井村治樹のエッセイ《イリナとの出会い》

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「ピラミッドの中の写真集―イリナとの出会い―8」

 チェックが無事終わり、後は「マンドレイク」に発注するだけです。サイズは当時のスキャナーの性能のこともありB5以内の大きさで、勿論余計なトリミングはし ないということでお願いしました。限定本に挿入するオリジナルプリントの紙について、イリナ・イオネスコはイルフォードのマットを注文したようです。マットとは艶のない紙のことで、その上に焼き付けられた画像はまるで鉛筆デッサンかリトグラフのように見えるのです。イリナは写真をはじめる前には絵画を志向していました。そのためにどうしても絵画的なものをどこかに求めるのです。それがこのマットに対する執着です。
 イリナにとって写真とは、ただの被写体を記録した物ではなく、チョークで描かれたデッサンであり、天金の豪華本の中に描かれたレオノール・フィニの挿絵なのです。あるいは物語を秘めた無声映画の内容を紹介するグラビア刷りの黒の色。
 イリナはイリナの信じる芸術性のために、そのころ出回っていた大量に機械的にプリントされた艶のある写真の持つ安っぽいリアリティーを出来るだけ隠したかったのです。出来ればアルシュ(リトグラフなどに使われる代表的なフランスの紙)に焼き付けてもらいたいとさえ思っていたのではないでしょうか。
 実際イリナのプリントにはある時期このマット紙が多く使われています。初期にはその存在を知らなかったのか光沢紙が多いのは、おそらくその頃はプリントを販売することに余り関心がなかったからでしょう。それよりも彼女の関心は写真集なのです。ご存じと思いますが写真集のための焼きと写真展用の焼きは違います。写真集にするためにはディティエールを極力出してグレートーンを豊かに焼き込むのです。その様に焼いても印刷用のスキャナーで拾うとグレートーンの1/3は失われてしまいます。ペーパーについては勿論、シボ(紙自体に梨地などの模様がある紙。紙模)のある物は禁物で光沢の平面性のある物が適しています。現在はデジタル化が進んでいますのでその限りではないと思いますがイリナがデビュー仕立ての頃はその様な環境だったのです。イリナの要求するマットの紙は全く印刷原稿には向かない物です。マッ トの印画紙に焼くと黒がつぶれてしまい、暗部のグレーのトーンは失われてし まいます。写真にマチエールという言葉があるとしたらイリナはこのマチエー ルにこだわったのです。
 「マンドレイク」は写真のプリンターです。多くの写真を見ていますし写真のプリントとしてのクオリティを追求する職人です。プリントの出来の善し悪しが彼の判断基準なのです。彼はイルフォードのマルチグレードの半光沢(紙)をイリナに提案し、マット紙や他の紙に同じ絵柄を焼き付けて説得しました。確かに彼の勧める紙はとても豊かに、しかも気品のある銀塩のグレーを再現していました。肌も輝くようです。イリナのプリントに新たな要素が加わったと思えるほどの仕上がりでした。イリナの艶無しの紙は確かにアートとしてみた場合面白い効果を上げてはいますが、それは写真とは別のもので、ある種のノスタルジーを感じさせるものでした。結果は明らかです。マンドレイクの勧める紙に決めました。
 広い壁の前に椅子がひとつといった感傷的な油絵を描いていたイリナは、多くの彫刻家や絵描きなどと交友関係を築いていました。芸術的なものへの憧憬は想像以上に強かったようです。演劇やバレー、オペラと芸術のあらゆるものに精通していました。
 ファッションにもそれは及び、多くのデザイナーとの交友もありました。ソニア・リキエル、三宅一生、アナ・スイなどなど。彼女の作品に下卑たところが無く、気品が漂うのは彼等との交友関係の中で厳しい審美眼が培われていったからに違いありません。
 3人が「マンドレイク」に別れを告げ外に出ると空には満天の星が輝いていました。「どこかで食べていきましょう」と言うとすぐ近くに南米料理店の看板が目にとまりました。3人は迷うことなくそこに入りテーブルに座りました。するとイリナはしきりと向かいに座っているテーブルの客に目を向け、3人がオーダーをして食事がきても気になって仕方ないようです。そこにいたのはまだ20代のラテン系の女性と2歳前後の子供でした。どうも店のオーナーと知り合いのようで時々親しそうに言葉を交わしていました。私は何が気になるのか解らないでいると、イリナは我慢しきれなかったのか思い切ったように彼女にこのように言ったのです。「こんな時間に子供を連れてレストランに来てはいけないでしょ。何故つれてきたの」
母親は言いました。「子供に熱があって家にはおいておけないのです。家で誰か子供をみてくれる人がいればよいのですが、あなたのような優しい母もいないのです」
イリナはそのことを聞いてやっと食事をし始めました。
      2008年5月23日(いむらはるき)

irinaイリナ・イオネスコ
「Eva 6」
  1978 (Printed in 1996)
  Gelatin Silver Print
  27.5×19cm
  Ed.20  Signed



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