君島彩子のエッセイ 第3回 「たらし込みについて」 2010年8月1日 |
油彩画制作の後に、水墨画を描き始めて感じたのは、支持体の白の違いだ。
油彩画を描き始める時、目の前に見える白いカンバスは[tabula rasa]である。 何もない画面上に時間・経験として油絵具を重ね、画面を埋め尽くし新しい存在が完成する。そしてカンバスは新たな存在を支える土台に変化する。 しかし、水墨画を描く前に目の前に見える白紙は何もない状態ではない。白紙は描画以上にそこに既に存在している。白紙と墨は対等な関係として描画され存在が変化していくにすぎない。全て、初めから終わりまで存在し、同時に空でもある。
水墨画を描き始めた頃、面白い作品と出会った。 17世紀前半に俵屋宗達によって描かれた『犬図』である。 地面の匂いを必死で嗅ぐ少し目つきの悪い仔犬が、萌える春の草とともに描かれている、可愛らしい水墨画だった。しかし見れば見る程に落ち着かない気持ちになる、奇妙な作品で、目が離せなくなってしまうのだ。 『犬図』は没骨法で描かれていた。 輪郭線を描かず、対象物を面でとらえ墨の濃淡で表現する「没骨法」は南宋代末期の牧谿にも見られる技法で、感覚としては[painting]に近い。私はそれまで墨で描く事を[drawing]として考えていたが、油彩画のように何層にも絵具を重ねる作業をしなくとも白い紙と黒い墨、そしてそのグラデーションを使い作り出す画面は[painting]だと考え直すようになった。 さらに、俵屋宗達は「没骨法」に「たらし込み」の技法を融合させていた。 たらし込みは、墨が乾く前に濃度の違う墨で描き加える事によって、微妙な滲みを出す技法である。 宗達は仔犬の陰影や毛並みを表すために、たらし込みを用いたのかもしれないが、私には実体のない仔犬の影のように見えた。 たらし込みの偶然性は、自分の作品の中に意図的な部分と恣意的な部分を融和させる不思議な効果があるように感じられる。 そこに不確定な記憶を呼び起こさせる力があるように思える。 今回の作品のタイトル「Poured」は、たらし込みをイメージ出来るようにしたものだが、そこに注がれたのは墨だけでなく、鑑賞者の記憶であればと願っている。 (きみじまあやこ) 「君島彩子のエッセイ」バックナンバー 君島彩子のページへ |
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