画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。

今純三とエッチング

綿貫不二夫 1995年3月
『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』に所収

 大正時代の資生堂意匠部(現宣伝部)には、矢部季、小村雪岱、川島理一郎、高木長葉、諏訪兼紀らの画家が在籍している。まだ宣伝やデザインのプロッフェッショナルが社会に誕生していなかった時代で、福原信三は才能ある画家を招くことによって、商品やパッケージのみならず、広告宣伝に資生堂独特のイメージを確立することに成功したのだった。
 意匠部の創設間もない1921(大正10)年、福原信三の正則中学時代の恩師小林萬吾の紹介で入ってきたのが、二十八歳の今純三だった。従って純三は意匠部管轄のギャラリー(陳列場)の最初期のスタッフの一人であったに違いないのだが、彼の資生堂における活動の記録は残念ながら不詳である。在籍期間は僅か数年で、関東大震災を機に退職、故郷青森県に帰り、そこで画家としての新たな出発をする。資生堂に今純三が再び登場するのは銅版画家としてであった。

 純三は、1893(明治26)年 3月 1日青森県弘前市に代々津軽藩の典医をつとめた家の三男に生まれた。叔父の裕は、医学博士、学士院会員であり、北海道大学第四代総長、青森県中央病院初代院長を歴任。五歳上の兄和次郎(*2005D)は早稲田大学の建築科教授。考現学(モデルノロジオ)の創始者としても有名であり、震災後はバラック装飾社を起こすなど銀座を舞台に活躍した。
 1906(明治39)年一家で上京した純三は独逸学協会中学校(現独協高校)に入学する。同じ時期恩地孝四郎も在学していた。過度の勉学等で神経衰弱になり中学を中退。画家を志し、父母や兄の反対を押し切り太平洋画会研究所に入り、満谷國四郎、中村不折の指導を受ける。黒田清輝、岡田三郎助らの葵橋洋画研究所にも学んだが、父が死ぬと自立を考え、1912年早稲田工手学校建築科(夜間)に入学した。学資を得るため小山内薫の「自由劇場」の舞台背景制作に従事したことから演劇の世界に入り、1914(大正 3)年早稲田を卒業後は、島村抱月、松井須磨子の「芸術座」に移り、舞台美術を担当した。画家としても第七回文展(1912年)、第一回帝展(1919年)に入選している。1920年小山内薫がいた松竹キネマに招かれ、蒲田撮影所美術部に入るが、翌年10月同社を辞して、資生堂意匠部に入ったのである。

 このようにして東京における前半生は華やかな色彩に包まれているが、震災を機に帰郷した純三は、生地弘前ではなく、青森市に住み、ただひとり石版画と銅版画の研究に着手する。北国の小都市で版画で生活できるはずもなく、印刷会社や、青森県師範学校、東奥日報社などに勤めながら「青森県画譜」「奥入瀬渓流」連作などを次々と粘り強く制作していった。こつこつと銅版画をつくり続ける純三にとって中央とのパイプは、資生堂で度々展覧会を主催していた西田武雄が発行する雑誌『エッチング』だった(コラム「西田武雄と室内社画堂」参照)。その西田を頼り、1939(昭和14)年 9月多くの弟子や教え子に見送られて再び上京したのが悲劇の始まりだった。翌年、西田主催の日本エッチング展(*4012C)の開催委員、出品作家として資生堂ギャラリーの階段を上った純三は、かつての上司福原信三と何を話したのだろうか。時代は戦時色に包まれ、西田の助手ではとても生活できず、医学書の挿絵などで糊口を凌ぐありさまだった。心身の酷使で病床に倒れ、1944(昭和19)年 9月28日せつ夫人の献身的な看病も空しく五十一歳の生涯を閉じた。遺骨を抱いて帰郷したせつ夫人を待っていたのは翌1945年 7月の青森市空襲だった。被災した夫人の遺体はいまだに発見されていない。

*2005D 「装飾美術家協会第二回作品発表会」1920年 5月11日~ 5月16日
       資生堂ギャラリー
*4012C 「第一回日本エッチング展覧会」1940年12月10日~12月13日
       資生堂ギャラリー
『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』
(富山秀男監修 1995年 3月 資生堂刊)に所収


 他のエッセイ-『資生堂ギャラリー七十五年史』の編纂を終えて-に書いた通り、1990年から95年の足掛け六年にわたり、私は「資生堂ギャラリー史編纂室」という名刺を貰い、現存する日本最古の画廊史の調査編纂作業に没頭していた。 736頁の大著の大半は資生堂で開催された展覧会の詳細な記録で埋め尽くされている。膨大な記録だけでは読む人も辛かろうと、49名の執筆者による 191本のコラムを掲載した。資生堂ギャラリー史に登場する有名無名の人々へのオマ-ジュである。私以外の48名は錚々たる第一線の研究者だが、「版画は綿貫が専門だから」と、恩地孝四郎、今純三、西田武雄らについては、編集者の分際で私が書かせていただいた。
 1970~80年代にかけて、私は創作版画の収集に夢中になって取り組んでいた。あるコレクタ-の依頼を受けて、手に入る作品を片っ端から買いまくったいたのである。今純三も多く扱ったが、彼が資生堂に勤めていたことは、資生堂ギャラリー史の編纂に携わるまで知らなかった。さらに兄の和次郎も資生堂に縁のあることが分かり、「銀座モダンと都市意匠 今和次郎、前田健二郎、山脇巖・道子、山口文象」という展覧会を企画し、藤森照信・植田実先生の監修で、資生堂ギャラリーで1993年 3月に開催した。展示作品の多くは工学院大学の今和次郎コレクションからであった。同大学には今和次郎の遺族から寄贈された和次郎・純三兄弟の貴重な作品、資料が大量に収蔵されていた。
 かつて今兄弟も足を運んだであろう資生堂パ-ラ-で盛大に開催された展覧会オ-プニングには、遠く青森から今純三の遺児やお孫さんがかけつけた。


今 純三 松尾鉱山製錬所 1938 
エッチング 20.8X49.4


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