西暦 |
年齢 |
瀧口修造 関係 |
アンドレ・ブルトン、シュルレアリスム関係 |
1896 |
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アンドレ・ブルトン生まれる。 |
1903 |
0 |
12月7日、富山県婦負郡寒江村大塚に生まれる(長男。姉2人の弟。医師の家系で父の専門は眼科)。 |
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1906 |
3 |
この頃に自分で絵を描くこと、絵を人に描いて貰うことの楽しみを覚える。 |
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1910 |
7 |
寒江村立尋常小学校に入学する。(後年まで学校に怖れと嫌悪感を抱く) |
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1915 |
12 |
父、他界。遺品にカメラが残され、写真に親しむ。初めて暗室に入り、写真を現像。イメージの出現に感動する。 |
動員され、ナントの神経精神センターに配属される。 |
1916 |
13 |
県立富山中学校に入学する。 |
ジャック・ヴァッシェと出会う。 |
1917 |
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フィリップ・スーポー、ルイ・アラゴンと知り合う。チューリッヒで「ダダ」誌創刊。 |
1918 |
15 |
黒部川上流のスケッチ帳を図画教師にほめられ、絵への興味が再燃。 |
『マルドロールの歌』を読む。(第一次世界大戦終結) |
1919 |
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「文学」誌創刊。スーポーと自動記述開始。 |
1920 |
17 |
短歌に衝動を感じ、地方紙・校友会誌などに投稿。象徴詩の世界に憧れる。「白樺」や美術書を濫読。 |
トリスタン・ツァラ、パリに到着。パリ・ダダ始まる。ブルトン、スーポー『磁場』刊行。(フランス共産党、コミンテルンに参加) |
1921 |
18 |
富山中学を卒業。受験準備を理由に上京。 |
ツァラとブルトンとの対立表面化。シモーヌ・カーンと結婚、新婚旅行を兼ねてウィーンにフロイトを訪問。 |
1922 |
19 |
母、急逝。医科進学を断念。岸田劉生の「麗子像」を見て不思議な感動を覚える。 |
ダダと絶縁。「文学」誌第二期。「眠りの時代」。マン・レイ、マックス・エルンスト、パリに到着。(ソ連成立) |
1923 |
20 |
慶応義塾大学文学部予科に入学するが失望、図書館に籠り、ウィリアム・ブレイクなどを原書で読み耽る。震災を機に退学、長姉を頼り北海道小樽に渡る。 |
アンドレ・マッソン参加。マルセル・デュシャン「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称「大ガラス」)完成。(ヒトラー、クーデター失敗) |
1924 |
21 |
2人の姉と文房具兼手芸材料店を開く計画を進める(翌年開業し、商品整理や店番などを手伝う)。大学に再入学するよう説得される。 |
「シュルレアリスム研究センター」創設。『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』。「シュルレアリスム革命」誌創刊。(レーニン死去、スターリン政権掌握) |
1925 |
22 |
長姉らの説得に従い再上京。慶応義塾大学文学部英文科に復学する。 |
「シュルレアリスム革命」誌に「シュルレアリスムと絵画」を連載。集団遊戯「優美な屍骸」。ピエール画廊で最初のシュルレアリスム展。トロツキー『レーニン』を読む。「クラルテ」誌と接近。(モロッコのリフ戦争) |
1926 |
23 |
同人誌「山繭」に加わり、詩を発表。西脇順三郎教授に卒業まで5年間教わる。 |
「シュルレアリスム画廊」開設、マン・レイ展開催。ナジャと出会う。スーポー除名。 |
1927 |
24 |
ランボーの詩に啓示を受ける。西脇教授の書斎で知った『磁場』、『シュルレアリスム宣言』の原書を入手し、(この年または翌年の)夏休みに小樽近郊の蘭島海岸で読解に取り組む。 |
共産党に入党。アルトー脱退。アンゴの館で「ナジャ」を執筆。シュザンヌ・ミュザールと出会う。 |
1928 |
25 |
「山繭」誌に詩「地球創造説」を発表。以後31年頃まで一連の実験的な詩的テクストを発表。 |
『シュルレアリスムと絵画』 、『ナジャ』。マッソン脱退。 |
1929 |
26 |
西脇順三郎の『超現実主義詩論』の編集を手伝い、巻末に「ダダよりシュルレアリスムへ」を寄稿する。 |
シャトー街の集会。「シュルレアリスム第二宣言」。「シュルレアリスム革命」誌終刊。デスノスら脱退。ダリら参加。ジョルジュ・バタイユ、「ドキュマン」誌創刊。 |
1930 |
27 |
ブルトン『超現実主義と絵画』を翻訳出版。(この年または翌年)写真館を開業して生計を立てようと計画し、一時、西銀座の写真スタジオに勤務。 |
「革命に奉仕するシュルレアリスム」誌創刊。ダリ、「偏執狂的・批判的方法」提唱。『処女懐胎』。『工事中徐行』。シモーヌ・カーンと離婚 |
1931 |
28 |
慶応義塾大学を卒業。「詩と実在」、「絶対への接吻」、マン・レイ論などを発表。 |
ダリ、「象徴機能をもつオブジェ」。 |
1932 |
29 |
PCL(写真化学研究所。東宝の前身)に入社し、スクリプターとして勤務。「巴里東京新興美術展」でエルンスト、タンギー、ミロらの実作を観て感動。 |
アラゴン事件。『白髪の拳銃』『通底器』。 |
1933 |
30 |
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「ミノトール」誌創刊(事実上の機関誌)。トロツキー、フランスに到着。(ナチス政権成立) |
1934 |
31 |
激務のため健康を害し、休職。後に文芸課に籍を移す。「新造型美術協会」の活動に協力、会員の鈴木綾子を知り、(翌年)結婚する。 |
ジャックリーヌ・ランバと出会い(「ひまわりの夜」として有名)結婚。トロツキー追放、「ヴィザなき惑星」発表。ブリュッセルで講演「シュルレアリスムとは何か」。 |
1935 |
32 |
「カイエ・ダール」誌に“AU JAPON”を寄稿。ブルトンから直送されてきた「文化擁護作家会議」の講演原稿を翻訳(翌年、『超現実主義の交流』に掲載)。 |
プラハで講演「オブジェのシュルレアリスム的状況」。「カイエ・ダール」誌、シュルレアリスム特集。共産党と絶縁。「文化擁護作家会議」。バタイユと接近、「コントル・アタック」結成。『シュルレアリスムの政治的状況』。ジャックリーヌとの間に娘オーブ誕生。(スターリン大粛清開始) |
1936 |
33 |
胃潰瘍に悩む。PCLを退社。「アヴァンガルド芸術家クラブ」を組織(例会には特高が臨席し監視される)。「超現実造形論」発表。ブルトン「欲望のデカルコマニーについて」を翻訳。 |
「コントル・アタック」を離脱。「オブジェ・シュルレアリスト」展。ロンドンで「シュルレアリスム国際展」。オスカール・ドミンゲス、デカルコマニーを開始。「欲望のデカルコマニーについて」。「モスクワ裁判の真実でスターリンを非難。アルトーと和解。 |
1937 |
34 |
「海外超現実主義作品展」を組織(記念出版『アルバム・シュルレアリスト』を編集、表紙のデカルコマニーを制作)。阿部芳文(展也)との詩画集『妖精の距離』刊行。 |
画廊「グラディヴァ」開設。ウォルフガング・パーレン、フュマージュを開始。『狂気の愛』、『黒いユーモアについて』。アルトー、精神病院に収容される。(ゲルニカの爆撃) |
1938 |
35 |
『近代芸術』を出版。「ピカソの火」を発表し「ゲルニカ」を紹介する。「アンドレ・ブルトンの美学」でブルトン『狂気の愛』を抄訳。「写真と超現実主義」など、一連の写真評論を発表。新バウハウス運動にも関心を寄せ、モホリ・ナジ、ケペッシュらと文通。 |
メキシコにトロツキーを訪問。シュルレアリスム国際展。『シュルレアリスム簡約辞典』。一時召集される。(ミュンヘン会談) |
1939 |
36 |
『ダリ』を刊行。日本大学芸術学部で「近代芸術」の講義を担当。長姉の逝去に伴い小樽を訪れる。 |
「ミノトール」誌終刊。ダリ追放。エリュアール、マン・レイら脱退。ブルトン再召集される。デュシャン『ローズ・セラヴィ』。(独ソ不可侵条約、ポーランド分割、第二次世界大戦勃発。フロイト死去) |
1940 |
37 |
特高の圧迫。孤独に陥る。シュルレアリスム観が瓦解し、深刻な挫折感に捕われる。ミロに関する世界初のモノグラフィ『ミロ』刊行。 |
シュルレアリストたち、マルセイユに集結。(パリ陥落。メキシコでトロツキー暗殺される) |
1941 |
38 |
特高に検挙され約7ヶ月間拘留後、起訴猶予処分で釈放。(太平洋戦争勃発) |
『黒いユーモア選集』『ファタ・モルガナ』(いずれも発禁)。マルティニック諸島経由、ニューヨークへ。(独軍ソ連侵攻) |
1942 |
39 |
保護観察下に置かれ、観察司に(時局協力的な)執筆を迫られる。友人の訪問が絶え、深い孤立感に陥る。 |
「VVV」誌創刊。ニューヨークでデュシャンと「シュルレアリスム国際展」。「シュルレアリスム宣言、発表か否かのための序文」。エール大学で講演「両大戦間のシュルレアリスムの状況」 |
1943 |
40 |
胃潰瘍再発する。国際文化協会の嘱託となり、京都、奈良の古美術撮影に加わる。 |
ジャックリーヌ、ブルトンの元を去る。エリザとの出会い。 |
1944 |
41 |
撮影旅行を続ける。 |
ガスペジー半島へ旅行。『秘法十七』。(パリ解放) |
1945 |
42 |
空襲で、ブルトンの書簡、署名本、機関誌など一切を焼失。金沢で終戦を迎える。 |
エリザと結婚。『シュルレアリスムと絵画』増補版。 |
1946 |
43 |
日米通信社に参与として勤務、「日米ウィークリー」誌の文化欄を担当する。 |
パリに戻る。 |
1947 |
44 |
胃潰瘍で一時危険な状態に陥る。 |
シュルレアリスム国際展。『シュルル・フーリエへのオード』。パリでデュシャンと「シュルレアリスム国際展」 |
1948 |
45 |
この年前後に多数のピカソ論を発表。 |
「ネオン」誌創刊。アルトー死去。 |
1949 |
46 |
読売アンデパンダン展で多くの未知の新人作家と出会う。『近代芸術』再刊。 |
「精神の渉猟」事件(モーリス・ナドーらがランボーの未発表作として出版した「精神の渉猟」を贋作と看破し抗議)。 |
1950 |
47 |
読売新聞を中心に多くの美術評論を発表。 |
『黒いユーモアの選集』新版。NEF誌特別号「半世紀のシュルレアリスム」 |
1951 |
48 |
「タケミヤ画廊」運営に協力し57年まで208回の企画展を開催。若い造形作家・作曲家たちのグループ「実験工房」に顧問格として関与(「実験工房」の名も命名)。『近代芸術』第3刊。 |
カルージュ事件。 |
1952 |
49 |
美術映画「北斎」に多くの労力を費やす。 |
アンドレ・パリノーとラジオ対談(『対談集』)。「メディオム」誌創刊。 |
1953 |
50 |
新宿区西落合に小住宅を新築、以後、終生居住する。 |
「封印された星」画廊開設。『野の鍵』 |
1954 |
51 |
詩画集『スフィンクス』を刊行(久保貞次郎私家版)。 |
ヴェニス・ビエンナーレでエルンストが絵画、ミロが版画、アルプが彫刻の各大賞受賞。 |
1955 |
52 |
『十六の横顔』を出版。「藝術新潮」誌に「異色作家列伝」連載(後に『幻想画家論』として刊行)。 |
エルンストを除名。「吃水部におけるシュルレアリスム」発表。 |
1956 |
53 |
『シュールレアリスム』刊行。 |
「シュルレアリスム・メーム」誌創刊。 |
1957 |
54 |
タピエ、マチューら来日。アンフォルメル旋風。サム・フランシスとの交友も始まる。 |
ルグランとの共著『魔術的芸術』。 |
1958 |
55 |
ヴェニス・ビエンナーレの日本代表として渡欧(彫刻部門のイタリア代表フォンターナにあえて絵画部門で投票し、本人に喜ばれる)。フォンターナ、ムナーリと交流。欧州各地を訪れ、タピエと再会。ブルトン、デュシャン、ダリ、タピエス、ミショーらと面談。 |
「BIEF(ビエフ)」誌創刊。 |
1959 |
56 |
美術評論執筆に障害を覚える。『幻想画家論』刊行、デュシャンに献呈し文通が始まる。 |
ミロと詩画集『星座』。シュルレアリスム国際展(エロス)。 |
1960 |
57 |
スケッチブックに万年筆で文字でない線描を走らせる。第1回個展(南天子画廊)。 |
デュシャンの監修による「魔術師の領域へのシュルレアリスムの侵入」展。 |
1961 |
58 |
第2回個展(大阪北画廊。第1回、第2回とも題は「私の画帖から」)。 |
ミラノの「シュルレアリスム国際展」に協力。「ラ・ブレッシュ」誌創刊。 |
1962 |
59 |
元日からデカルコマニーに没頭、第3回個展「私の心臓は時を刻む」で発表する(南画廊。翌年、神戸国際会館に巡回)。クレー論の執筆が捗らず、斎藤神経科の北杜夫に受診。バーント・ドローイングを試みる。『近代芸術』第4刊。 |
『シュルレアリスム宣言集』決定版。 |
1963 |
60 |
美術評論を避け作家に個人的に贈る言葉が増加。ティンゲリーにロトデッサンを贈る。 |
『ナジャ』自筆改訂版。 |
1964 |
61 |
「オブジェの店」を開く構想を抱き、デュシャンから「ローズ・セラヴィ」の店名を贈られる。返礼に『マルセル・デュシャン語録』を計画する。サム・フランシスとの詩画集『黄よ、おまえはなぜ』刊行。 |
ワルドベルグ企画「シュルレアリスム―源泉、歴史、周辺」展に異議。 |
1965 |
62 |
野中ユリとの詩画集『星は人の指ほどの―』刊行。赤瀬川原平の「千円札事件」で特別弁護人となる。 |
ルイユ画廊で「シュルレアリスム国際展」(「絶対の隔離」)。『シュルレアリスムと絵画』決定版。 |
1966 |
63 |
ブルトン逝去に衝撃を受ける。来日したミロと意気投合、詩画集を計画する。『余白に書く』刊行。 |
ブルトン逝去。 |
1967 |
64 |
野中ユリとの詩画集『不知抄』刊行。『瀧口修造の詩的実験 1927〜1937』刊行。 |
「アルシブラ」誌創刊。 |
1968 |
65 |
『マルセル・デュシャン語録』完成(特装版60部にはデュシャン、ジャスパー・ジョーンズ、ティンゲリー、荒川修作のオリジナル入り)。自宅の庭に自生したオリーヴの実の瓶詰を造り始める。 |
デュシャン逝去。 |
1969 |
66 |
『アンドレ・ブルトン集成』監修。脳血栓で入院。『画家の沈黙の部分』刊行。「本の手帖」誌で瀧口修造特集。 |
シュルレアリスム運動終息宣言。「クーピュール」誌創刊。 |
1970 |
67 |
ミロとの詩画集『手づくり諺』刊行。胃潰瘍の手術を受ける。 |
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1971 |
68 |
第4回個展(新宿のスナック・バー「セバスチャン」)。 |
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1972 |
69 |
『三夢三話』、『幻想画家論』新装版、『略説・虐殺された詩人』、『地球創造説』刊行。 |
「クーピュ―ル」誌終刊。 |
1973 |
70 |
「シュルレアリスムと画家」叢書「骰子の7の目」を監修。「マルセル・デュシャン回顧展」のレセプションに招かれ渡米。カタログに"Personally Speaking" を寄稿。 |
フィラデルフィア美術館・ニューヨーク近代美術館「マルセル・デュシャン回顧展」 |
1974 |
71 |
「現代詩手帖」誌で瀧口修造特集。デカルコマニーなども掲載。 |
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1975 |
72 |
アントニ・タピエスとの詩画集『物質のまなざし』、『寸秒夢』刊行。 |
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1976 |
73 |
ミロからカタルーニャのひょうたんを贈られ喜ぶ。 |
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1977 |
74 |
岡崎和郎と『検眼図』を共作。ポンピドゥー・センター「マルセル・デュシャン展」の23名の「目撃者」(Temoins Ocultistes)の1人を務める。 |
ポンピドゥー・センター「マルセル・デュシャン展」 |
1978 |
75 |
ミロとの詩画集『ミロの星とともに』刊行。 |
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1979 |
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加納光於との詩画集『掌中破片』刊行。 7月1日、心筋梗塞のため死去。 |
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