井村治樹のエッセイ《イリナとの出会い》 |
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「ピラミッドの中の写真集―イリナとの出会い―9」
夜遅くなってしまった夕食も終わり、イリナ・イオネスコの住むアパルトマンまでタクシーで送りとどけ、明日会うことを約束しました。それから私が定宿にしているパルテノンの近くのホテルに着いたのは、夜中の1時を過ぎていました。ホテルで出迎えてくれるのは、当時パリで流行っていた洗濯の時に入れる柔軟剤の香りです。ベッドカバーやシーツに残ったその香り、ユリの花の香りが私の今日一日の疲れを癒してくれます。この洗剤の匂いは日本人にはなじみがなく、日本ではほとんど嗅ぐことのない匂いです。このユリの何ともいえない甘い香りが、私にとってのパリの匂いなのです。それはイリナ・イオネスコの娘エヴァの頬の香りでもあります。 そういえば、イリナの処女作は、「アラブのけだるいユリの花の香り」というタイトルの写真集でした。その写真集には、写真家としてのイリナを目覚めさせたイジスの横顔が収められています。イリナとそっくりの鼻先のシャープな横顔を持ったその少女とイリナは、まだイリナが写真に全く興味がなかった頃に劇的な出会いをします。まるでアンドレ・ブルトンがナジャと出会ったような衝撃的な出会いでした。気がふれたように見えたその少女を、イリナは特別な思いで見つめたのです。その美しい横顔と輝くしなやかにウエーブする髪に目を奪われたのです。その美しさを彼女自身に知ってもらいたいと思い、クリスマスプレゼントに貰ったばかりのニコンのシャッターを切りました。 彼女の処女作のタイトルに「ユリの香り」とあるように、彼女は匂いにとても敏感でした。香水についてもとてもこだわりがあったようで、香水の話になると時間を忘れて熱く語ります。でも彼女からはあまり香水の匂いはしません。匂いすぎは無粋だと言わんばかりです。それでもほんの少し麝香の匂いを感じました。彼女はまた日本の香に大変興味がありました。まるで香道をたしなむように、香の匂いを利き分けるのです。私が彼女に部屋に招かれたときもかすかに香の匂いがしたのを覚えています。イリナがこよなく愛した詩人ボードレールも香りについての詩をよく書いています。バラは勿論、麝香や白檀、そしてオピュームの香りについても書いています。そんな彼の詩の世界を彼女は意識しているようでした。 数日後、イリナは朝食に招いてくれました。部屋に通されてソファーに座ると、彼女はバゲットと瓶詰めのキャビアを渡してくれました。そしてスプーンを持ちながら「キャビアは好き?」とイリナは唐突に聞いてきました。「好きです」というと「私はこうやって食べるのが好きなの」と言って自分の瓶の蓋を開けスプーンに山盛りのキャビアをパンにのせて食べ始めました。なんと一人一瓶。とても贅沢な朝食がはじまりました。(つづく) 2008年12月22日(いむらはるき) こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから 【TOP PAGE】 |