世界一のウォーホル・ウォッチャー

綿貫不二夫 2007年4月 
『STUDIO VOICE』VOL.377(2007年5月)62頁所収

 2001年2月22日史上最強のウォーホル・ウォッチャーだった栗山豊が死んだ。街で倒れ病院に運ばれたが看取る者もなく、枕元にあった手帖から看護婦さんが友人に電話してその死を知らせた。ウォーホルの命日に死ぬなんて栗山らしいが、死ぬ少し前、60年代から蒐集した膨大なウォーホル資料を「綿貫さんが持っていた方が生きるから」と私に託していった。いま思えば長年の不規則な生活と酒、恐らく自らの死を予感していたに違いない。
 栗山は1946年和歌山県の田辺に生まれた。父が南方熊楠に師事したというから、後年の何でも蒐集癖は血かも知れない。文化学院を卒業後は、看板描きや、新宿、銀座、上野の街頭で似顔絵描きとして生計をたて、春になると全国の主要なお祭りに出かける、寅さんの如き生涯だった。
 ウォーホル三人男と呼ばれた宮井陸郎、根本寿幸、栗山豊の協力で私は1983年に日本発の[KIKU][LOVE]シリーズをウォーホルに依頼して渋谷パルコや宇都宮大谷の地下空間で大規模な展覧会を企画した。そのとき唐草模様の大風呂敷に包んだ膨大な新聞雑誌等の切れッぱしを持ってきたのが栗山だった。美術、映画はもとよりマイナーな雑誌の記事や広告、写真の隅にちらっと載ったウォーホル作品などよくも見つけたと思うほど幅広いメディアを網羅していた。1974年の大丸展チケットの半券、60年代のドローイングをあしらったジャズ喫茶のマッチのラベル、電車の中吊りやチラシ、バブル期のキャッチセールスの怪し気な展覧会入場券など大宅文庫にも国立国会図書館にもないリアルタイムでなければ絶対に入手不可能なものばかりだ。
 栗山が死に、宮井は行方不明、根本はギャラリー360°で頑張っているが、私の元気なうちに栗山資料の全貌展を開きたい。現代の宮武外骨が遺した宝の山に分け入り、アングラ映画から始まった日本におけるウォーホルの受容の歴史を研究、再生させる者はいないだろうか。
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