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第1回 「型紙」考―切り抜き行為 2011年9月5日
「形を切り抜く」とは、何とも不思議な造形技法である。
型抜きは、そもそも「型」を使って、土台となる要素から、ある造形を取り出すことを目的としているのだが、一部を切り抜かれた土台もまた、新たな造形物として独特の魅力を醸し出しはじめる。クッキーの型抜きをしていて、切り抜かれた後の生地の形にふと面白さを感じる、あの感覚である。同じ切り抜き行為でも、折り重ねた紙を鋏などで刻んで形をつくりだす紋切りなどの造形技法では、切り捨てた断片=不要な部分になってしまうが、「型」によって切り抜かれた場合は、そもそも「型」にある種の造型性があるためか、抜き型と台紙がポジとネガのような関係における2種の「作品」を生みだすのである。
ときの忘れものでは、瑛九(1911-1960)のフォトデッサン型紙として、紙から切り抜いた23枚の紙片と、形を切り抜かれた19枚の用紙、それにセロファン紙4枚の、合計46種類の型紙が展示される(*1) 。それらは、流れるような曲線や不規則な形によって、奔放にあるいは即興的に生みだされた形のように見えるが、ひとたび、紙片の裏にある鉛筆の下書きを見れば、いかにそれが選び抜かれた線をもとに作られているか気づかされる。ある型紙では、複数の下書き線から選び抜かれた一本の線が太くなぞられている。また、他の型紙では、鉛筆の下書きが何度も消しゴムで消された跡があるといった具合に。
切る行為も即興的なものではなかった。おそらくそれほど細くないナイフや鋏を使って、時折紙を回転させながら丁寧に行われた(*2) 。切り絵の経験者であれば、滴形のような細かい曲線がいかに難しいか知っているだろう。紙の向きを適時変えながらでないと、不要な力が紙にかかり、断面に凹凸や皺が寄ってしまう。細かい図柄であればあるほど、丹念な作業が必要とされるのである。瑛九の型紙からは、作品完成のために緻密な作業をひとつひとつこなす作家のまじめな人柄と同時に、「型紙」制作自体を造型行為として作家が丁寧に捉えていたことが伝わってくる。
「型紙」について何よりも驚くことは、瑛九が、時として、サインを入れ終えた完成品であるペンデッサンやフォトデッサンの印画紙を台紙として使用していることだろう。このことについて瑛九は、「私は、例えば1つのシュウル・レアリスティクなコンポジョンを製作するためにはきりぬいた女の足でも、撮影した一個の原版をも自由に使用する」(*3)と宣言し、芸術の本質の追究のためには完成した印画紙の利用も辞さない姿勢を示した。その背景には、「芸術ことに絵画において、完成と云ふ事は云へないと同時に、習作とかケイコとか云ふ物はないはずである(*4)」という発言に示される、あらゆる創作行為は常に「完成」へと向かう本作であるという意識があった。つまり、芸術を進行形のものとして捉える瑛九にとって、作品へのサインは必ずしも創作の完了を意味するのではなかったし、記銘作品であってもさらなる創作の礎として使用されうるものであった。
管見では、残された「型紙」にサインが付されることや、公に展示されることはなかった。しかし、作家が大量の型紙を保管していたという事実は、瑛九にとって、制作された「型紙」は、フォトデッサン作品と同様に、単なる創作過程における一技法、一要素に留まらないものであったことを示唆している。その型紙の重要性とは、地の要素から新たな造形を取り出すと同時に、残された地そのものも新たな造形物として意味を持ちだすという型抜き独特の造形の連続性に関連するものではないだろうか。前述したように、切り抜かれた型と台紙にはポジとネガの様な造形の関係性がある。フォトデッサンの手法によって、物の形に生じる光と影との原理的美学を追求しようとした瑛九は、切り抜いた図形だけでなく、図形を切り抜かれて残った地にも造形的魅力が生じるという「切抜き」の造形性に意識的であったとも考えられる。瑛九にとって、これらの「型紙」は、フォトデッサンの重要な構成要素であり、独自の造形性をもつ一種の「作品」であったのだろう。
(あさのともこ)
*1 瑛九はフォトデッサンに用いた型を、「切紙」あるいは「型紙」と称している。瑛九「フォト・デッサン―印画紙を使うデッサン―」『アトリヱ』336号、アトリエ社、1955年1月、75〜78頁。
*2 細江英公によって撮影された《瑛九の肖像》(1953年)では、鋏を手に型紙を制作する瑛九の姿が納められている。『版画芸術』瑛九特集号、112号、阿部出版、2001年6月、73頁。
*3 杉田秀夫「フオトグラムの自由な制作のために」『フォトタイムス』7巻8号、1930年8月、フォトタイムス社、1173頁。
*4 杉田秀夫「槐樹社展を観る」『みづゑ』267号、1927年5月、56頁。
第2回 「型紙考」―モダン都市 2011年9月6日
瑛九は、その短い生涯のなかで多様な造形世界を展開させた。愛らしいモダンガールの肖像を描いたかと思えば、光を筆にフォトデッサンで実社会の喜怒哀楽を写しだし、エッチングやリトグラフで色鮮やかな線と面の構成美を提示し、画面を覆い尽くさんばかりのカラフルな点描油彩によって真に芸術のための芸術を追求したのである。いずれの造形表現においても、瑛九は独創的であり、創造的であり、その芸術は当時から評価されてきた。
瑛九、本名杉田秀夫が、印画紙の上に物体や型紙を置いて感光させるフォトグラムの制作をはじめたのは、油彩画という造形表現の限界に苦悩する中で写真という新しい手段を見いだした19歳の頃である。写真技法としてのフォトグラムは、1840年前後に英国人のタルボットによって見いだされたとされ、1920年代にマン・レイやモホリ=ナギといった前衛作家の作品が伝えられることで日本に広まった。
物体や型紙を置く位置や、光の加減と感光時間によって、作者の予想を越えたイメージをもたらす実験的なフォトグラムが、若い瑛九の造形心を大いにくすぐったことは想像に難くない。なによりも、科学時代の近代的感覚を表現することを模索していた作家にとって、芸術家の意識を科学的に印画紙上に定着させる、写真技術独自の特質が魅力的に映ったのであろう。
ときの忘れもので展示された46種(人体や動物などの形に切り抜いた個別の図形23種、感光紙などを切り抜いて施した景観図や構図23種)のフォトデッサンの「型紙」を見てゆくと、瑛九が好んだモチーフがあることに気付く。例えば、10〜30p前後の個別の図形では、動物、静物、人物、抽象図形の4種に分けることができ、動物では鶏、象、犬が、静物では花、テーブル、自転車が、人物では踊り子、ヌードといったようなモチーフが多い。また、感光紙に施された景観図や構図は、高層建築の林立する都市景観、海岸景観、酒場などの室内景観に、抽象空間やサーカスの場面といったその他の景観の4種に大別される。もちろん、これらのモチーフは明確に分類されるわけではなく、例えば海岸を臨む地に象に乗る女性や踊り子が登場するというように、モチーフや場面は自由に組み合わされているのであり、用いられた図像を類型化するにはより多くの型紙の調査検証が必要である。
瑛九の型紙に登場する多様な図像の中でも、ビル街、自転車や踊り子などは、1920、30年代の都市風景画において、近代化する都市文化を象徴する要素であった。例えば、版画家の谷中安規は、《春夜》(1933年)にて、歓楽街に集う男たちや裸婦とそれを睨む鋭い眼差しの警官を描いた。また、古賀春江は、代表作《海》(1929年)にて、水着姿の女性に飛行船や潜水艦、高層建築をコラージュして近代文化を象徴的に描いている。この他、自転車やビルなどが頻繁に登場する松本竣介の《都市風景》シリーズなど、多くの作家が踊り子、ヌード、酒場、自転車、高層建築といった近代都市の事物をモチーフにしている。
宮崎に生まれ、後に浦和に居を構えた瑛九であったが、フォトデッサンで表現される風景は農村風景でも山海風景でもなく、10代後半から20代にかけて宿を転々としながら過した東京のモダン都市風景である。それは、「油絵之具が作り出された頃の時代では想像にも及ばなかつた我々の住むこの機械的な建物や、はしつてゐる所の機械としての乗物の中に生活する生活感情」(*5)を表現する手段として、瑛九がフォトグラムを見いだしたためであろう。科学的、論理的性質の強いフォトデッサンの図像表現には、機械化するモダン都市の実相が選択されたといえる。
(あさのともこ)
*5 瑛九「感光材料への再認識 フオトグラム的制作に関して」『カメラアート』936号、1936年6月、387頁。
第3回 「型紙考」―型と本作 2011年9月7日
瑛九の「型紙」は2種類に大別される。人体や動物などの形に切り抜いた個別の図形と、感光紙を切り抜いてある構図や景観を描いた図である。切り抜かれた個別の図形は、色紙や他の型紙との組み合わせによって、その魅力の広がりを見せ始める。一方、切り抜きによって描かれた図は、構図の完成度が高く、それのみで十分な作品として成立している。鑑賞の方法は異なるが、互いに瑛九の「作品」として魅力を有するものだ。
では、切り抜かれた図形となる型紙は、フォトグラムのなかでどのように利用されたのか。
円錐のような枠内に花が散りばめられ、あたかも花束のように見える2種の型紙がある。この型紙は、1951年6月の『アサヒグラフ』(1400号)の裏表紙に掲載された三和銀行の懸賞付き定期預金の広告に使用された(*6)。「両手に花」というキャッチフレーズと共に、女性が両手に花束を掲げるといったものである。同一の女性像を反転させて、手には異なるものを持たせた図像が、同年7月の日本童詩研究会発行の『きりん』(*7)の裏表紙に、同じ三和銀行の広告として掲載されている。このことから、この花束様の型紙は、1951年頃に三和銀行広告として制作依頼され、複数の版があると推定される。
同じく1951年頃の作と考えられるのが、両手を空に向かって広げ、大きく口をあける人物の型紙である。一見するとそれは、鶏のようでもあり、雄叫びを上げる女性のようで滑稽だ。印画紙を切り抜いたこの型紙は、1951年に刊行された『瑛九フォトデッサン作品集 真昼の夢』に収録された《夜の子どもたち》に登場する。横長の画面のなかで、二羽の鳥が舞う下に4人の踊る人物像と輪形の図形が配置されているが、その右端の人物がこの型紙である。
また、大小の象と馬の型紙は、《動物たち》(1951年、宮崎県総合博物館蔵)に登場する。《動物たち》は、右手に象に乗った女性とラッパを吹く人物を、左手に仰向けになって馬に乗る女性と子象を配した画面に、手の陰影が重なりながら点在するといった賑やかな作品で、一見してサーカスの曲芸の場面のようである。それぞれの型紙は、フォトグラムの印画紙を切り抜いて作られているが、異なる感光の表現を持っていることから、別々の印画紙から切り抜かれたと考えられる。
本作を通して感じるのは、瑛九がフォトグラムの制作にあたって、用いる型紙の表裏を全く意識していないことだ。《夜の子どもたち》の人物像や《動物たち》の右手の象は、下書きの向きのまま本作に用いられている。印画紙の上に光をさえぎる物体として型紙を用いるフォトデッサンの制作過程に即せば、印画紙上の図柄を意識する必要がないことは当然ではある。しかしながら、型紙の配置において図形の表裏を意識しなかったということは、つまり、完成したフォトデッサンを用いて型紙を制作する作業過程において、感光紙上の表現は意識されなかったことをも意味する。これは、瑛九にとって現実的な「完成作」というものが存在しなかったことを示唆するようである。より良い作品を作るため、瑛九は躊躇なく「作品」を切り刻んだのだろうか。
両脚を大きく広げながら馬に乗る女性の型紙がある。これは《森のつどい》(1950年)に用いられた。注目されるのは、《森のつどい》の女性と馬には眼球を示す穴がないが、残されている型紙にはあることである。これは、一度制作に用いた後に、作家によってさらに手が加えられたことを意味する。『アトリエ』1955年2月号に掲載された《しずむ肖像》の、3つの異なる抽象図形を縦に配置した型紙でも、同一の型紙を用いた異なる作品の存在の可能性が示唆される。『アトリエ』に掲載された図版では、型紙の表面(感光面)が上にされているが、型紙の裏面には、中心から外に向かって黒から赤へと徐々に色を変えて絵具を吹き付けた跡が残っている。そして、この着彩について、図版に併記された制作方法の解説において瑛九は言及していない(*8)。着彩の痕跡は、おそらく、同一の型紙の裏面を用いて、色を加えた全く異なる作品が制作された可能性を示すのだろう。
1950年代前半は、国内における度重なるフォトデッサン展に、フォトデッサン作品集の刊行、「トップス・イン・フォトグラフ」展(1953年、ニューヨーク)への出品や月刊誌『サロン・フォトグラフィ』(1956年、アメリカ)での紹介など、瑛九のフォトデッサンが、華々しく取り上げられた時期である(*9)。より優れた芸術表現を求めて、作品を土台に次の作品を生みだしながら邁進する作家の一面が、小さな型紙から見えてくる。
(あさのともこ)
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*6 『アサヒグラフ』1400号、
朝日新聞社、1951年6月、裏表紙 |
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*7 『きりん』4巻7号、
日本童詩研究会、1951年7月、裏表紙 |
*8 瑛九「フォト・デッサン」『アトリヱ』336号、アトリエ出版、1955年1月、75-78頁。
*9 「瑛九略年譜」『版画芸術』瑛九特集号、112号、阿部出版、2001年6月、78-79頁。
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