画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。

安成三兄弟

綿貫不二夫
1995年3月

「福原さんの手」といわれた男がいた。福原信三の個人秘書として、口述をもとに雑誌や新聞に発表される論文類の殆どを手掛けた安成三郎である。
 信三は1921(大正10)年友人たちと寫眞藝術社(2107F)を結成する。父有信から受け継いだ資生堂の経営も順調でようやく余裕も出てきた時期である。画家を志したこともあった信三には、芸術に対する抑えようもない強い憧憬があった。大正の新しい写真運動として重要なこの結社は、信三個人にとっても経営と芸術という異なる二つの側面をいわば表裏一体として生きるための大切な第一歩だった。後年の側近の回想によれば、「自分は写真家として生きたからこそ資生堂の社長を続けられたのだ」
と語っていたというが、普通ならば二足の草鞋になりかねない人生を見事に統一し生き抜いた信三には彼を囲む「福原サロン」の多彩な人脈と、安成三郎のような隠れたブレーンがいたのである。

寫眞藝術社の同人には、弟信辰(路草)、正則時代の友人佐藤信順(のちにアサヒカメラの創刊に参加)、千葉医専の後輩掛札功、信辰の友人大田黒元雄などがいるが、機関誌『寫眞藝術』の編集者として招いたのが安成三郎だった。矢部信壽著『福原信三』によれば「信三は、字があまり上手ではなく、そのため文章を書くことを億劫がったが、写真による芸術を主張して論陣を張るには、文筆がぜひ必要だった。『寫眞藝術』としても、信三個人としても、手が必要だった。後に<安成さんは福原さんの手>といわれた関係は、ここからはじまった」という。

三郎には天分豊かな兄弟がいた。長州藩士だった父正治は維新後、秋田県阿仁銅山に勤め、阿仁合町で貞雄、二郎、三郎、四郎、クラの四男一女をもうけている。中でも二郎、三郎、四郎の三人は「福原サロン」の常連として福原家に親しく出入りし、信三、信辰、信義の三兄弟と親交を深めた。

長兄の貞雄は1885(明治18)年 4月 2日生まれ。大館中学卒業後、上京して早稲田大学に学ぶ。評論や翻訳も多く、二六新報、萬朝報、実業之世界社の編集や記者などを転々として酒と貧乏の無頼生活を送るが、1924(大正13)年 7月23日に死去。

二郎は1886(明治19)年 9月19日生まれ、大館中学を中退。上京後、内田魯庵、堺利彦らを知る。『女之世界』の編集長をはじめ、新聞社や出版社に務め、ジャーナリスト、歌人、小説家としても活躍。歌集『貧乏と恋と』(実業之世界社 1916年)、短編小説集『子を打つ』(アルス 1925年)などがある。資生堂ギャラリーを会場とした月明会(3012B)の山崎斌とも親しく、機関誌『月明』にしばしば寄稿している。
1974(昭和49)年 4月30日死去。

三郎は1889(明治22)年10月15日秋田県に生まれ。大館中学を中退。柳田国男、今和次郎らの郷土会に参加し大きな影響を受ける。『実業之世界』の編集者となり、1924(大正13)年、雑誌『建築の日本』を創刊するが、文字通り三号雑誌で終わる。以降は福原信三の個人秘書として三十数年を過ごした。中国古典に造詣が深く、山魯の号を持つ俳人でもあった。
三郎には福原家とは別に、もう一軒親しく出入りしていた家があった。郷土会の縁で私淑した哲学者・西田幾多郎の家である。西田家においても執事のような役割を果たしていたというから、三郎の裏方人生は天性のものだったのかも知れない。西田没後、鎌倉の七里ヶ浜の歌碑建立に尽力し、記念展(5106E)を資生堂で開いたのも三郎である。1957(昭和32)年 4月10日死去。

四郎は1900(明治33)年 3月 7日生まれ。兄たちと異なり暁星中学に進み、上智大学を中退。国鉄職員として鉄道用地の買収の仕事に長く携わった。1965(昭和40)年4月 3日死去。貞雄、三郎の兄とともに池上本門寺永寿院に眠る(二郎は静岡県の富士霊園に埋葬された)。

*2107F
「大田黒元雄・掛札功・福原信三写真展覧会」 1921年7月21日~25日
寫眞藝術社主催で開催された。

*3012B 「草ノ木染信濃地織復興展覧会」 1930年12月7日~11日
草木染の命名者・山崎斌が松本に信濃工芸伝習所を開設し、草木染手織の指導に乗り出した。その旗揚げ展である。
山崎は機関誌『月明』を刊行、月明会を拠点に植物染料による手織り復興の普及活動を展開した。
*5106E 「西田幾多郎先生遺墨展覧会 西田先生歌碑建立諸家寄贈作品展覧会」1951年6月18日~20日
鎌倉稲村ヶ崎に建立された哲学者・西田幾多郎の歌碑(坂倉凖三デザイン)の賛助作品展。

『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』
(富山秀男監修 1995年 資生堂刊)に所収


いつの時代にも、無名だが、歴史のある局面で、重要な役割を果たした人がいる。触媒のように、さまざまな人を結びつけ、ネットワークの鍵となったような人、そんな
人間が好きだ。
いまや日本を代表する企業である資生堂、その創業は1972(明治5)年に溯る。創業者・福原有信の後を継ぎ、法人としての資生堂の初代社長を務めた福原信三(1883~1948)は、大正から昭和戦前期にかけて日本写真界をリ-ドした大立者であった。彼の唱導した芸術写真の理念は、戦後の激動の波に飲み込まれ、一時忘れ去られていたが、近年その再評価が進んでいる。福原信三の個人秘書だったのが安成三郎である。

他のエッセイ<『資生堂ギャラリー七十五年史』の編纂を終えて>に書いた通り、
1990年から95年の足掛け六年にわたり、私は「資生堂ギャラリー史編纂室」という名刺を貰い、現存する日本最古の画廊史の調査編纂作業に没頭していた。 736頁の大著の大半は資生堂で開催された展覧会の詳細な記録で埋め尽くされている。膨大な記録だけでは読む人も辛かろうと、49名の執筆者による 191本のコラムを掲載した。資生堂ギャラリー史に登場する有名無名の人々へのオマ-ジュである。
この大著の編纂作業のおかげで私は資生堂の歴史、歴代社員について徹底的に調べることができた。社史には一行の記載もないが、大きな役割を果たした人も少なくない。安成三郎もその一人である。

安成兄弟については、恐らく国文学の専門家でもそう知る人はいないだろう。私も高村光太郎記念会の北川太一先生、安成兄弟の故郷大館の郷土史家・伊多波英夫先生のご教示がなければ、こんな紹介文も書けなかった。あらためて両先生に感謝したい。
柳田国男、福原信三、西田幾多郎、昭和大恐慌の引き金となった渡辺一族が経営した大船田園都市計画事業、それら一見無関係のように思えることがらに、安成兄弟が関係していたことなど、ほとんど忘れられている。誰かもっと調べようとする人がでてきて欲しい。


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