画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。

マンドリンと私 TMO40周年を迎えて

綿貫不二夫
2000年 7月

 去る6月1日、高高時代の恩師、愛称「チータ」で親しまれた上條乃夫彦先生が逝去された。5月に満67歳の誕生日を迎えられたばかりだった。高高(たかたか 群馬県立高崎高校の略称)には1957(昭和32)年5月に着任、24歳の青年教師だった。1964(昭和39)年4月までの七年間、数学を教えられたが、その後東京の都立高校に転任され、晩年は予備校などで教えられていたという。

 今年は、マンドリンの名手であった上條先生が創立したTMO(高崎高校マンドリン・オーケストラ)の創立40周年という記念すべき年である。8月13日には高崎市文化会館で40周年記念・第33回定期演奏会を開催し、先生をお迎えするはずだった。奥様の和子夫人によれば、先生も久し振りの定演を楽しみにしておられた由、残念でならない。

 以前、本誌に書いたこともあるのだが、私が入学する前年(1960年)の翠巒祭(すいらんさい 高崎高校の文化祭で毎年春に開かれる)でロシア民謡「灯」を上條先生がマンドリンで独奏され、それに感動した小池昌男さん(61期、TMOのOB会長)たち数人が先生のもとに集まり「マンドリン・ギター愛好会」を結成したのである。創立メンバーには1997年5月急逝した東京工業大学教授の土方邦夫さんもいた。

 小池さんたち先輩から後を引き継いだのが嬬恋村から出てきた山猿の私と、高崎二中出身のシティ・ボーイ内海孝幸君で、1年生たった二人から内海君の二中人脈を駆使してあれよあれよという間に20名近くのメンバーを集め、2年の秋には、念願の部昇格を果たした。内海君が初代部長、私が初代指揮者を務めた。以来「音楽部マンドリン・オーケストラ(TMO)」として、毎年夏に定演を開催してきたのだが、特徴的なのは卒業間もない若いOBが現役を指導して、毎年の定演ではOBと現役が一体となって演奏するというスタイルを貫いてきたことである。それは、指導者であった上條先生が1964年に高高を去られ、その後特定の指導者を持たなかったという事情もあるが、何より私たちOB自身がマンドリンという楽器に魅せられ、卒業しても演奏する楽しみを失いたくなかったというのが本音かも知れない。

 今でこそ、群馬県内には中学、高校、大学、社会人と多数のマンドリン・ギター合奏団があるが、60年代には皆無で、私たちTMOが県内では戦後初のマンドリン・クラブであった。しかし、戦前の群馬はマンドリンの先進地だったのである。

 マンドリンという楽器が日本に入ってきたのは、1894(明治27)年といわれ、その後、学習院や上野の東京美術学校にマンドリン合奏団が誕生し、日本におけるマンドリン音楽の黎明期を迎える。その指導者比留間賢八にマンドリンを習った人の中には、画家の藤田嗣治、田辺至、作家の里見とんや、郷土の詩人萩原朔太郎らがいた。

 1910(明治43)年には今日まで続く慶応義塾マンドリンクラブが創立された。その後のマンドリン界に大きな役割を果たしたのが宮内省楽部長だった武井守成で、彼の率いる「オルケスタ・シンフォニカ・タケイ」は、マンドリンのオリジナル曲の演奏、普及に努めた。私たちTMOも武井の作曲した曲を数多く演奏してきた。創立当初は上條先生の残してくれた武井の楽譜とレコードがTMOのバイブルだった。

 大正時代に最初のピークを迎えたマンドリン・ブームは、日本各地に多くのマンドリン・クラブの誕生をもたらしたが、1915(大正4)年萩原朔太郎が前橋で結成した「ゴンドラ洋楽会」はその先駆だった。伊藤信吉の著『ぎたる弾くひと 萩原朔太郎の音楽生活』(麦書房刊)に描かれているとおり、朔太郎がマンドリンをこよなく愛し、若い時から熱心に演奏活動を行なっていたことは良く知られている。「ゴンドラ洋楽会」は、やがて「上毛マンドリン倶楽部」に発展し、戦後の「群響」誕生の母体のひとつにもなった。このように全国的にも早い時期に群馬の地にマンドリン音楽を根付かせた朔太郎の功績は大きいが、後継者の一人に藤沢林太郎氏がいた。

 私たちは、かつて「群響」の創立を支えた井上房一郎氏(井上工業社長、当時毎日のように学校に来られ、薔薇の手入れをしたり、私たち後輩に何くれとなくアドバイスしてくれていた)のお世話で、藤沢氏にも一時期指導を受けていたので、TMOは朔太郎の孫弟子といってもよいかも知れない。

 もともと高高には名門の吹奏楽団と合唱団が既にあり、末っ子の三男坊TMOには、当初は部室無し(真っ暗な教室や指月庭、講堂の片隅が練習場所だった)、予算無し、楽器無し、楽譜無しのないない尽くしだったが、それも徐々に改善されていった。

 創立以来、現在までにTMOを巣立ったOBは280名余、大学や社会人のマンドリン・クラブで活躍するものも少なくない。定演も1966年から97年まで、群馬音楽センターや高崎市文化会館で、連続して32回開催されてきた。

 ところが、現役部員の減少により、昨年、一昨年と2年続けて定演が中断され、昨年秋には遂に部員は1年生数名だけとなり、廃部の危機さえ囁かれる非常事態になった。

 慌てたのは、TMOを心のふるさとと思う私たちOBである。だがいくら気を揉んでも現役の部員が増えるわけではない。マンドリン・オーケストラというのは、マンドリンだけではなく、マンドラ・テノール(私もこの楽器で演奏する)、マンドチェロ、マンドローネ、リュート、ギター、コントラバスなど大小の弦楽器が、各パートに分かれハーモニーを奏でるのだが、部員数名ではオーケストラどころではない。そこで全国に散らばるOBに呼び掛け、創立40周年の今年だけはOB会主催で、定演を復活させ、側面から現役を支援することとなったのである。

 昨年12月から月1回、高崎に集まり、母校翠巒会館などで久々のOBと現役の合同練習が始まった。5月の連休の合宿には遠く北海道や京都、はては海外からも歴代の名プレイヤーたちが駆け付け、45名が参加した。仕事に追われ今まですっかりマンドリンから遠ざかっていたOBたちも押し入れから楽器を取りだし、練習に励むという、かつてない盛り上がりをみせている。

 「昔とった杵柄」とは良く言ったもので、何十年ぶりに弾く曲も自然に指が覚えている。とはいえ、このご時勢である。企業戦士としてOBの多くはバブル崩壊後の辛酸を嘗めている。長年勤めた会社が倒産した者あり、リストラの嵐の中で苦闘している者もいる。にも拘らず(だからこそかも知れない)60名を越すOBが当日の舞台に上がる。

 8月13日の定演本番には、現役高校生6名とOB60名、さらには高崎女子高校マンドリン部OG有志が賛助出演をして下さることになり、総勢70名を越す大編成のマンドリン・オーケストラが実現する。

 併せて、40周年記念事業として、歴代の定演の演奏曲を収録したCD(3枚組)と、記念誌『TMO 1960~2000』を刊行する予定である。

 OB会の定演復活へ向けての活動が、短い準備期間にも拘らず、ここまで来れたのは、桜井校長、顧問の木本陽子先生のご理解があったればこそである。そして青春の三年間を燃焼したTMOの灯を消してはならない、という全OBそれぞれの思いが、何よりの原動力であった。この場を借りて、ご後援いただいた関係各位、ご協賛いただき資金的な応援をして下さった多くの同窓生に、心から感謝したい。

           (63期、TMO・OB会東京幹事)


TMO 第33回定期演奏会2000年8月13日
高崎市文化会館 指揮:綿貫不二夫

 

    高崎高校の京浜同窓会機関誌『翠巒』2000年号に掲載


 私は1945年の敗戦の1月前に群馬県の山奥に生れ、浅間山麓の嬬恋村の中学校を卒業した。高校生活は、大自然の中で育った山猿からみればきらめくばかりの大都会、高崎で過ごした。高崎のまちなかには映画館が何軒もあり、毎日映画を上映しているのだ。年に数回、移動映画会が開かれるだけだった故郷嬬恋村に比べたら大違いである。

 初めてできた都会の友人がマンドリンクラブに一緒に入った内海君で、高校時代の三年間はあけてもくれてもマンドリンだった。その後、大学を出て就職、結婚、事業を起こして失敗し、再起をはかり新しい事務所を青山につくったときは、もう50歳になっていた。日々の仕事に追われ、マンドリンのことなどすっかり忘れていた。1999年の夏、後輩が青山の事務所を突然訪れ「TMOがたいへんです、廃部になるかも知れません。現役の3年生は引退し、2年生部員はゼロ、いまは1年生が数人いるだけです。」と告げた。驚くとともに、心のふるさとがなくなってしまうかも知れないと眠っていたマンドリンへの情熱が一挙に噴火し、それからの一年間は仕事もそっちのけで、定期演奏会の復活と、休眠状態だったOB会の再編に取り組んだ。以来、マンドリン少年にすっかり戻ってしまい、相棒だった内海君ともども、今年も大勢の後輩達に囲まれ定期演奏会の舞台に上がる。

 幸い、現役高校生の活動も継続しており、とりあえず廃部は免れている。

 実は私が美術の仕事に関わるようになったのも、マンドリンがきっかけだった。高崎高校の先輩に井上房一郎さんという、日本を代表する文化のパトロンがいた。群馬きっての実業人でもあったが、当時既に60歳をこしていたと思うが、毎日高校に来て、美術部や音楽部の若い高校生と接していた。私たちマンドリン・オ-ケストラのメンバ-も随分可愛がって貰った。井上さんは戦前はナチス・ドイツを逃れてきたブル-ノ・タウトを庇護し、戦後は群馬フィルハ-モニ-交響楽団を創設、レイモンド設計による群馬音楽センタ-の建設にも尽力した。群馬県立近代美術館の設計に若き磯崎新を起用したのも井上さんである。

 私の美術界への入り口をあけてくれたのが井上さんある。1973年の秋、鎌倉へ私を伴い神奈川県立近代美術館の土方定一館長を訪ねたときのことは、別のエッセイいずれ書き残しておきたい。井上さんが土方定一先生を私に紹介してくれ、土方先生から久保貞次郎先生を紹介され、久保先生を顧問に現代版画センタ-を創立したのが1974年だった。




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