2004年4月 綿貫不二夫
(『戦後日本美術の多様な断面ー椿会50年の歩みー』展図録より転載 2004年4月 資生堂ギャラリー)
「新生日本は自ら武力を抛棄して真に平和な文化国家として再興いたすことになりましたことは洵に欣快に存じます 弊社画廊も戦時中已むなく閉鎖いたしましたが幸い戦火をも免かれましたのでここに構想を新らたにして日本美術の顕現のため再開いたします」
空襲で廃虚と化した東京の復興もまだ進まぬ1947(昭和22)年5月、資生堂から関係者へ送られた「椿会第一回展」(会期=5月16日~27日、招待日は5月15日)の招待状は、前年11月に公布され、この展覧会の直前の5月3日から施行された新しい日本国憲法の条文を反映した資生堂ギャラリーの復活宣言であった。高揚した文面からはギャラリー再開にかけた、当時の宣伝文化部長白川忍(後に常務)の熱い意気込みが伝わってくる。白川はギャラリーが創設された1919(大正8)年に入店した生え抜きで、戦中戦後の苦境時にあってギャラリーの灯を守り抜いた。後にブレーンとなる今泉篤男とは肝胆相照らす仲であった。
ギャラリーを創設した初代社長福原信三はこのとき既に経営の一線から退き、長野県豊科に疎開したままだったが、前月4月に、再建された日本写真会の第一回理事会出席のため久し振りに上京し、後を継いだ松本昇第二代社長や白川らからギャラリー再開と椿会発足の報告を受けたであろう。
●ギャラリー創設者 福原信三
福原信三(以下、信三という)は若き日に画家を志し、資生堂を継いでからも写真家として活躍した。父有信から継いだ事業を個人商店から株式会社へと法人化し、薬品から化粧品への転換を押し進め、欧米留学の体験をもとに、商品の製造、販売、宣伝の各方面にわたり多彩な人材を集め、「リッチ」という言葉に象徴される資生堂スタイルの確立につとめた。規模は小さくてもよい、美しく高度な質をもった商品を作りたいというのが信三の一貫した考えで、留学時代の友人である画家の川島理一郎をブレーンにギャラリーを作ったのも、信三の経営哲学の中に企業と文化に対する確固とした理想があったからである。
わが国のギャラリーは1910(明治43)年の高村光太郎の琅干王洞を初めとして、資生堂に先駆けて大正年間にいくつか生まれるがほとんどが短命に終わる。また星製薬、日本楽器、鐘紡などの大企業が宣伝や社会貢献を目的にギャラリーを持つことも珍しいことではなかったが、いずれも関東大震災や戦争で閉鎖に追い込まれ、その後復活することはなかった。大正、昭和、平成の三代を生き抜いたギャラリーは資生堂ただ一つである。
●椿会展の原型 資生堂美術展
「椿会」という名称は大正時代に信三が制定した資生堂のシンボルマーク「花椿」に由来している。毎年5月、第一線の作家たちに新作の制作を依頼して展覧会を開くという椿会の形も、戦前の1928(昭和3)年から1931(昭和6)年まで6回開催された「資生堂美術展覧会」にその源を発している。
1923(大正12)年9月の関東大震災で資生堂は店鋪などほとんどを焼失し壊滅的な打撃を受けるが、直ちにバラックの仮設ギャラリーをつくり活動を継続する。5年後の1928(昭和3)年5月、ようやく再建された鉄筋コンクリート造・地下一階地上三階(一部四階建)の資生堂化粧品部は信三の夢の結晶であった。「新館ニ階に設けられたギャラリーは坪数約四十坪、採光と装飾に意を尽し、規模大ならざるも個展、若しくは小展覧会の会場として都下唯一のものたるを自負し(資生堂月報)」た豪華な空間は、1971(昭和46)年までの43年間、途中ニ度の中断はあるが多くの人々に親しまれた。その新装記念として開催されたのが「資生堂美術展覧会」である。
1928年5月21日~30日の会期で開催された「第一回資生堂美術展覧会」には、新作を依頼された石井柏亭、岡田三郎助、和田英作、金山平三、川島理一郎、梅原龍三郎、安井曽太郎、藤島武二、小林萬吾、小杉未醒、山本鼎、満谷國四郎、片多徳郎、田邊至、辻永、中澤弘光、長原孝太郎、永地秀太、山下新太郎、山本森之助、足立源一郎、南薫造、白瀧幾之助らが出品した。「ちよつと類例のない偉観で、(中略)社主福原氏の趣味と好意の結晶したもの(資生堂月報)」というメンバーは信三と親交のある帝展、二科会、春陽会、国画会など洋画壇の第一線作家たちだった。これらのうち、梅原、和田、金山、川島、安井らが戦後の椿会に参加している。
「だれかがどこかで『梅原氏には時間と費用を与へて思ふ存分の仕事をさすべきだ』といつたのを記憶するが、今度のは実にさうした立場に思ひ到ることのできる作品である(5月28日付東京朝日新聞)」と好意的な評がされたように、ギャラリーを通して企業が芸術家を支援するという信三の理想がこの展覧会に結実した。その精神は白川らを通じ資生堂のポリシーとして受け継がれ、作家に自由な制作を依頼し、出来上がった作品を無条件で資生堂が購入するという形となって戦後の「椿会展」「現代工藝展」に継承されていった。
信三は「資生堂美術展覧会」のような豪華な展覧会を主催する一方で、無名でも才能ある作家に発表の場を提供することをギャラリー運営の柱としたから、童画の武井武雄(1925年)、洋画の須田國太郎(1932年)、日本画の山本丘人(1932年)、バウハウス帰りのデザインの山脇道子(1933年)、陶芸の安原喜明(1934年)など新進作家たちが資生堂で初個展を開いた。また今和次郎・高村豊周らの装飾美術家協会(1920年)、山口蚊象らの創宇社建築会(1925年)、仲田定之助・中原実らの三科(1927年)、松本竣介・靉光らの新人画会(1944年)など、多彩なジャンルのグループが発表を行なっている。
●椿会の誕生
震災や昭和大恐慌という企業本体をも揺るがす未曾有の危機にあってもギャラリーの灯を消すことなく、建物建て直しのときでも半年以上ギャラリーを休止したことのなかった資生堂だが、戦争には抗えなかった。1944年(昭和19年)12月「独立美術協会油彩小品展」を最後にギャラリーは閉鎖される。戦況は悪化の一途を辿り展覧会どころではなかった。同時に化粧品製造という平和産業の宿命で、すべての宣伝活動が休止となり、信三が手塩にかけて育てた宣伝スタッフも勧奨退職、召集、徴用でほとんどが社を去り、残ったのは白川忍ら三人のみというありさまだった。
ギャラリー閉鎖から2年半、空襲での工場被爆、敗戦とその後の混乱、戦地から続々と復員して来る社員への対応、何より化粧品製造という本業の復興活動に追われ、綱渡りのような経営状態であった。
私は『資生堂ギャラリー75年史 1919~1994』の編輯に携わっていたとき関係者に聞き取り調査を行ない、当時の経理担当役員で日々の資金繰りに奔走していた森治樹(後に第五代社長、自ら絵も描いた)に「戦後の混乱期には物さえあればいくらでも売れたでしょうに、資生堂はなぜヤミをやらなかったのですか」と尋ねたことがある。森の答えは「ヤミをやるには現金が必要だ、やりたくても資生堂にはその現金がなかった」というものだった。資生堂が大躍進を遂げるのは昭和30年代に入ってからで、昭和20年代の資生堂はいつ潰れてもおかしくない苦境の連続で、ギャラリー再開の翌1948(昭和23)年1月には、物品税滞納により国税庁から工場と商標「花椿」の差し押さえを受ける始末だった。いったい白川らは画家への画料をどうやって工面していたのだろうか。ともあれ、社業の再建もままならないこの時期にギャラリーを再開し、「椿会展」を開催していった白川らの情熱には驚きを禁じえない。
その年の9月、信三は疎開先の信州から引き揚げ末弟の福原信義宅に落ち着く。一度だけ出社し自ら育てた旧意匠部員たちと昼食をともにした。病が進み既に失明していた信三は「椿会展」の会場を訪れることはなかった。
1948年11月4日、資生堂相談役・福原信三は弟の信義宅で親族に見守られながら65歳の生涯を閉じた。
資生堂ギャラリー主催「椿会展」は、その後も第二次、三次、四次、五次とメンバーをかえて組織され、今日に至っている。「日本美術の顕現のため」という草創の精神が脈々と受け継がれていることに、泉下の福原信三も本望だろう。
(わたぬき ふじお/ときの忘れもの)
(『戦後日本美術の多様な断面ー椿会50年の歩みー』展図録より転載 2004年4月 資生堂ギャラリー)
昨年2004年4月8日~15日の会期で開催された、銀座の資生堂ギャラリー「戦後日本美術の多様な断面ー椿会50年の歩みー」展の図録に執筆した私の原稿です。
他のエッセイ-『資生堂ギャラリー七十五年史』の編纂を終えて-に書いた通り、1990年から95年の足掛け六年にわたり、私は「資生堂ギャラリー史編纂室」という名刺を貰い、現存する日本最古の画廊史の調査編纂作業に没頭していた。
736頁の大著の大半は資生堂で開催された展覧会の詳細な記録で埋め尽くされている。地の文のほとんどは私が書いたのだが、おかげで社員の方なみに資生堂の歴史に詳しくなってしまった。
「椿会展」は資生堂ギャラリーの看板企画として、第一次から現在の第五次までメンバーをかえて続行してきた息の長い企画展である。「椿会メンバーの変遷に戦後日本美術の潮流のさまざまな断面を見てとることができ」、岡鹿之助から小野隆生まで、資生堂コレクションとして収蔵されている各時代の椿会出品作品を展示したのが、「戦後日本美術の多様な断面 椿会50年の歩み」展である。
その図録に、椿会展誕生の前夜ともいうべき戦前のギャラリーについて私が執筆し、和光大学の三上豊教授が「椿会と1947年当時の状況から」を執筆された。
さらに、美術ジャーナリストの名古屋覚氏が「私たちは今、ここに居る」と題して現在の第五次椿会前後について執筆された。
資生堂というのは、私もつきあってみてわかったことだが、一度決めたら少々のことでは揺るがないポリシーというか、バックボーンのしっかりした企業である。大恐慌のときでも、戦時中でもギャラリーの灯を点し続けたことひとつとってみても、文化支援、社会貢献の姿勢は中途半端ではない。
名門企業の不祥事の続く昨今、資生堂の歴史を振り返り、資生堂ギャラリーの変遷を書きながら、企業にも人格があり、それは長い間に歴代の経営者と従業員、そして顧客たちによってつくられていくのだと実感した次第です。