松本路子のエッセイ 第2回 「ニキ・ド・サンファルとのフォト・セッションA」 2010年5月14日 |
「アーティスト・ポートレイトを撮ること」 松本路子
ニキ・ド・サンファルと出会った頃、私は女性アーティストの、ひとり1枚の肖像を撮り始めていた。 アーティストを撮りたいと思ったのは、ニューヨーク滞在がきっかけだった。 人物ドキュメンタリーを10年近く続け、最初の写真集を出版した20代の終わりに、個人の「個」にむしょうに向き合いたいと思った。海外での仕事が増えるにつれ、日本の中での「個」としての在り様が定まらなかったのだ。というより生き難さを感じていたのかもしれない。 まずは「個」を強烈に放つ人々の集まるニューヨークに出かけることにした。具体的な方法が見つからないまま何人かを撮っていたある日、密着焼きを見て、ひとつの小さなコマにひどく胸をゆすぶられた。人物を真正面から捉え、目と目を合わせたその写真は、まさに「何か」と向き合っている、そんな風に思えた。それが私とポートレイトの出会いだった。 100人近い女性を自宅や仕事場に訪ねて撮り、『肖像 ニューヨークの女性たち』という写真集にまとめたのは1983年のことだ。 ポートレイトを撮る中で、自己の内部のどこかで核心のようなものを掴んだ人は、肖像の像がぴたりと定まり、核心をつかめていない人の像はぶれて定まらない(もちろん物理的には静止しているのだが)ということを知った。さらに無言で交わす会話の豊穣さと、えもいわれぬ存在感で私を圧倒したのは、表現する人−アーティストーだった。次第にアーティストの写真が増えていった。 肖像写真の特徴のひとつに、被写体が写されることをたっぷりと意識している点が挙げられる。それゆえ両者は対峙する姿勢で向き合い、写真家が被写体をねじ伏せたような写真や、写真家の存在が消えたポートレイトになりがちだ。どちらかが勝者となった写真。私はそうした向き合い方ではないポートレイトを創りたいと思った。 写真家と被写体が互いに呼吸を合わせ、シャッターの音とともに集中していくと、集中の極みに、ふと力が抜ける瞬間がある。無心に、あるがままの個体としてそこに存在するのだ。当初は、そこで像がぴたりと静止するそんなポートレイトを撮っていた。 だがやがて、無心の中で遊んでいるような写真が撮りたいと思い始めた。ジャズの即興演奏のように、写真家と被写体が呼吸を合わせ、響きあう中から、ひとつの音=映像が生まれてくる。時にはスパークリングするスリリングな時間。こうしたフォト・セッションは、ニキ・ド・サンファルと共有した時間の中から自然に生まれてきたような気がする。
世界各地で、同時代を生きるさまざまなアーティストを撮る中で、ある時、ふと気がついた。アーティストの集中の極みのたたずまいは、画家が絵を描く、彫刻家が造形する、ダンサーが舞台で踊る、まさにそのときのものではないか、と。私にとってアーティストの肖像を撮ることは、その創造の最高の瞬間に立ちあうことでもあった。 自分では自由であると思っても、その枠は際限なくはずしてゆける。解き放たれた創造の魂との出会いがそれを私に教えてくれた。ひたすら人を、そしてアーティストを撮り続けるわけは、そこにあるのだ、とも。写真集『ニキ・ド・サンファル』は1986年に、『Portraits 女性アーティストの肖像』は1995年に出版された。 (まつもとみちこ) 「松本路子のエッセイ」バックナンバー 松本路子のページへ |
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