現代版画のパトロン久保貞次郎

1987年2月 綿貫不二夫
(「久保貞次郎・美術の世界 第5巻/日本の版画作家たち」月報に収録

 今から十年前の一九七三年の秋、私は井上房一郎さんに連れられて鎌倉の近代美術館に館長だった土方定一さんを訪ねていった。井上さんは群響の生みの親であり、美術・音楽・哲学など幅広いジャンルにわたる地方文化の強力なパトロンである。十五歳の時から、井上さんのもとへ出入りしていた私だが、わざわざ高崎から出てきていただき、人を紹介してもらうなど初めてのことだった。展覧会のオープニングだったと思うが、人びとのごったがえすなか井上さんは土方さんに私をひき会わせ、「私の後輩だが新しく版画の普及の事業をおこしたいと言っている。カになってほしい」と頼んでくださった。
すると土方さんは「おれは版画はだめだ、版画のことならクボテーがいい、クボテーのところへ行ってくれ」当時二十八歳、新聞社の販売局勤務という美術とは縁もゆかりもないところにいて、もちろん土方さんも初めてなら、クボテーなる人物が何者かさえわからない。
呆然としている私をおいて、土方さんは次の客と話すためにスタコラ行ってしまったのだった。

 東京へ帰って、クボテーなる人物が、市谷に住む久保貞次郎という美術評論家だと知った私は、早速電話をかけた。電話口の主は若々しい声で、「ボクがクボサダジローです。ボクがそちらへ行きましょう」と驚くほどアッサリと会うことを約束してくれ、翌日、竹橋の毎日新聞社受付に現われたのであった。
 私が新聞社の事業として全国の小・中学校にオリジナルな絵 ( 版画 ) を寄贈し、美術教育に役立ててもらい、それによって毎日新聞のイメージアップと、読者獲得を図りたいのだがと相談をもちかけるや、久保さんは言下に「そんなことはやめたほうがいいですよ、ボクは四十年間、あなたの言う版画の普及を続けてきましたが、全くむだでした。学校へ版画を贈るなんて、砂漠に水をまくようなものです。贈られた当初は話題にもなり、大切にされるかもしれないが、一年もしたらそれこそホコリだらけになるに決まっていますよ」思えばこの痛烈な一言によって、私はサラリーマン生活から途中下車して、場違いな美術の世界に飛び込んでしまったのだった。

 みずから砂漠に水をまき続けてきた久保さんの浴びせた断言は、若気の私を「むだかどうか、何なら琵琶湖からホースをひいてでも水をまき続けてみせようじゃないか」と逆上させ、ど素人の恐ろしさ、やがて現代版画センターの設立に向かわせたのだ。久保さんの永年の活動が水をまく人をつくり出すことに真意があるとすれば、私なども初めて会っただけですっかりオルグされてしまったわけだ。
 
 特に版画に関して久保さんは、作家、作品、流通など全てにかかわり、現代版画の隆盛を導いたパイロットとしては一番の功績者だろう。浮世絵版画の伝統がくずれ、明治末から興った創作版画運動も、やがて昭和戦前期には、そのエネルギーをすっかり失い、戦争によって終わりをつげたのだが、その流れに逆流する形で久保さんは、はじめ西洋版画の蒐集から入り、やがて北川民次や瑛九の支持者として、更には戦後の前衛美術運動の若い作家たちの援助者として、版画の発行 (エディション)をくわだてはじめる。ここが久保さんの並でないところだ。浮世絵版画の蔦屋重三郎、その再生をめざした新版画の渡辺庄三郎、創作版画運動を陰で支えた山口久吉、志茂太郎などと同じように、版元としての意識を明確にもち、作家を刺激し、版画の制作のためのあらゆる条件を組織し、整備することに久保さんは戦前から今日に至るまで変わらぬ情熱をそそいできた。
 今日でこそ「エディション」ということばは一般化しているが、例えば刷るといっても、製版の方法は未知、プレス機もなく、適当な紙もないといった時代に、それらを整備し、売れるあてもない版画を膨大につくり続け、ヨーロッパの近代絵画を演出したボラールやカーンワイラーの役割を、久保さんは今日までみずからに課してきたのではないだろうか。

 私は久保さんの偉大さは、この著作集〈「久保貞次郎・美術の世界」) の中に収められる多くの論文、作家論の中にもきっとあるだろうが、それよりも久保さんが、みずからその作家の可能性を見いだし、彼らに熱心に版画制作をすすめ、みずから版元になって、その制作資金を負担し、多くのエディションを生み出してきた中にあると思う。
 北川民次、瑛九、池田満寿夫、靉嘔、竹田鎮三郎、木村利三郎らの現代版画の歴史で無視することのできないこれらの作家にとって、久保さんは版画制作の名プロデューサーだと思う。なにしろ、久保さんのやり方は徹底している。例えばこの作家に版画をつくらせたいと思ったら、まずプレス機ほか一切を買いそろえて、作家のアトリエに送りつけてしまうのだから、そこまでされたら作家も、つくらないわけにはゆかない。

 久保さんが支持した ( 久保さんにとって支持するとは、すなわち言葉ではなく、その作家の創ったものを買うことを意味する) 作家たちを列挙すれば、戦後の現代版画の大きな潮流をほとんどおおってしまうだろう。
久保コレクションの数や思うべし----。
久保さんの中で、コレクションと、版元行為の喜びが幸福な一致をみているわけだ。
 そんな久保さんでも、悔いというのはあるらしい。
「ボクは、生前の恩地孝四郎には何度も会い、仕事も一緒にしかけ、エディションのチャンスもあったのに、ついにかれの才能を認めることができず、たった一枚も買わなかった---」と嘆いたりする。この場合「たった一点も買わなかった」と言うのは久保さんらしい言い方で、十点や二十点集めたところで「一点もありませんね---」ということになる。
 創作版画運動の巨星、というより、日本の抽象絵画の先駆者として、急速に評価されだした恩地孝四郎だが、その再評価のきっかけを作った『恩地孝四郎版画集』 ( 一九七五年 ) 刊行に、惜しみない助力を注いだのは、実は久保さんだった。悔いも、次の創造への糧とするーーやはりスケールが違うのだ。


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エスペランチスト、美術評論家、児童画教育運動のリーダー、跡見女子短大学長、町田市立国際版画美術館初代館長などを歴任して、日本の美術界に大きな足跡を残した久保貞次郎先生は、私たちにとって恩師である。
妻の令子は大学で久保先生に学び、親衛隊長を務めた。新聞社からいきなり美術の世界に飛び込んだ私は、文字通り美術のいろはから、特に版画については該博な知識をもとに一から教えていただいた。
久保先生は膨大な著作物を整理して、著作集「久保貞次郎・美術の世界」全12巻を刊行された。途中、版元が倒産するなどしたが、自ら版元となり、出版を続行した。
上記の拙文は著作集第5巻に挟み込まれた月報に掲載されたものである。このときは久保先生からびっくりするような高額な原稿料をいただいた。
その後、1996年10月31日、久保先生が87歳で亡くなると、追悼集の出版が計画され、私も編集委員のひとりとして参加した。翌1997年10月に『久保貞次郎を語る』が文化書房博文社から刊行され、上記拙文もそのまま再録させていただいた。
大学教授としての久保先生については、上記追悼文集に<久保先生の授業>と題して妻令子が同級生の聞き書きをしているので、そちらも「画廊主のエッセイ」に再録しましたのでお読みになってください。
久保先生が顧問をつとめてくれた「現代版画センター」は、1974年に創立されたが、私の不徳のいたすところで1985年2月に倒産した。
久保先生とともに私にとって恩人である井上房一郎さんについては、別のエッセイ「萩原朔太郎と井上房一郎」に書いたのでご参照ください。

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