ときの忘れもの ギャラリー 版画
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建築を訪ねて

靉嘔・池田満寿夫「金沢八景ビル」壁画解体
2016年02月

●<先日はご来客前のお忙しい時間に失礼いたしました。
それでも優しくご対応いただき、本当にありがとうございました。
ブログでいつも拝見している空間で色々とお話しできて、とても嬉しかったです。
また、恩地孝四郎展のチケットをお譲りいただきありがとうございました。
あの後、早速観に行って参りました。
お話しを伺っていたので期待して行きましたが、その期待をさらに上回る展覧会でした!
ご紹介いただいて感謝、感謝です。
恩地さんの作品を拝見するのは初めてでしたが、
あの時代の日本に恩地さんのような作家がいたことを知れて嬉しく思います。
戦後の作品群の展示はまるで楽章が変わったようで、恩地さんが何かから解放されていくような、
ますます自由になったような感じがいたしました。
このような機会をいただき、本当に感謝しています。
また東京に伺う際には遊びにいかせていただきます。
お忙しい日々だと存じますが、くれぐれもご自愛くださいませ。>
(Kさんからのメール)

東京国立近代美術館の恩地孝四郎展がいよいよ明日までとなりました。
社長と亭主は今日から三日ほど出張なので、昨夕最後の見納めに竹橋へと向かいました。
四度目の亭主、二度目の社長、目を皿のようにして戦後の大作群を見て歩くと、恩地元子さん(孝四郎のお孫さん)、小池一子さん、などなどあちこちで挨拶される。
「ブログ読みました」、オープニング以外で10人近くの人に声をかけられたのは初めてです。
そのくらいたくさんの人が来ていました。先月、閑古鳥が鳴いていたのが嘘みたいでした。嬉しい!
今日と明日の二日間、ぜひ皆さんお出かけください。

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長野県松代町にある池田満寿夫美術館の中尾先生から、「金沢八景ビル」が解体され、壁画もなくなるとの情報をいただきました。
あ〜遂にそのときが来たか・・・・・
以下、中尾先生からのお手紙の抜粋です。

<綿貫様
  金沢八景駅前の「金沢八景ビル」と壁面巨大レリーフ(1967年)が横浜市の駅前整備事業により解体予定です。1月末に様子を見てまいりました。


金沢八景駅前から見たビル(正面)


 
壁画レリーフ

ビルの所有者で1967年設立時にレリーフを依頼した故・座間冨美江さんの娘さんから話をうかがいました。
・近所の方たちも親しんでくださっていた。だが、ビルも作品も耐久年を過ぎ、とくに作品は落下の危険があった。このたび横浜市の整備事業に応じたのは致し方なく、どうかご理解いただきたいと思っている。レリーフの受け入れ先も当たったが見つからなかった。

・母は若い頃に2年間ほどギャラリーを経営した縁で創美の方々に世話になり、その紹介で靉嘔さんと池田さんにデザインを頼んだ。
木村利三郎さんは帰国時によく母を訪ねてくださっていて、レリーフの行く末について助言を仰いだ際には「一部を切断して記念に残したら」と言われた。

・横浜市には木村先生の助言を伝えた。調べでは金属が厚く(だからこそ丈夫で耐久性があったが)解体作業不可能とのこと。

・のちに市から指導が入り、跡地にマンションを建てる伊藤忠商事の関連会社がビルと作品について簡単なプレートを設置するようだ。
とのことです。

関係資料(図面など)は譲ってくださいました。
以前に当館が拝借して紹介したものを含みます。横浜市にでも・・・とお考えだったそうですが、偶然、ビル退去日に訪問したため「これも縁でしょう」とおっしゃっていただき、預かってまいりました。
靉嘔さんにはその旨、手紙を差しあげました。



 
上:手書きの図面。背景のデザインは靉嘔さん、手のデザインが池田さん(最終的に唇に変更)。








ブロンズ《手》原型


金沢八景ビル図面

金沢八景ビル図面

靉嘔さんや小コレクターの会関係で間に合ううちにレリーフをご覧になりたい方がいらっしゃるかもしれず、その方にはぜひ伝えたく思う次第です。
池田満寿夫美術館 中尾美穂

作者のお二人、靉嘔先生はご健在ですが、池田満寿夫先生は1997年に亡くなられています。
この壁画について、池田先生の著書、及び前池田満寿夫美術館館長・宮澤壯佳さんの著書から引用しましょう。

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  その年の暮に実在者グループ連鎖個人展をフォルム画廊で開きその後「実在者」は事実上解散した形になってしまった。そして私とアイ・オーとの新たな友情がはじまったのである。壁画運動準備会なるおよそ当時としてはユートピア的な組織をアイ・オーと二人でつくり、パンフレットをばらまいたが実現しなかった。今こそ芸術は社会の中へ自ら入っていかなければならない。その一つの方法として壁画制作と版画が未知なる可能性を有しているといった主旨のものだった。久保貞次郎瑛九を私に紹介したのはアイ・オーだった。この二人が私に与えた影響はなにものにもまして大きかったといわねばならない。
*池田満寿夫『私の調書・私の技法』(1976年、美術出版社)49ページより

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  そうした苦しい生活のなかで夢想した暗い心境からの脱出をねがう切実な思いは、一九五六年四月に靉嘔とともに結成した「壁画運動準備会」のために彼と共同執筆した次のような詩にも似た一文に明瞭にあらわれている。

かがやく太陽のもとの、
緑の芝生の上の、
咲きほこった草花の前の、
私たちの壁画の前で、人々は休み、恋人たちはささやき、歩いたり、考えたり、笑ったりする。壁画がなぜそこにあるかという疑問なしに、太陽と共に、同様、壁画と共に人々はそこにいる。(靉嘔、池田満寿夫)

  暗い現実に「陽光」を求める当時の切実な心境が伝わってくる。壁画というパブリック・アートをとおして多くの人々との接点を獲得しようとする計画は直ちに達成されなかったが、その十一年後(一九六七年、昭和四十二年、三十三歳)になって、ようやく二人の合作で実現した。その時は二人とも美術界のスターになっていたのが皮肉である。
  靉嘔との合作によって実現した作品は壁画ではなく、巨大な壁面レリーフだった。神奈川県金沢八景駅近くの七階建の金沢八景ビルの新築時に実現して、現在もそのまま残っている。靉嘔は一九五八年(昭和三十三年)から渡米して不在だったために、日本にいた池田満寿夫がこの壁面レリーフを「担当」した。
  ところが、池田満寿夫は間もなく渡欧することになったため、当時同棲していた富岡多恵子が「代行」し、彼の初期のパトロンとして知られる書痴往来社主の峯村幸造が「代人」「施工の責任者」となる。壁面レリーフは鹿島建設の請負で一九六七年十二月に完成した。横浜市都市整備局発行のパンフレット『都市環境と彫刻―建築・都市と造形作品』(一九七九年)によると、縦二五メートル、横八メートル、奥行き二メートルのレリーフ状の壁面装飾である。峯村幸造による記述では、縦二三メートルで、わずかに相違するが、前記の「 」内は彼の記述にしたがった。
  最初の計画では、池田満寿夫美術館が所蔵するブロンズ・レリーフ《手》(一九六七年)がマケットとして提出されたが、最終的には、女の横顔ともハートの重なり合ったような特定しがたい有機的形態、さらには巨大なトム・ウェッセルマンふうのポップ・アート的な唇のイメージ、靉嘔が得意とする平行線のレインボー形態が合成された。弧状の白く光ったアルミ平板を垂直に、平行に並列して構成したオプ・アート的な光の変化の面白さを狙っている。角度を変えて見ると、抽象的なアルミの輝きのなかから具象的な形態が浮き上がってくる。近くで見あげると、どことなくエロティックで、有機的な形態が反復される抽象彫刻にも見えてくる。無機的な四角いコンクリートの近代建築の正面ほぼ半分と側面の一部を占める大胆な曲線に映る光と影のコントラストが、天候と時間の変化に応じて変化し、周囲の景観に強いアクセントをあたえている。
  靉嘔も池田満寿夫も明るい「陽光」のもつシンボリックな意味にこだわっていた。

*宮澤壯佳『池田満寿夫―流転の調書』(2003年、玲風書房)107〜109ページより

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施主の座間冨美江さんはじめ、靉嘔、池田満寿夫、富岡多恵子、峯村幸造さんらが関わった「壁画運動」の夢の結晶が金沢八景ビルでした。
亭主も随分前になりますが、ビルを訪ねていったことがあります。「環境美術」という言葉もなかった時代ですが、竣工当初は創美関係の人たちの間で随分話題となりました。

ネットで検索したら「週刊ビル経営」平成23年4月4日号にビルの概要が掲載されていたので、引用します。( 靉嘔先生の名前が記載されていませんが、そのまま再録します)

金沢八景商事株式会社
取締役社長 吉見 弘 
設立 昭和26年
事業内容 貸ビル業

名称 金沢八景ビル
所在地 神奈川県横浜市金沢区瀬戸2-5
延床面積 4080.17u
敷地面積 743.63u
規模 地上6階
構造 RC造
竣工 昭和42年


●沿革
以前は、吉見氏の義理の祖父が映画館を経営していたが、老朽化が進み、安全面を配慮し、昭和42年に映画館を取り壊して金沢八景ビルを建てた。
  竣工当初は自社経営の映画館とボウリング場があったが、現在、賃貸しており、透析センターとテニススクールが入居している。
  平成14年、同ビルの経営を引き継いでいた義母が他界。
  吉見氏は、これまで勤務していた会社を退職し、同ビルの経営を引き継ぐこととなった。

●ビル経営
  京浜急行線・シーサイドライン「金沢八景」駅から徒歩1分の平潟湾に面した場所に「金沢八景ビル」は立地している。 
  同ビルの外壁には、画家・彫刻家・作家・映画監督など多彩な活躍をした芸術家の池田満寿夫氏によって制作されたレリーフが飾ってある。
  これは、先代の経営者である吉見氏の義母が芸術分野に造詣が深く、意匠性の高いビルにしたいと考え、池田氏に依頼したようだと、吉見氏は語る。
  「当ビルは、竣工時より6階にて、曜日ごとにフラダンスや英会話などのカルチャー教室を行っており、義母には、地元の人々に様々な文化に触れて欲しいという考えからカルチ
ャー教室を運営していたのだと思います」(吉見氏)
以下略



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