「版画の景色-現代版画センターの軌跡」はなぜ必見の展覧会なのか

大谷省吾(東京国立近代美術館美術課長)  2018年

 

 以下の文章は、いま埼玉県立近代美術館で開催中の「版画の景色-現代版画センターの軌跡」展をまだご覧になっていない方のために書きました。要するに「ぜひ見てくださいね!万が一見逃しても、あとで必ずカタログは見てくださいね!」ということなのですが、どうしてオススメなのかということを、私が展覧会を見た感想を織り交ぜつつ、少しばかり書いてみようと思います(もう展覧会をご覧になった方も、これを読んで、もう一回見てくださったら嬉しい)。
 まず、私が声を大にして言いたいのは、これはただの版画展ではないということです。いや、たぶん、この展覧会タイトルをみたら、誰もが版画の展覧会だと思うでしょう。そして会場に並んでいる作品も、基本的には版画作品なのですが、その枠を逸脱するものがあるのです。会場を入ると、靉嘔のシルクスクリーンから展示が始まっています。そこから木村光佑、オノサト・トシノブ……と続いていく展示の流れは、いかにも版画展。小田襄や関根伸夫など立体造形作家による版画に「おや」と思っても、そこまでは基本的に、版画の展覧会です。しかしそのあと、スライド・プロジェクションのコーナーがあります。そこには作品のイメージが投影されているのではなくて、なにやら賑やかに人々の集う展覧会場写真だったり、討論会のようなものの写真だったりが、どんどん映し出されているのです。同時に資料も閲覧できるようになっています。このコーナーを億劫がってよく見ずにとばして、展示作品だけ見てオシマイにしてしまっては、今回の展覧会を楽しんだ、あるいは理解したとはいえません。会場にはこうしたコーナーが3ヶ所あって、とにかくここをじっくり見てほしいのです。
 この展覧会は、版画の展覧会であるよりもまず「現代版画センターの軌跡」をふりかえる展覧会です。この「ときの忘れもの」ブログの読者の方にあらためて現代版画センターのことを説明するまでもないと思いますが、その活動期間は1974-85年でしたから、若い方々はセンターの活動をリアルタイムではご存じないはず。かくいう私も(もう若くないけど)リアルタイムでは知りません。綿貫さんとのおしゃべりの際に当時のエピソードを聞いたり、あるいはセンターの刊行物を見たりして、なんとなく断片的に知っていただけなので、その全貌は私も今回初めて知りました。そしてあらためて、これはすごいと認識した次第なのです。では、なにがすごいのか。
 展覧会の企画者、埼玉近美の梅津元さんは、センターの活動の特色を的確に3つ、挙げています。第1に、メーカー(版画を制作する版元としての活動)、第2に、オーガナイザー(オークション、展覧会、シンポジウム、上映会など様々なイベントを組織する活動)、第3に、パブリッシャー(刊行物を編集・発行する活動)です。今回の展覧会では、第1のメーカーとしての活動を展示作品によって、そして第2のオーガナイザーとしての活動をスライドショーで、第3のパブリッシャーとしての活動を資料閲覧コーナーでふりかえることができるわけです。逆にいうと、展示作品だけ見ていても、今回の展覧会をじゅうぶんに理解したとはいえないのです。その点、今回のカタログはすごい。この3つの活動の密度が一目瞭然。こういうデータのヴィジュアル化をやらせたらこの人の右に出る者はいないneucitoraの刈谷悠三さん。彼の凝りに凝ったレイアウトによる3分冊のカタログのうち、第1のメーカーとしての活動は「A:テキストブック」の作品リストと「B:ヴィジュアル・ブック」の図版で、第2のオーガナイザーとしての活動は「C:アトラス」の分布図と年表で、第3のパブリッシャーとしての活動は「A:テキストブック」中の総目録で、いやというほどわかります。そして会場のスライドショーや、カタログの「アトラス」から見えてくるのは、作品そのものよりも、作品を受け取る側の存在、それも東京などに限定されない、全国規模の受け手の存在です。
 もっぱら作品にだけ関心を持つ人でしたら、1974-85年という今回の展覧会の扱う時期を見て、ちょうど東京国際版画ビエンナーレの終末期(1979年に第11回で終了)と入れ替わるように誕生したこのセンターが、版画表現の拡張や版画概念の見直し(版画ビエンナーレ末期には「これ版画なの?」という作品がたくさん出品されました)にどのように取り組んだか、ということを期待して展覧会を訪れるかもしれません。でも、版画センターのやろうとしたことは違っていました。版画表現の拡張や版画概念の見直しといった問題は、いってみれば作る側の問題。版画センターが取り組んだのは、受け取る側、そして作る側と受け取る側とを結ぶ媒介者のあり方の改革といえるでしょう。作る側と受け取る側とが、媒介者によって共犯関係を取り結ぶような……。梅津さんがテキストの最後に指摘しているように、「組織運営的な観点からみて、最も重要なのは、現代版画センターが、単なる『版元』だったのではなく、会員制度を組織した『共同版元』として活動し、その可能性を切り開きつつあった、ということにある」というわけです(その点でいうと、私は今回の展覧会の出品作品のセレクトには若干、不満があります。現代版画センターが手掛けた版画作品は700点以上ありますが、今回出品されているのは265点(+α)。企画者の視点による選別がなされています。理想的にいうと、当時の作り手-受け手の熱をおびた関係を知るためには、今回展示されていない作品も含めて見ていく必要があるでしょう)。
 まあ、それは限りある展示空間の中では無理な注文ではあります。そうした作り手-受けての関係の熱、という点でいうと、会場の中でまとまって紹介されていた「’77現代と声 版画の現在」は見逃せません。これは、9人の作家(靉嘔、磯崎新、一原有徳、小野具定、オノサト・トシノブ、加山又造、関根伸夫、野田哲也、元永定正)による版画を制作し、全国で展覧会を開催し、各地でパネルディスカッションや連続シンポジウム等のイベントを行い、それらをまとめた本を刊行するという、前述の1~3の特色が凝縮されたような取り組みでしたが、その刊行物の巻末で、北川フラムさんはこう書いています。「美術の問題を〈美術〉に閉じこめないこと、運動論として展開していくことが必要だ」。ここが重要です。梅津さんも今回の展覧会で「時代の熱気を帯びた多面的な運動体」として現代版画センターを総括しています。この文章の最初に私が、この展覧会がただの版画展でないと書いたのは、まさにこの点においてです。現代版画センターがやろうとしたのは、ただ版画を刷って売ることではなくて、もっと広い視点から美術と社会との関係を改革していこうとした、ひとつの「運動」だったのだといえるでしょう。
 その考え方は、一種ユートピア的な理想論だったのでしょうか。1985年に、現代版画センターが倒産せざるをえなかった理由は、単に経済的な行き詰まりだったというより、この国において作る側と受け取る側とが、その時点では理想的な関係を維持できなかったからということもできるかもしれません。しかし翻って今日の私たちはどうなのか、ということも考えさせられます。最後にもういちど言います。今回の展覧会は、ただの版画展ではありません。昭和50年代のある美術運動の回顧を通して、作り手、受け手、そしてその媒介者の関係をあらためて考えさせてくれる、射程の深い展覧会なのです。必見です。
おおたにしょうご
0091974-1985年表:北海道帯広から沖縄県石垣島まで全国各地で開催された1400項目のイベント(展覧会、オークション、頒布会、講演会、パネルディスカッション、上映会他)の会期、会場が掲載されています。

034映像コーナー1

037機関誌閲覧コーナー:『画譜』『版画センターニュース』の全バックナンバーを手にとってご覧になれます。

061映像コーナー2:手前のファイルは秋田県大曲支部佐藤功介さんが保管していたエディション目録、支部報・会員報他。

070映像コーナー2

099映像コーナー3

104現代版画センター年度別記録ファイル、故・栗山豊収集のウォーホル資料ファイル

055'77現代と声」企画エディション 
上掲写真はすべてタケミアートフォトス撮影
おおたに しょうご

 

大谷省吾(おおたにしょうご)
1969年茨城県生まれ。筑波大学大学院博士課程芸術学研究科中退。1994年より東京国立近代美術館に勤務。現在、同館美術課長。博士(芸術学)。「北脇昇展」(1997年)、「地平線の夢 昭和10年代の幻想絵画」(2003年)、「生誕100年 靉光展」(2007年)、「麻生三郎展」(2010年)、「生誕100年 岡本太郎展」(2011年)、「瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす」(2016年)、「福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ」(2019年)などを企画。著書『激動期のアヴァンギャルド シュルレアリスムと日本の絵画 一九二八-一九五三』(2016年 国書刊行会)。