◆第179回 生誕100年・未来派―ドメニコ・ベッリ展 2009年9月29日[火]―10月17日[土] ドメニコ・ベッリ展によせて 太田岳人(千葉大学大学院) 2008年10月18日 |
2009年は「未来派創立宣言」の発表から100周年にあたり、未来派の美術作品はイタリア国内で大々的に展示されるのみならず、世界各地を巡回している。アジアでもつい先ほどまで、台北の国立中正紀念堂附属ギャラリーで展覧会が開かれていた(「飆未来:未来主義百年大展」、7月15日〜10月11日)。しかし、《ときの忘れもの》がドメニコ・ベッリ(1909−1983)を取り上げるという情報を聞いた時には驚かされた。私は未来派をはじめとする近現代イタリア美術史を研究しているが、ベッリは決してメジャーな名前ではない。近年出版された2巻本の分厚い『未来派辞典』(E.
Godoli (a cura di), Dizionario del Futurismo, Firenze, 2001)においては、同じ未来派への参加歴がある「ベッリ」でも、現在では抽象主義の画家・理論家として知られるカルロ・ベッリ(1903−1991)の記述の方が多いくらいである。
しかし1930年代における未来派の活動を見ると、ドメニコ・ベッリの名前は頻繁に登場して来る。1929年、ローマの未来派画家の長老格であったジャコモ・バッラ(1871−1956)の知遇を得た彼は、その2年後にアウグスト・ファヴァッリ(1912−1969)やブルーノ・ターノ(1913−1942)ら、最も若い世代による「未来同時主義派ブロック」(後に人員を増やし「ローマ未来派グループ」に発展)を結成する。彼らは公衆を巻き込んだ「未来派の夕べ」をたびたび開催するとともに、先達に学びつつ自らの創作活動を模索していった。運動の指導者であるF.T.マリネッティはこの後、ベッリの表現を、エンリコ・プランポリーニ(1894−1956)の「超地上的・宇宙的・生化学的」な造形に通ずるものとして位置づけ賞賛している(シュルレアリスム的な感覚を未来派に取り入れていたプランポリー二の影響は、ベッリが1935年のローマ・クワドリエンナーレに出品した《空間への停泊》などに顕著である)。ともあれ、クワドリエンナーレやヴェネツィア・ビエンナーレといった国家規模の展覧会から、イタリア各地の画廊における未来派のグループ展、さらには劇場の舞台美術からレストランの装飾壁画の制作に至るまで、彼は幅広く活動していた。 一方でベッリへの評価を難しくするのは、未来派運動とファシズム政権との関係であろう。両者の複雑な関係性についてはここでは割愛するが、1910年前後の生まれで1930年代よりキャリアを開始するベッリの世代の芸術家たちにとって、すでにこの政権が動かしがたい社会的与件として存在していたのは確かである。1936年のヴェネツィア・ビエンナーレのカタログで、マリネッティは自分を含めた38人の未来派が前年のエチオピア戦争に参加したとアピールし、そこではベッリの名前も挙げられている。ファシズム政権の社会事業や戦争からも、しばしば未来派は自身の芸術の題材を探っている。若きベッリもその例に漏れなかったが、そのファシズム政権が参戦した第二次世界大戦の状況が急速に悪化したことにより、彼の創作活動は中断を余儀なくされる。 第二次世界大戦中の1944年、マリネッティは世を去った。研究者の多くはこの年をもって未来派運動の完全な終焉としている。実際かなりのメンバーが、大戦中からその直後にかけて未来派から離れ(日本でも著名なブルーノ・ムナーリはその一人である)、アンフォルメルなど別の探求へと移行した。しかし、ベッリと同じく30年代に未来派として頭角を現した画家トゥリオ・クラーリ(1910−2000)は、晩年の回想的画文集『線で描いた未来派』(T. Crali, Futuristi in Linea, Rovereto, 1994)で、この「未来派の終焉」論に異議を唱えている。彼によれば、1950年に戦前の未来派メンバーを集めた会議が開かれ、マリネッティの死をもって未来派は終わったとする意見に抗し、なお自分たちが運動を前進させるべきだという反対が少なからず出て、自身も後者に加わったのだという。クラーリは現役の未来派であると最後まで自己を定義し続けたが、戦後は広告と展覧会設営を生業としたベッリもまた、この運動に対する情熱を失ったわけではなかった。すなわち彼は、1960年代末にかつての仲間が発した「今日の未来派」宣言に署名し、同名の芸術雑誌にも参画したのに加え、1970年代には再び未来派としての新作のグループ展を開催し続けた。 《ときの忘れもの》に展示された作品は、その晩期のベッリによるものである。これらは躍動感ある色彩のリズムによって、自然や空間、およびその中に存在する事物を構成しつつも、形態の抽象化はむしろ対象の特質を浮かび上がらせるように機能している。ここには、1910年代後半にバッラが試みを始め、後の世代の芸術家にも徐々に拡大していった「未来派的抽象」との連結を見ることができる。しばしば未来派は、その初期のスピード感や劇的表現が際立った作品へ賞賛が集まる一方、1920年代以降の多極的展開(いわゆる「第二未来派」)への評価は高くない。しかしベッリのような、大戦間期に芸術を志したイタリアの若者にとって、未来派は決して衰退しつつある集団ではなかった。そして個人によっては、ある一時期の経験(時にファシズムと結びついた)の域を超え、生涯を通じてそう名乗り続けるに足る深い内的価値すら有していた。彼らが年を重ねてなお未来派を名乗り続けたのは、単にノスタルジーに生きたのではないと私は思う。むしろ現在進行形の芸術家として、なお青春の夢に忠実だったのだと言えよう。
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