飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」 第8回 「中山岩太(Iwata NAKAYAMA 1895〜1949)」 2015年12月27日 |
日本の写真家たちの中で、中山岩太ほど華麗な経歴の持ち主はほかにいないかもしれない。1895年に福岡県の柳川に生まれ、1918年に東京美術学校に新設された臨時写真科の最初の卒業生となる。同年にアメリカに渡り、カリフォルニア大学で学んだ後、ニューヨークに移って、21年に肖像写真スタジオを開業した。26年?月にはパリに移り、ファッション誌の仕事をしたり、マン・レイや未来派の画家のエンリコ・プランポリーニと交友したりするなど、写真家としての経験を深めた。
1927年11月に帰国。兵庫県芦屋にスタジオ兼住居を構え、30年にはハナヤ勘兵衛、紅谷(べにたに)吉之助らと芦屋カメラクラブを結成した。同年、朝日新聞社が主催する第一回国際広告写真展に「福助足袋」を出品して一等賞を受賞、32年には野島康三、木村伊兵衛と写真雑誌『光画』を創刊して、毎号作品を発表するなど、華々しい活動を展開する。中山を中心とした芦屋カメラクラブの写真家たちの作品は、同時期の日本における「新興写真」(写真のモダニズム)の運動をリードする役目を果たした。 自ら「純芸術写真」と称した中山の作風は、フォトグラムやフォトモンタージュを駆使して、幻想の美の世界を構築するもので、どちらかといえば現実志向が強かった当時の日本の写真界ではかなり異色のものだった。「私は美しいものが好きだ。運悪るく、美しいものに出逢はなかつた時には、デツチあげても、美しいものに作りあげたい」(『カメラクラブ』1938年1月号)とまで言い切っている。このような強烈な耽美主義の主張に対しては、批判の声もあったし、軍国主義に傾斜していく時代の状況の中では孤立することも多かった。それでも彼は昂然と胸を張って「自己陶酔の境地」を求め続けていった。 1930年代後半から40年代にかけて、中山のモンタージュ作品はより象徴性を深め、自在なものになっていく。同時に女性ポートレートの傑作「上海から来た女」(1936年)や、一連のヌード作品のように、エロティシズムの極みというべき作品が次々に制作された。1945年、長く続いた戦争がようやく終わり、写真家たちはふたたび自由な創作活動をおこなうことができるようになる。中山にとっても、新たな一歩を踏み出す契機となるはずだったが、残念なことに戦時中に蝕まれていた体力がそれを許さなかった。1949年に脳溢血で倒れて死去。まだ53歳という働き盛りだった。 1980年代以降、関西「新興写真」の再評価が進む中で、中山の仕事にもふたたび注目が集まるようになる。芦屋市立美術館、渋谷区立松濤美術館、東京都写真美術館などで開催された回顧展で、その全体像がようやくくっきりと浮かび上がってきた。彼の作品をインターナショナルな視点で見直していくことが、これから先の課題となるだろう。 (いいざわ こうたろう)
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