ジョナス・メカスと日和崎尊夫

版画掌誌第5号編集後記
2005年11月 綿貫不二夫

『版画掌誌ときの忘れもの』第5号所収 2005年11月 ときの忘れもの刊)


 1983年春、石田了一さんが刷った「KIKU」と「LOVE」6種1200枚あまりを抱え初めてニューヨークへ渡った。現代版画センターのアンディ・ウォーホル全国展のための数十頁もの契約書をウォーホルと交わし、版画にサインを貰って一段落したある晩、友人の木下哲夫さんの紹介でジョナス・メカスさんのアパートを訪ねた。
当時メカスさんは市から旧裁判所の建物の提供を受け、映画美術館の建設を進めていたが資金難で計画は立ち往生していた。木下さんは日本でも応援しようと、ちょうどウォーホルとの交渉で渡米する私にメッセージを託したのだった。版元の私にできるのは作家に版画をつくってもらい展覧会を組織し売ることである。
その年の秋、大韓航空の格安チケットでメカスさんを招いた。ホテル代を節約して世田谷や奈良の友人宅に泊めてもらい、版画7点を制作し(2、4頁参照、刷り=岡部徳三)、原美術館でジョナス・メカス映画美術館建設賛助「アメリカ現代版画と写真展-ジョナス・メカスと26人の仲間たち」展を開催した。

 この7点の版画が、その後メカスさんが精力的に発表することになる「フローズン・フィルム・フレームズ=静止した映画」制作のきっかけになった。
撮影した16mmフィルムから、数コマを抜き出し「版」にするというアイデアは、私たちがシルクスクリーン制作のために提案したのだが、スポンサー役の私が破産してしまったのでメカスさんは版画のかわりに写真の連作を次々とつくり出したというわけだ。
今回9年ぶりに来日し、映画『ウォルデン』からニューヨークに絞った写真30点をときの忘れものの個展で発表した。19世紀アメリカの思想家H.D.ソーローの著作『ウォルデン、または森の生活』からタイトルをとったこの映画は、1964年から68年に撮影され、日記的な記録映像を集成し、メカス独自の「日記映画」が実現された記念すべき最初の作品である。最初の版画以来20数年を経て、再び版画を手がけ、版画掌誌に初めての写真作品を提供して下さったことは望外の喜びである。
メカスさんの益々の健康と活躍を祈りたい。

  千の破片に砕けようとしていたわたしを抱きとめ
  新しい暮らしをあたえてくれた街
  わたしの正気を守ってくれた街、ニューヨーク
  30点の映像はわが街ニューヨークに捧げるラブ・レター
  愛しい街、ニューヨーク
  わたしは今よそにいる
  ほかにも愛しい街はいくつもある
  しかしニューヨークに寄せるこの愛は
  いつまでも変わることがないだろう

    「わが街ニューヨークに捧げるラブ・レター」(木下哲夫訳)

 今夏久しぶりに高知を訪れ、鬱蒼とした木々に埋もれた日和崎尊夫のアトリエで雅代夫人と語り合った。作家は私が美術界に入った1970年代、既に酒にまつわる数々の武勇伝に彩られたスターだった。小心者の私は敬して遠ざかり、現代版画センターのために珠玉の木口木版3点を制作してくれたにもかかわらず、一度として酒を酌み交わす機会を持たなかった。
あれは成田空港が開業して間もない頃、突然空港の公衆電話から電話がかかってきた。「日和崎です。これから出発します。」どきまぎしてろくに返事もできないまま電話は切れてしまった。シャイな風貌と、あのときの声を懐かしく思い出す。

 恩人Y氏のおかげで大切に保存されていた3点の木口木版画を20年ぶりに手にし、版画掌誌日和崎尊夫句集に挿入できたが、あんなに早く逝ってしまうとは・・・、悔いばかりが残る。



 第4号から4年もあいてしまった。同時代の優れた作家と、時の彼方に忘れ去られた作品を紹介するという志は今後も持続したい。購読者ならびに関係者各位に心からの謝意を表します。
2005年10月 綿貫不二夫

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