綿貫不二夫 2015年01月22日
勝山のメインストリートとなる都市計画道路に自宅が僅か数メートルひっかかるため、木造住宅を壊して新たに新築しなければならない、誰か建築家を紹介して欲しいと中上光雄先生から相談されたのは1979年の春頃でした。
会員制の版画の版元「現代版画センター」(1974~1985)を主宰していた私は、全国の会員を訪ね歩き版画の行商をしていました。福井、山形、岩手などに会員が多く、中でも中上先生は初期からの会員で毎年のように私を呼び、ご自宅の炬燵を囲んで頒布会を開いてくれました。資金繰りに四苦八苦していたとき、勝山での版画の売り上げで一息つくことがしばしばでした。
建築家の版画エディションに力を入れていた私は磯崎新アトリエに頻繁に出入りしていたので、おそるおそる磯崎先生にお伺いをたてると、先ずはクライアントに会って話を聞こうということになりました。医者で多忙な中上先生に代わって奥様の陽子さんを赤坂にあった磯崎アトリエにご案内したのでした。中上先生からは豪雪地帯なので雪下ろしをしなくていいコンクリートの建物というのが唯一のご希望でした。
今となっては笑い話ですが中上先生も奥様の陽子さんも磯崎先生のことをほとんどご存知なかった(!)。
陽子夫人は磯崎先生に会うなり、ご自分で描いてきたプラン(間取り図)を見せて「ここは八畳、ここは寝室・・・・」と説明し始めたのでした。横にいた私は冷や汗が出る思いでした。夫人の話を黙って聞いていた磯崎先生が「わかりました。ところで新築するにあたって奥さんの一番の希望はなんですか」と尋ねられました。
「先生、私は家事なんか嫌いで、台所なんて要りませんから、主人と二人で集めた絵をたくさん飾れる家にしてください。」
思えばこの一言が「世界のイソザキ」を動かし、磯崎建築の傑作を生んだのでした。
設計図ができあがり、地元の工務店数社に見積もりを依頼したのですが、コンクリート打放し工事の経験がないこともあってか、それぞれの見積もり金額に大きな差があり、ご夫妻も苦慮されたようです。そんな中、突然鹿島建設の北陸支店が訪ねて来て、「磯崎先生が設計するというのは本当でしょうか。鹿島としては地元の工務店さんを 差し置いてこういう小さな建物をとってはいけないのですが、磯崎先生の設計とあらば黙っているわけにはまいりません。ぜひ弊社に仕事させてください」と申し込まれたらしい。驚いたのはご夫妻で、そのとき初めて磯崎先生がたいへんな建築家だということに気づかれたのでした。
それでも工事が始まり、徐々に建物の姿が現れてくると、毎晩のように陽子夫人から私に電話が入りました。「階段に手すりがないなんて、もし孫が落ちたらどうするんですか。先生によく言ってください」、設計図や模型では想像できなかった空間に夫人は最初は戸惑われたのでしょうが、電話を受けた私はそのほとんどを握りつぶし、1983年大雪の中での竣工記念パーティを迎えたのでした。
パーティに出席した鹿島建設北陸支店長が「福井で初めての磯崎先生の建築を担当させていただき光栄ですが、鹿島は赤字です!」と叫び、会場は爆笑の渦につつまれました。
アートフル勝山の会を軸に、完成した自宅は勝山の人たちの文化サロンとして利用してもらいたいとのご夫妻の思いから「中上邸イソザキホール」と名づけられました。
すっかり磯崎ファンとなった陽子夫人は磯崎先生、宮脇愛子先生の展覧会には必ず上京されていました。
磯崎先生の年譜をみると、中上邸の設計、施工の時期は[MoCA(ロス・アンジェルス現代美術館)][つくばセンタービル]と重なり、世界の建築界にその名を轟かせていきます。多忙な中、磯崎先生は自ら足を運び、越前和紙を使っての和室のふすまのデザイン、紙漉きにも楽しそうに取り組まれていました。
「雪国。そこにはまったく異なる建築的対応が必要とみえるのだが、コンクリートの構造体であるかぎりでは、結露以外に変った条件はない。そこで、手なれたヴォールト屋根をここでも使用する。設計者への注文は、美術愛好家たちのためのサロンをつくることである。壁、天井ともにコンクリート打放しのまま。それに、多くの版画コレクションがかけられる。そして、いまではこの近傍の文化的な中心となりつつある。」
1983・11●磯崎新
中上邸
所在地: 福井県勝山元町1丁目
構造: 川口衛構造設計事務所
設備: 日本化設(給排水・冷暖房)、吉田設計室(電気)
施工: 鹿島建設北陸支店
規模: 地上2階建 鉄筋コンクリート壁式構造
建築面積: 152.26m2
延床面積: 183.36m2
*『SD』特集:磯崎新1976-1984(1984年1月、鹿島出版会)より
余談ですが、中上邸の空間を体験されたご近所のSさんが「私もこんな家に住みたいわ」と、磯崎先生に設計を依頼されました。人口3万人に満たない福井の山間の小さな町に、磯崎建築が二つも誕生したのです。
あれから30年、中上邸イソザキホールには多くの画家、彫刻家をはじめ、多分野のアーティストたちが訪れ、勝山の人たちと親しく交流しています。プライベートな個人住宅でありながら、開かれた展示空間が人々を魅了し続けている。泉下の陽子夫人もきっと喜んでおられるでしょう。
頒布会の翌朝、陽子夫人のつくってくれた朝食の美味しさを今もときどき思い出す。
わたぬき ふじお(ときの忘れもの)
*『福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み―中上光雄・陽子コレクションによる―』図録より転載