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建築を訪ねて

ヤオコー川越美術館(三栖右嗣記念館)
植田実
2010年5月


 これまでの美術館・ギャラリーの企画展紹介とは違って、個人美術館オープンの報告である。
 作品より先ずそれを展示する新しい美術館誕生の案内が伊東豊雄建築事務所から来て、当初の目的としてとりあえずその建築を拝見に行ったのである。というのも私は三栖右嗣という1927年生まれの画家についてまったく知らなかったし、コレクターであるヤオコーという、川越いや埼玉県の人なら知らない人はいないというスーパーマーケットの老舗にも無知だったのである。  しかし美術館設立に至る事の次第は明快だ。館長でありヤオコー会長である川野幸夫の母堂は絵画に特別な関心はなかったが、30年ほど前、偶々三栖の個展で見たコスモスの絵に魅せられて買い求めた。それがきっかけで百五十点もの三栖作品が収集される現在に至り、ついには美術館がつくられ、それは川越の新しい名所になること間違いないだろう。
 この画家の、花にしろ人物にしろ風景にしろ対象を刳るような描写力、しかもその尋常でない技術を技術として見せてしまうことなく画面にはその対象だけが残され、画家の言葉も画家そのものも消し去るような真摯さは、絵画に特別な関心を持たない人にこそまず届いたにちがいない。野や畑のテクスチャだけがどこまでも拡がる1980年代の<麓郷早春>や<麦秋一風>(どちらも500号の大作)を見たとき、アンドリュー・ワイエスを私は浅薄にも連想したのだが、そして年譜には70年代に彼がワイエスの自邸を訪ねたことも記されていてそのような関係はたしかにあったのだろうが、三栖がおもしろいのは、あるいはまったく独自の道を歩いていたと思うのは、ワイエスと交叉する時点があったと同時にその後はワイエスとはむしろ対極的な世界に向かったからである。
 <爛漫>と題されたいくつかの油彩はシダレザクラを描いている。とくに137.0×399.0もの大きな作品はその構図が日本画に近い。画面いっぱいシダレザクラが咲き誇り、左下に小さくカワセミが矢のように飛び抜けていく。一見、屏風画にみられるような装飾性を感じるが、じつは酷薄なまでにリアリスティックに描かれている。花はどれほどの写実力をもってしても花弁が見る者に向けて開かれていれば、しかもそれが画面全体を埋めつくす無数の集合体であれば、写実を駆使すればするほど装飾性へと傾いていく。三栖はその自家撞着から冷徹に逃れている。彼が描くのはサクラではなくシダレザクラである。だからあふれんばかりの「爛漫」を持ち堪えている支持体としての枝が画面上部にがっちりと描かれ、花は水面へと向かっている。つまり花を見る眼は下降という方向と、左へ飛び抜けるカワセミに誘導される速度とによって近代的な花の現実へと届く。これが、おそらくは日本の風景/心のリアリティに、スタイルの手助けなしに還っていくことを願う画家にとっての突破口だったのではないか。
 だれもが三栖の技巧に驚嘆し、描かれている対象の明快さに共感する。ひねくれ者はそのポピュラリティにどう対峙すればよいのか迷ってしまう。ふつうはこうした厄介は避けて通るところをあえて取り上げるのは、伊東がこの作品群を受けとめる建築を構想するうえでいかに画家の内面に深く入りこんでいったかが歴然としているからであり、それ故に伊東のこれまでの建築のなかでも特別な位置を占めるように思えるからである。  伊東がこの設計を依頼された時、すぐ思い浮かんだのは少年時代、彼の家の応接間にかけられていた洋画で、だから「私にとっての洋画の記憶は、当時の応接間とセットになっている」。図録にはそう書かれているし、開館の日に同じことを私に話してもくれたので、そのイメージはよほど強かったのだろう。いわば自分の原体験をかなり直接的に参照することで美術館らしさから遠ざかろうとした。だが「家」のかたちからはもっと遠く見える。出来たのは一辺20メートルあまりの正方形平面の、小さな平屋の白いコンクリート・ボックスであり、内部は田の字に仕切られている。といっても光が移ろうようにゆるやかな仕切りで、エントランスホール、展示室1、2、カフェ/ラウンジの四つの空間になっているが、そこからは堅固な建築さえも消え、時間と気象のゆれ動く記憶のなかに伊東の言う「洋画」だけが残されている。といった気配。
 展示室1の天井は中央から垂れ下がってきて円柱状に床面に接し、その周りは地中の光が滲み出たかのように暗く輝いている。一方、展示室2の天井は中央部分がつまみあげられたかのように上空に伸びてその頂部から光を入れている。上下の向きが違う漏斗状の天井の組み合わせは二つの時期の作品傾向を反映させて、暗さから明るみへ構成したという。それに続くカフェ/ラウンジはさきに触れた<爛漫>1点が飾られ、そこには外光も入りこんでいる。幻影の応接間のように。
 「展示室のデザインはどうなのかな」と、伊東は半ば自問自答するように、私につぶやいた。二つの部屋の対比は少し図式的になってしまったかなと気にしているようにもみえたが、私には美術館のこじんまりとしたスケールには相応しく思えた。プログラムを超えてしまうほどの小ささに対して、ふだんは抑制している形がつい出てきたような。それは白い建物を浸して囲んでいる美しい池を見てもよく分かる。池はそのまま自然の姿で緑の土手に続いている。幾何学の抽象が、いつのまにか忍び寄っていた具象に侵されている。あるいは自然のままの自然と造りものの自然(例えば池はもちろん人工池だ)が戯れ合っている。それは「愛される建築」に短絡することをやんわりと拒み、「愛する建築」に危険なまでに接近している姿である。
 伊東は嫌がるかもしれないが、私はかつてワシントンD.C.に訪ねたフィリップ・ジョンソン設計のとても小さなダンバートン・オークス美術館を思い出していた。それぞれドームを載せた八つの円形の小部屋がロの字形に連結し、その中心が同じスケールの円い噴水池になっている。部屋々々は不釣合いなほど太い円柱群に囲われている(つまり、小さい彫像や宝飾品のための美術館なので、展示壁をなくして円柱とガラス面だけにしているのだ)。その過剰さが官能的というか、いかにもジョンソンらしい。こうした愛の建築は現代建築の状況のなかに時折ふっと姿を見せ、あまり表に出ないまま濃密な記憶のなかにしまわれる。川越の新美術館は、絵画も建築も併せて、そのような思いがけないスリリングな感覚に私を誘い込んだのだった。

(うえだまこと)

 

上掲写真の撮影は植田実

ヤオコー川越美術館平面コンセプトスケッチ(同館HPより)

 

 





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