画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。

西田武雄と室内社画堂

綿貫不二夫
1995年 3月

明治末の雑誌『方寸』以来の創作版画運動は、画家が自ら画き、彫って摺るという「版による絵」の必然として、一点物でもない、かといって大量印刷も困難な、いわば手から手へと手渡す頒布会形式によって経済的には支えられていった。創作版画の歴史は頒布に便利な版画雑誌や連刊版画集の歴史とも言えよう。
 旭正秀(4706E)や料治熊太(朝鳴)のように画家自身が版元となる例もあるが、一方熱心な愛好家が採算を度外視してその出版に取り組んだ例も少なくない。銀行員の傍ら(のちには版元に専念して)『日本風景版画』や『新東京百景』など創作版画史上の名シリーズを世に送り出した中島重太郎などはその代表だろう。こうした出版の多くは、日本人になじみ深い木版画であり、画家や愛好家のささやかな資本でも何とかなったのである。
 

 ところがプレス機など道具と材料に各段の費用がかかる銅版画の普及啓蒙に半生を注ぎ込んだのが西田武雄であった。銅版画家、明治初期洋画の研究家、近代日本の洋画商の先駆者の一人としても知られる西田は、自分の画廊「室内社画堂」で様々な展覧会を催す一方、資生堂を借りてゾーンなど海外作家(3007B)の紹介や、画商の石原龍一と組んで日本初の試みであるセリによる公開オークション(3210J)、明治初期洋画発達資料展(4212A)などを度々開催している。その活動は一言ではいえない程、幅広く精力的であった。


自身次のように述懐している。
「私も四十になつた、画商を始めて十年。ヱッチングを描き出して十五年(中略) 。ヱッチングを普及する様な仕事は、私には分相応の仕事だと思つている。商人 になつたり、時には先生になつたり、宣伝の為に雑誌屋にもならねばならない。 出来ればヱッチング講習の為に、全国行脚もしてみたいと思つている。いづれ各 地に熱心なヱッチング研究家が続出して私のこの仕事をたすけてくれるだらうと は思ふが、今のところ何もかも私一人でやらなければならない」(『ヱッチング』 1932年11月創刊号)。

 1894(明治27)年 7月11日三重県一志郡に生まれた西田は幼時横浜の大川家に養子となり、横浜商業学校(現市立横浜商業高校)に学ぶ。在学中の1914(大正 3)年第八回文展に水彩画が入選。翌年再び西田家へ戻った。本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事。1921年第三回日本創作版画協会展に出品、版画家としても活動を始める。1925年丸ノ内の日米ビルに「室内社画堂」を開く。1927(昭和 2)年には麹町に移転。1931年同地に日本エッチング研究所を設立、翌年には雑誌『エッチング』を創刊する。アメリカに渡った国吉康雄から送られたラムゼンの技法書『ヱッチング術』の翻訳を掲載、毎号のように海外の銅版画とその技法を紹介した。国産製造したエッチングプレス機を販売して全国各地の学校などでエッチング講習会を開き、1940年「日本エッチング作家協会」の設立に参加、その発表展(4012C)を資生堂で開いている。駒井哲郎(5301G)も室内社に出入りし銅版を学んだ一人である。
 1945年室内社が戦災に遭い、郷里の三重県一志郡に疎開。この頃から半峰とも号した。
 戦後は郷里で独居、知友たちにその数二万枚を越えるといわれるハガキ絵と狂歌を書き送り、1961(昭和36)年 7月26日孤独な生涯を閉じている。



*4706E 「デッサン社第十一回現代名家素描展覧会」1947年 6月19日~ 6月21日 デッサン社を主宰する画家の旭正秀が資生堂ギャラリーを借りて開催した。石井 鶴三、梅原龍三郎、猪熊弦一郎らが出品。

*3007B 「ゾーン、エッチング展覧会」1930年 7月 7日~ 7月11日
 西田武雄の室内社画堂が主催して資生堂ギャラリーで開催したアンダース・ゾー ン(Anders Leonard Zorn  1860~1920)の版画展。

*3210J 「第三回洋画糶賣会」1932年10月26日~10月27日
 室内社画堂(西田武雄)と求龍堂(石原龍一)の共催で資生堂ギャラリーで開か れた公開オ-クション。第一回糶賣会は、この年の 6月29日、同じく室内社画堂 の西田武雄と求龍堂の石原龍一の共催で銀座・紀伊國屋画廊で開かれている。
 「我国最初の試みとして、入札法によらぬ洋画せり売り」(『日本洋画商史』19 85年)といわれているこの糶賣会は、その後九回程開催され、第三回と第四回も 資生堂で開催された。

*4212A 「明治初期洋画発達資料展」1942年12月1日~12月4日
 五姓田芳柳、高橋由一らの明治初期洋画の研究において一家言をもつ西田武雄が 資生堂ギャラリーで開催した展覧会。主として五姓田一門の水彩、鉛筆、油絵な ど65点が出品された。

*4012C 「第一回日本エッチング展覧会」1940年12月10日~12月13日
 資生堂ギャラリーで開催された、西田武雄が主宰創立した日本エッチング研究所 の展覧会である。西田はじめ、有島生馬、安井曽太郎、石井柏亭、今純三、長谷 川潔、ルノワ-ル、ムンク、シャガ-ルなどの銅版画に交じり、当時20歳で東京 美術学校の学生だった駒井哲郎も出品している。

*5301G 「駒井哲郎個展」1953年1月28日~1月31日
 戦後の版画界に彗星のごとくあらわれ、「銅版画の詩人」と謳われた駒井哲郎の 記念すべき初個展は資生堂ギャラリーで開催された。この初個展を見た志水楠男 が後に独立して1956年に南画廊をつくったとき、駒井哲郎展をオ-プン記念展と したのはあまりに有名である。


『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』(富山秀男監修 1995年 資生堂刊)に所収


 日本の創作版画史上に異彩をはなつ西田武雄は、今ではその名を知る人も少ないだろう。銅版画の作家、啓蒙家としても多彩な活躍を示し、資生堂ギャラリーでも多数展覧会を主催している。駒井哲郎の師匠といった方がいいかも知れない。自作には銅版特有の細い線によるハッチングで明暗を強調した人物像を多く残している。銅版画家としての評価こそ低いが、日本に初めて登場したプロフェッショナルな画商、エディターとして、今後その再評価が必ずなされるに違いない。著書に『エッチングの描き方』『画工志願』などがある。
 他のエッセイ<『資生堂ギャラリー七十五年史』の編纂を終えて>に書いた通り、1990年から95年の足掛け六年にわたり、私は「資生堂ギャラリー史編纂室」という名刺を貰い、現存する日本最古の画廊史の調査編纂作業に没頭していた。 736頁の大著の大半は資生堂で開催された展覧会の詳細な記録で埋め尽くされている。膨大な記録だけでは読む人も辛かろうと、49名の執筆者による 191本のコラムを掲載した。資生堂ギャラリー史に登場する有名無名の人々へのオマ-ジュである。私以外の48名は錚々たる第一線の研究者だが、「版画は綿貫が専門だから」と、恩地、今純三、西田武雄らについては、編集者の分際で私が書かせていただいた。

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「エッチング」創刊号表紙
1932年11月号

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