『アンディ・ウォーホル展 1983~1984 カタログ』所収 1983年6月 現代版画センター刊
このカタログは、現代版画センターが一九八三年六月から約一年間、日本各地で開催を計画している「アンディ・ウォーホル全国展」のためにつくられたものである。
「全国展」計画の大要は次の通り
一、 ウォーホルの日本初のエディションとして、「KIKU」シリーズ三点の発表(カラー図版1~3、刷りは石田了一氏)。
二、 「KIKU」シリーズを始め、「LOVE」シリーズ、「危機に瀕している種」シリーズなど八〇年代の新作版画を中心とする「アンディ・ウォーホル全国展」の開催。北海道から沖縄まで、全県にわたって約五〇会場が予定されている。同時に東京では、「ウォーホル東京365日展」を、画廊、美術館、ディスコなど様々な可能性をもった空間において開催。美術だけでなく、映像、音楽なども含めた多角的視野から把える連続展として組織される。
三、カタログの刊行。
以上三つの柱よりなる「アンディ・ウォーホル全国展」は、版画の複数性という特色を最も生かした企画となることを目指している。
カタログの構成
このカタログの構成は次の通りである。
(イ)カラー図版(九-~五六頁)版画七五点、キャンバス作品二点、計七七点を収録。
(ロ)モノクロ図版(六八~七五頁、一四八~一五三頁の他に本文中にカットとして挿入)は、版画、キャンバス作品、立体、映画、レコードジャケットの他、ポートレート、新聞、雑誌資料類を収録。
(ハ)本文 このカタログには一七〇名の方々に原稿をお寄せ戴いた。本文では一六八名の執筆者に、ウォーホルについてそれぞれ熱気のある文章を書いて戴くことが出来た。
短期間の内に、ジャンルを超えて人々がこの様に多数執筆に参加してくれたこと自体が“ウォーホル現象”と言って良いだろう。
中谷芙二子、飯村隆彦両氏については、「草月」及び「話の特集」よりの再録である。
(ニ)資料篇
▼フィルモグラフィ(一五四~一五六頁)
日野康一氏執筆(「映画評論」誌に掲載されたものの再録)、一九七四年の執筆であるため、その後のウォーホル映画の製作については述べられていないが、ウォーホルの映画については、最も適確なフィルモグラフィとなっているので、再録させて戴いた。
▼ウォーホルを知るための十六冊の本(一五六~一六〇頁)、八十島健夫氏執筆(「POPEYE」誌に掲載されたものに一部修正をし、加筆したもの)。
▼日本の印刷メディアにおけるウォーホル紹介の記録(一六一~一七〇頁)
▼日本での展覧会を初めとする紹介の記録、各地美術館のウォーホル作品収蔵リストなど。
以上であるが、展覧会カタログという性絡から、なるべく人々が読み易いようにと細かい註や説明は各項目からは省いてある。以下にそれらについて基準を明示する。
作品図版のデータについて
ウォーホルについては、アメリカ、ヨーロッパなどで数多くの作品集や、カタログが出版されているが、カタログレゾネ(作品総目録)はつくられていない。近代美術の常識を超えたところで、又はそれらを全く無視したところで制作を続けているウォーホルには、恐らく普通のカタログレゾネをつくることは不可能と思われる。「繰り返すこと」と「拡大すること」が彼の制作の姿勢であり、繰り返し制作された無数の“同じような”作品を全てフォローすることは、作家自身にも出来ないだろう。
今回のこのカタログに収録した作品についても、データの不明なものが少なからずあり、完璧なデータを記載することが出来なかった。ご了承戴きたい。
カタログに収録した各図版のデータ記載は「番号」「作品名」「制作年」「技法」「サイズ」「限定部数」の順とした。以下各項目についての記載の基準を明示する。
番号・・九頁から始まるカラー図版(一番~七七番)については大旨最新作から逆に時代を遡るように配列されている。しかし“個々の作品”の制作年を順に追っている訳ではない。
何故ならばウォーホルの「繰り返し」制作するということによって、ある作品の「イメージの最初の制作年」と、個々の作品の具体的な制作年が大きく隔たっていることがしばしばだからである。(後述)
モノクロ図版については、番号はつけず、 配列も順不同である。
作品名・・原則として、「日本語訳」と「欧文による原題」を併記した。
原題は、発行元の正式カタログや奥付のあるものはそれに従い(例・一番~三七番)、その他は海外で発行された作品集、カタログをもとに記載した。シリーズ名のみで個々の作品名のないものも多く(例・六五番~七四番FLOWERS)、ここでも彼の「繰り返し」の姿勢があらわれている。
日本語訳は、大部分は今までに「美術手帖」他の雑誌やカタログに表記されている訳に従い、今回初めて日本で公開される新作や、今までに日本語訳がされていないと思われるものについては、編集委員会の責任において、日本語の訳をつけた(例・七番~十六番)。
あえて日本語に訳す必要のないもの(例・一番~六番)や、適当な訳が見つからない若干の作品については、原題(欧文)のみとした。
制作年・・ウォーホルは、同じテーマを年を隔てて繰り返し制作する姿勢を一貫させている。一九七九年から始まる「リバーサルシリーズ」(今までに使用したポジフィルムを今度はリバーサル、“ネガ”にして使う)や、「リトスペクティブ・ペインティング」(今までの代表作のテーマを数種組み合わせて並べる)は、その姿勢を更に徹底したものと言えるだろう。「版画」について言えば、所謂「オリジナル版画のルール」を超えてしまって制作している。例えば、有名な「花シリーズ」は、最初一九六四年に制作されたものだが、一九七O年に再び同じフィルムを使って制作している。このカタログに収録してあるのは、一九七O年版である(六五番~七四番)。又、五四番の「牛」も最初につくられたのは一九六六年だが、その後少くとも二回(一九七一年、一九七六年)恐らくは色違いで刷られている。全く同じ形(色、サイズ)は勿論、サイズを変えて、色を変えて、ウォーホルは繰り返し同じテーマで“生産”するのである。
通常、セカンド・エディション(二刷)ということもないではないが、それは例えばピカソの「サルタンバンク」シリーズのように特別な場合に限られ、作家、工房、版元、画商達の暗黙のルールによってエディションの一回性が守られている。しかし、ウォーホルについてはそのようなエディションの一回性はあてはまらない。
前書が長くなってしまったが、ウォーホルの作品の制作年については“イメージの最初の制作年”と“個々の作品の具体的な制作年”が異なることがしばしばなのである。
このカタログのデータには、図版収録のために撮影した実物に、制作年が記されている場合や、シリーズ作品で、ポートフォリオの奥付に制作年が記されている場合は、それに従った。作品にそういった記載のないもので、海外での作品集やカタログで、制作年が特定出来るものはそれに従い、特定出来ないものについては、その作品の“イメージの最初の制作年”を記載した。
技法・・ウォーホルは、タブローと版画という二つの境界線を曖昧にしてしまった作家である。“版画”の概念を「拡大」してしまったと言って良い。ウォーホルの版画は殆んどがシルクスクリーンによって制作されている。だがシルクスクリーンという技法は、ウォーホルにとって“版画のための技法”ではなく、彼のイメージを、スピーディーに表現するのに最も便利な技法に過ぎない。
一九六二年にシルクスクリーンを始めて以来、ウォーホルはキャンバスにシルクスクリーンで“タブロー”を制作し、紙にシルクスクリーンで“版画”を制作しているが、両者の間にテクニックにおいて基本的な差異は認められない。タブロ―(キャンバスにシルクスクリーン)は一点しかなく、版画(紙にシルクスクリーン)は複数あるではないかという議論は、前述の通りウォーホルの場合、余り意味を持たない。「毛沢東」や「マリリン・モンロー」は、同じ写真から、無数に“タブロー”がシルクスクリーンによってつくられており、正に“版画みたいに”生産されているのだ。
“版画”についても、オリジナル版画の一般的ルール――即ち刷りの均一性、限定部数の明示、刷了後の版の破棄、後刷りへの嫌悪etc.・・・―を無視したところで制作されている。しかもそれはルールへの反撥という形はとっておらず、“自然にまかせた形”で進行しているのである。前述の「花シリーズ」も、親しいレオ・カステリが注文して、更に別の色で刷ったりもしている。
五三番の「サンセット」は、七一二部限定と、四七○部限定で出されたものとがあるが、その刷りは意識的にいくつかのパターンに分けられている。色違いによるラフな刷りが生み出す様々な夕陽を楽しんでいるかのようである。ここでは“イメージは一つだが、均一な刷りによってオリジナルな作品が複数存在する”という常識(又はルール)は適用出来ない。ところが一方、今回現代版画センターが依頼したエディション制作に関しては、
菊の花の写真を、日本からウォーホルに送り、そのフィルムをもとに、ウォーホルがラフな試刷りを行い、日本の刷り師・石田了一氏が、日本で本刷りを行った。
「KIKU」シリーズ三点(一番~三番)がそれだが、日本の刷り師・石田氏が、正に日本的正確さで、微妙なボカシを含め、各三○○部を、均一に刷っている。それしもウォーホルは「ビューティフル」と言って喜ぶのである。このようなことは、言い出したらキリがない。結局は「それがどうしたの」となってしまうに違いない。「複数原画」とでも呼ぶべき、ウォーホルの制作姿勢は一貫しているのだから。このカタログでは、版画とかタブローの表記方法は用いず、単に「紙にシルクスクリーン」「キャンバスにシルクスクリーン」という表記にした。
サイズ・・ウォーホルの場合殆んどが、紙サイズ=イメージサイズである。紙の余白を残した版画は稀である。
従って、このカタログに記載のサイズは実物の作品の紙サイズをタテ×ヨコで計測し、ミリ単位で表記した。断ち落しの作品ということだが、五五番~五九番の「キャンベルスープ・シリーズ」は、紙サイズと、イメージの最大寸法を計り、併記した。
本文のカットに使用した作品などで、実物にあたることが出来なかった作品については、「美術手帖」その他、海外での作品集、カタログの記載サイズに従った。
限定部数・・一番~四九番までの作品については、各作品(及び奥付)に限定番号が 付けられており、かつ二刷りなどもなく限定を特定出来るので、明記した。しかし、五十番以降の作品については、同じイメージで、又色違いなどで複数の種類でつくられている場合が多くあり、個々の作品に限定番号が記入されているものでもあえて限定部数を明記しなかつた。(一般的にカタログレゾネなどで限定部数を重要なデータの一つとして記載するのは、その作品が・・部しか刷られなかったことの記録としてである。)
本文について
このカタログには一七○名の方々に執筆して戴いた。
(A) 五八~六七頁には、東野芳明、石崎浩一郎、日向あき子の三氏に、長い間ウォーホルやポップアートに強い関心を持たれて来られたそれぞれの立場からウォーホル論を展開して戴いた。
(B) 七六~九一頁には、青山南、飯田善国、金坂健二、関根伸夫、立川直樹、寺山修司、針生一郎、宮澤壮佳、宮迫千鶴、横尾忠則、ヨシダ・ヨシエの十一氏(五十音順に掲載)
に、編集委員会より、広くウォーホルの像を多面的に見るためにいくつかのテーマを設定し、原稿を依頼した。全ての原稿について言えることだが、編集委員会としては、“ウォーホルについての説明”ではなく、執筆者の方々にとってのウォーホル(観)を聞きたいというのが執筆依頼の狙いである。
(C) 九二~一四〇頁には、愛川欽也氏から始まって、渡部重行氏まで一五二名(五十音順に掲載)の原稿を戴くことが出来た。編集委員会としては、このカタログが、約一年間にわたる「ウォーホル全国展」の強力なバネとなり、最もウォーホル的なものになるよう、様々なジャンルの人々から原稿を戴くことを考え、次のような執筆依頼書を出した。
(前略)
このたび現代版画センターでは、アメリカ・ポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルと新作版画のエディション制作の契約を交し、その発表を機に、ウォーホルの80年代の新作を中心とする展覧会「いま時代はウォーホル」を以下のような形で全国で開催することとなりました。
〈計画案〉
一、ウォーホルの日本に於ける初めてのエディション制作と発表。
二、全国約五十会場での「ウォーホル展」の開催。皮切りの東京展は来たる六月八日~二二日まで渋谷パルコにて開催、以後各地を巡回します。
三、東京に於いては、パルコ展開催から一年間、ユ84年5月まで「ウォーホル365日展」を都内一〇ヵ所で組織。美術、映像、音楽、文学など多岐にわたるウォーホルの世界を様々な形で展開したいと考えています。
四、オリジナル入りカタログの刊行。ウォーホルはユ74年に朝日新聞社主催により、東京、神戸の大丸に於いて、大回顧展が開催されましたが、その後はまとまった紹介は殆んどされていないのが現状です。
(略)
カタログは、ウォーホルに関するまとまった画集、単行本が殆んど日本では出版されていないという現状に鑑み、日本に於ける初の本格的出版として、内容の濃いものにしたいと考えております。
(略)
カタログ制作にあたり、ジャンルをこえた多数の方々のコメントを戴き、収めたいと思っております。
つきましては「アンディ・ウォーホルについて」又は「アンディ・ウォーホルと私」と題して、原稿用紙一枚前後、ご執筆下さいますよう、(略)
尚、原稿に添えて貴方様の生年月日、出身地、職業(なるべく具体的に)をお書き下さる ようお願い申し上げます。
一九八三年三月
以上のような書面に、全執筆依頼者リスト(二二六名)を添えて発送した。病気、海外出張などの方も多く、その中で七割を越す方にご執筆(一部談話収録あり)戴けたことは大変嬉しく、正にウォーホルならではと思わせることであった。
掲載についての若干の註を次に記す。
▼タイトルについて
(A)(B)については、それぞれ執筆者によるタイトルを明記、一部編集委員会で執筆者の了解をとってつけたものもある。
(C)については、執筆依頼状に「アンディ・ウォーホルについて」又は「アンディ・ウォーホルと私」と明記してあるため、殆んどの方がタイトルをつけて来られなかった。本文からいきなり入るような掲載方法をとった理由の一つもそこにある。タイトルをご自分でつけられて来た方の原稿に関しては、その「タイトル」を本文の終りに(執筆者名の前)に明記した。
▼執筆者のクレジットについて
前述の依頼状の通り、各執筆者に、生年月日と出身地(誕生地)、職業の明記を依頼した。生年月日については、編集委員会で、生年(西歴)のみとし、出身地については、全て執筆者の原稿(一部電話取材による)通りとしてある。東京生まれ、東京・浅草生まれ、などと表記の方法に統一性がないのは、そのためである。職業についても同様で、原則としては執筆者の意向通りに明記した。その方がウォーホルのカタログにはふさわしいと編集委員会で考えたからである。よって、写真家(荒木経惟、他)、カメラマン(北島敬三、他)、フォトグラファー(坂田栄一郎)、記録写真家(羽永光利)などと表記に差異が出た。他と比べ職業の表記が非常に長いものは、編集委員会の責任で、一部カットさせて戴いた。
▼Warholの表記について
編集委員会としては、「アンディ・ウォーホル」を統一の表記としたが執筆者の方々の表記法はまちまちである。
「ウォーホル」「ウォーホール」「ウォホール」「ワホール」「ウォフォール」「ウォーフォール」「ワーホル」の七通りに分かれるが原文のまま掲載してある。
俳優、美術評論家、翻訳家、彫刻家、映像作家、劇作家、編集者、画家、漫画家、画商、写真家、会社経営者、グラフィックデザイナー、刷り師、アートディレクター、フリーライター、小説家、版画研究家、インテリア・デザイナー、都市文化研究者、ファッション・デザイナー、映画監督、イラストレーター、エッセイスト、植林業、百姓、コピーライター、アニメーション作家、女優、キューレーター、大学教授、ミュージシャン、映画評論家、コレクター、美術館館長、レコード会社社長、古書店主、雑貨店主、歯科医、宣伝マン、研究者、ブティック経営者、スナック経営者、ビデオ作家、ラジオ・プロデューサー、
詩人、新聞記者、政治家、住職、スタイリスト、作曲家、神父、サラリーマン、etc.
これらの多様な“職業”の人々の“熱”が、このカタログから拡がり、「全国展」への強いインパクトとなって波及し、再び投げ返されてくることを期待する。
ウォーホル全国展日程
「ウォーホル全国展」は一九八三年六月から来年一九八四年五月まで一年間開催するが、五月一〇日現在、開催が決定している会場は次の通りである。
パルコPART3(東京・渋谷) 六月八日~二二日
ギャラリー方寸(東京・渋谷) 六月七日~二二日
盛岡第一画廊(盛岡市) 六月二五日~七月一〇日
ギャラリー・アーバン(名古屋市) 六月二七日~七月一〇日
大曲画廊(秋田県大曲市) 七月一日~三一日
煥乎堂画廊(前橋市) 七月十四日~二〇日
弘文堂画廊(北海道帯広市) 七月二一日~二六日
六月社(東京・高田馬場) 七月一日~三一日
筑後画廊(福岡県久留米市) 七月二二日~三一日
クーリーズ・クリーク(東京・南青山) 七月十三日~八月十三日
ギャラリー山水(山形県鶴岡市) 八月一日~十四日
アート・デューン(静岡県浜松市) 八月十三日~二一日
ギャラリーM(福井県小浜市) 八月二一日~三一日
西田画廊(奈良市) 八月二一日~九月一八日
ギャラリー方寸(東京・渋谷) 八月二三日~九月四日
憂陀(東京・飯田橋) 九月一日~三〇日
あどれっさん(東京・渋谷) 十月一日~三一日
ギャラリーTAK(横浜市) 十一月十六日~二七日
奈良書店(群馬県桐生市) 十二月十六日~二○日
最後にこのカタログの制作経緯を簡単に記すと、昨年十二月ウォーホルとの基本的契約を交した後、早速「全国展」と、カタログの制作準備に入った。二月に現代版画センター企画室内に、「アンディ・ウォーホル展カタログ編集委員会」を設け、宮井陸郎、根本寿幸、
栗山豊を編集委員とし、更に現代版画センターから、綿貫不二夫、田村洋子がメンバーに加わって作業開始。参考文献に関しては、個々の例は記さないが一六一頁から一七○頁に
収録した「美術手帖」を始めとする出版物を、一五六頁から一六○頁で八十島氏があげた海外の作品集等を利用させて戴いた。短期間で一八四頁のカタログを作るという暴挙が何とか出来たのは、偏に上記文献のおかげである。各発行元と執筆者に深く感謝する。
エディションや全国展、カタログに関してウォーホル氏との交渉は、宮井陸郎があたった が、ニューヨークにあって、ウォーホル氏とのコミュニケーションに助力を惜しまれなかった木村利三郎氏・一色与志子さん・ShiroWitz
村山アツ子さん、又、終始暖かい助言をおくってくれた上田浩司氏・高橋孝雄氏・森永博志氏・浪漫堂の方々、このウォーホル全国展ポスターのアー卜・ディレクターとしてご協力いただいた田名網敬一氏、翻訳にあたりご協力戴いたガストン・プチ氏、突貫作業に次ぐ突貫作業の中で編集委員を助け、フィニッシュまでをまとめ上げてくれた水夢社の星野治樹氏、資料や図版写真などを快く提供して下さった画廊・出版社・美術館・コレクター・関係各位、これから始まる「ウォーホル全国展」を組織し、各地で美術文化の普及・高揚に努めている多くの人々、多額な制作資金を分担出資して下さったエディションクラブの会員の方々、そして執筆者の方々に心よりの感謝の気持ちを、ウォーホルの新作とともにお届けしたいと思う。また、日本にこのような素晴しい贈りものを届けてくれたウォーホル氏とそのファクトリーの人々にも謝意を表したい。
ただ一つ無念なことは、ウォーホルの先駆的理解者であり、このカタログに病躯をおして執筆して下さった寺山修司氏が、五月四日、四七歳の若さで亡くなられたことである。氏の深いご冥福をお祈りする。
一九八三年五月十日(綿貫不二夫 記)
◎ 執筆者(掲載順)
東野芳明、石崎浩一郎、日向あき子、青山南、飯田善国、金坂健二、関根伸夫、立川直樹、 寺山修司、針生一郎、宮澤壮佳、宮迫千鶴、横尾忠則、ヨシダ・ヨシエ、愛川欽也、相澤俊雄、赤瀬川原平、赤塚不二夫、秋山祐徳太子、浅野翼、安土修三、安福信二、荒井由泰、荒木経惟、栗津潔、安斎重男、安斉儒理、飯塚明、池田満寿夫、石井志津男、石岡瑛子、石田了一、石原悦郎、市川雅、一色与志子、井上保、井上弥須男、岩城義孝、岩谷宏、有為エィンジェル、植田實、牛久保公典、内田繁、枝川公一、おおえまさのり、大沢昌助、太田克彦、大野ノコ、大林宣彦、大宮政郎、大宜味喬志、岡部徳三、岡正夫、
岡本信治郎、奥平イラ、尾崎正教、小野耕世、貝田隆博、柏原園子、桂宏平、金井美恵子、金子國義、川口信介、カワスミ・カズオ、かわなかのぶひろ、河原淳、川本三郎、北島敬三、木村恒久、草間彌生、久保貞次郎、倉垣光孝、久里洋二、黒田征太郎、黒柳徹子、小池一子、幸村真佐男、コシノジュンコ、小島素治、後藤由多加、今野雄二、坂井直樹、坂田栄一郎、佐藤重臣、佐藤忠雄、佐藤千賀子、佐野まさの、佐山一郎、白井佳夫、末井昭、鋤田正義、高梨豊、高橋明子、高橋明彦、高橋亨、高橋康雄、高松次郎、立花ハジメ、田中弘子、田村彰英、谷岡ヤスジ、谷川晃一、近田春夫、手塚真、
戸田正寿、戸村浩、富田敏夫、内藤忠行、中川徳章、長沢節、中田耕治、中村孝、中村直也、奈良彰一、西田考作、野口伊織、野田哲也、萩原朔美、長谷川義太郎、長谷川真紀男、羽永光利、浜田剛爾、浜野安宏、久田尚子、福島恵津子、福田繁雄、藤井邦彦、藤江民、藤本義一、藤原新也、船木仁、牧田喜義、町野親生、松岡和子、松岡正剛、松本俊夫、松山猛、三沢憲司、三宅一生、水原健造、道下匡子、峯村敏明、宮川賢左衛門、宮崎佳紀、武藤直路、村上知彦、室伏哲郎、元永定正、森下泰輔、森永純、森原智子、矢内廣、柳沢伯夫、矢吹申彦、山口勝弘、山田龍宝、よこすか未美、横山道代、吉田カツ、吉田大朋、ヨシダミノル、吉福伸逸、吉村弘、米倉守、ジョセフ・ラブ、渡部重行、中谷芙二子、飯村隆彦、八十島健夫、日野康一
◎ 図版協力・資料提供(順不同)
宮澤壮佳、飯村隆彦、木村利三郎、一色与志子、Atsuko Murayama Shirowitz、斉藤和土、静間順二、八十島健夫、佐藤重臣、田中弘子、安斎重男、金坂健二、保良龍三郎、POPEYE編集部(平凡出版株式会社)、美術手帖編集部(美術出版社)、スタジオ・ボイス(流行通信社)、草月編集部(草月出版株式会社)、ハイファッション編集部(文化出版局)、季刊アップ編集部(アップスタジオ)
、話の特集編集室、版画芸術編集部(阿部出版)、イラストレーション編集部(玄光社)、鎌倉画廊(東京)、ギャラリー・360°(東京)、ギャラリー・SEKI(名古屋)、シロタ画廊(東京)、ロナルド・フェルドマン・ファイン・アーツ(ニューヨーク)、アキラ・イケダ・ギャラリー(名古屋、東京)、西田画廊(奈良)、(株)フォーム、未生流、草月美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館、笠間日動美術館、原美術館、池田二十世紀美術館、富山県立近代美術館
奥付
アンディ・ウォーホル展 1983~1984 カタログ
編集 - アンディ・ウォーホル展カタログ編集委員会
(宮井陸郎・栗山豊・根本寿幸・田村洋子・綿貫不二夫)
編集協力 - 星野治樹(水夢社)・古谷卓夫
写真 - 酒井猛・田中誠一
シルクスクリーン刷り - 石田了一
印刷・製本 - クリキ企画印刷株式会社
写真植字 - マエダ工芸
発行日 - 一九八三年六月七日
発行人 - 綿貫不二夫
発行所 - 株式会社 現代版画センター
〒一五〇 東京都渋谷区桜丘●●●●
電話●●●●
C 1983 GENDAI HANGA CENTER Printed in Japan
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