◆瀧口修造展-V 瀧口修造とマルセル・デュシャン 会期=2014年11月5日[水]―11月22日[土] 12:00-19:00 ※会期中無休 この展覧会は、ときの忘れものが本年の企画の柱と位置付け、すでに今年1月と3月の2回にわたり開催してまいりました「瀧口修造展」の第3回目に当たります。 今日ではマルセル・デュシャンは現代美術の偉大な先駆者とされ、ネオダダ、ポップアート、キネティック・アート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートなどの1960年代以降のさまざまな潮流の源に位置付けられる、20世紀の最も重要なアーティストのひとりと評価されていますが、こうした評価が確立する前の1930年代から、瀧口修造はデュシャンに対して深い関心を寄せ、たびたび論じてきました。 1938年に最初の論考「マルセル・デュシャン」を『みづゑ』誌に発表したのを皮切りに、1955年に『藝術新潮』誌に連載した「異色作家列伝」ではその締めくくりにデュシャンを採り上げ、翌年には『美術手帖』誌に「デュシャンのロト・レリーフ」を寄稿しています。58年の欧州旅行の途上でスペイン(カタルーニャ)のカダケスにダリを訪れた際にはダリからデュシャン本人を紹介され、以降は互いに著書を献呈するなど、直接の交流が生まれました。 1960年代に入ると瀧口は、時評的な美術評論活動から次第に手を引く一方、ドローイング、水彩やデカルコマニーなどの制作に勤しみ、さらにオブジェの概念の再考察へと思索を深めていきましたが、この過程で瀧口が構想した架空の「オブジェの店」に対して、デュシャンが若き日の変名「ローズ・セラヴィ」を(瀧口の希望に沿って)贈呈するなど、2人の間にはある種の思想的な共鳴も生じていたように思われます。この命名に対する返礼として瀧口は、デュシャンのテクストや言葉の遊びを編集した『マルセル・デュシャン語録』を68年に刊行したのを手始めに、同年に没した後もデュシャンに関する膨大なメモを残し、マルティプルや手作り本を制作し続けています。後半生の瀧口が最も重要な課題のひとつとし、最も多くの時間を充てていたのは、デュシャンとその作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称「大ガラス」)を巡る考証であったといっても、決して過言ではないでしょう。 本展は瀧口ならびにデュシャンの作品に加え、瀧口の要請に基づいて撮影された奈良原一高の1973年の連作「マルセル・デュシャン 大ガラス」を展示することにより、瀧口とデュシャンとの交流の実相と精神的な絆の一端を明らかにし、1960年代の日本の現代美術に及ぼした瀧口とデュシャンの隠然たる影響力の背景を探ろうとするものです。 瀧口修造のデカルコマニー、ドローイング、《シガー・ボックス》、《シガー・ボックス TEN-TEN》、《扉に鳥影》、マルセル・デュシャンの《グリーン・ボックス》、オリジナル銅版画9点『大ガラス』、奈良原一高の写真《マルセル・デュシャン 大ガラス》、瀧口修造と岡崎和郎《檢眼圖》をご覧いただきます。 ●イベントのご案内 11月15日(土)17時より、土渕信彦さん(瀧口修造研究)によるギャラリー・トークを開催します。 ※定員に達したため、受付は終了しました。 ■瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI(1903-1979) 詩人、美術評論家として知られる。シュルレアリスムの理念を体現し、戦前・戦後を通じ日本における前衛芸術運動の理論的・精神的支柱として、多くの芸術家の活動を鼓舞し続けた。内外の造形作家と詩画集を共作したほか、自らも多数の造形作品を残している。 1903年、富山県に生まれる。幼少期から文学・美術に親しみ、特にウィリアム・ブレイクに傾倒していた。慶應義塾大学英文科在学中に、指導教授だった西脇順三郎を通じてシュルレアリスムを知り、『シュルレアリスム宣言』、『磁場』などを読んで深く影響され、一連の実験的な詩的テクストを発表するとともに、ブルトン『超現実主義と絵画』を全訳した。31年に卒業後、映画製作所PCL(写真化学研究所。東宝の前身)にスクリプターとして勤務する傍ら、美術評論活動を開始した。海外のシュルレアリストたちと文通を続け、ブルトン『通底器』、『狂気の愛』、「文化擁護作家会議における講演」やエルンスト、ダリの著作などを翻訳・紹介、37年には山中散生とともに「海外超現実主義作品展」を開催した(記念出版『アルバム・シュルレアリスト』も編集)。「超現実造型論」「前衛芸術の諸問題」などの美術評論だけでなく「写真と超現実主義」「物体と写真」などの写真評論も執筆し、画壇に属さない前衛美術家・写真家たち の研究・発表グループを理論的に指導した。 戦後は読売新聞などに多くの美術評論を発表し、時代を代表する美術評論家として活動した。タケミヤ画廊の企画を委嘱され、208回に及ぶ展覧会を開催して、多数の若手美術家に発表の機会を設ける一方、51年に結成された「実験工房」の活動にも顧問格として関与するなど、清廉な人柄も相俟って影響力は絶大であった。 58年、ヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーとして訪欧、イタリアの彫刻部門の代表だったフォンターナを高く評価して絵画部門で票を投じた後、欧州各地を訪問し、ブルトン、デュシャン、ダリ、ミショーらと面会した(ブルトンとの会談を自ら「生涯の収穫」と回想している)。帰国後、時評的な美術評論の発表が減少する一方、展覧会序文などの私的な執筆が増加した。公的な役職を辞任する反面、赤瀬川原平の「千円札事件」(65〜70年)では特別弁護人を積極的に引き受けている。ミロ、サム・フランシスなど、多くの造形作家と詩画集を共作したほか、自らもドローイング、水彩、デカルコマニー、バーント・ドローイング(焼け焦がした水彩)、ロトデッサン(モーターによる回転線描)などの、独特な手法の造形作品を制作し、個展も数回開催している。67年には戦 間期の詩的テクストを集成した『瀧口修造の詩的実験 1927〜1937』を刊行した。夢の記録の形をとった散文作品や、諺のような短いフレーズの作品も残している。79年に心筋梗塞のため没した。 (執筆:土渕信彦)
<瀧口修造展-V 瀧口修造とマルセル・デュシャン>出品リスト 2014年11月5日[水]―11月22日[土]
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