7年) 通貨危機により、マッケンゼンは全財産を失う。 1933−1945年(昭和8−20年) 経済的な大困窮の状況で、生計費を肖像画と注文仕事で稼ぐ。 1953年(昭和28年) 5月12日、ヴォルプスヴェーデで死去。 ※略歴作成に際しては、下記の文献を参考にし、一部引用させていただきました。 『ハインリッヒ・フォーゲラー展 図録』、1979年、リッカー美術館 『パウラ・モーダーゾーン=ベッカーとヴォルプスヴェーデの画家たち ―素描と版画1895-1906―(日本語版)』、2005年、伊丹市立美術館 『フォーゲラーとリルケ展 ヴォルプスヴェーデの芸術家たち』、1990年、軽井沢高原文庫 『ハインリッヒ・フォーゲラー展』、2000年、東京ステーションギャラリー 『パウラ・モーダーゾーン=ベッカー展』、2005年、宮城県美術館・神奈川県立美術館・栃木県立美術館 展示風景 現代美術オークション6月30日(金)〜7月2日(日)【TOP PAGE】 |