画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。
綿貫不二夫 1995年 3月
『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』に所収。
1891(明治24)年7月2日東京に生まれた恩地孝四郎は、日本創作版画協会(1918年)、日本版画協会(1931年)、日本版画奉公会(1943年)の創立に参加、国画会版画部(*4411A)に属し、戦後の日本版画協会再建(1946年)にあたっても中心的な役割を果たした。まさに近代版画の歴史と共に歩んだといえるだろう。
1994(平成 6)年秋、恩地の本格的な回顧展が横浜美術館で開催されたが、初期から晩期にいたる版画作品をはじめ、本の装丁、オブジェ、写真作品などを網羅して、この画家の才能がいかに時代に先駆けていたかを改めて再認識させる好企画であった。田中恭吉、藤森静雄との同人誌『月映』の中のカンディンスキーの影響を受けて制作された、繊細でシャープな抽象作品は、創作版画のみならず日本における抽象表現の先駆として高く評価される。
「色と形を以つて、心を表現するのが、本来美術の純粋形態である筈だ。それが、美術は形を模さねばならぬものといつのまにか定められて了つてゐる。(中略)凡そ、知解にうつたへる芸術ほど下等なものはないのだ。すべての中間作品、通俗作品がそれである」(恩地孝四郎/版芸術1932年 4月創刊号)と鋭く指摘するように、恩地は版画とか油彩とかの表現手段を超えて明解に自己の目指すものをつかみ、またそれを様々な材料と技法を使い表現することができたのである。
山本鼎(*2312J)たちによって始まる創作版画運動は版画のオリジナリティを確立するために「版画は絵の複製であってはならない」という主張を実践しようとした。具体的にはその主張が「自画自刻自摺」という言葉に置き換えられ、やがてスローガン化する。本来は優れた版画表現を獲得するための方法論に過ぎなかった言葉がいつしか自己目的化し、結果として運動のエネルギーを矮小化させ、多くの場合創作そのものが袋小路に陥ってしまったことは否めない。
「夢二学校の出藍の生徒」だった恩地は、そのようなスローガン化したドグマからは全く自由であった。彼が十代で出会い決定的な影響を受けた竹久夢二(*3002G)は創作版画運動とは少しずれた地点で多くの版画作品を残したが、彼は創作のための作家の創意と、それを表現する技術の駆使において天才的であった。代表作に数えられる『婦人グラフ』の表紙などは、自摺どころか木版の機械印刷によって制作されている。「自画自刻自摺」などという念仏を飛び越えて真に「版の絵」の素晴らしさを獲得した先達であった。
夢二の影響もあったろうが、恩地はまた早くから萩原朔太郎『月に吠える』(感情詩社、1917)など本の装丁を手掛け、1929(昭和 4)年の『白秋全集』で装丁家としての地位を確立し、夥しい数の装丁を残した。1939年から毎月第一木曜に自宅で「一木会」という研究会を開く。この会は戦後まで続き、現代版画の開花へと橋渡しの役割を果たした。文字通り指導者として活躍した恩地は1955(昭和30)年 6月 3日死去した。
*4411A「国画会版画部秋季展」1944年11月1日~11月4日 資生堂ギャラリー
*2312J「版画展覧会」 1923年12月30日~12月31日 資生堂ギャラリー
*3002G「雛に寄する展覧会」1930年 2月21日~ 2月23日 資生堂ギャラリー
『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』
(富山秀男監修 1995年 3月 資生堂刊)に所収
他のエッセイ-『資生堂ギャラリー七十五年史』の編纂を終えて-に書いた通り、1990年から95年の足掛け六年にわたり、私は「資生堂ギャラリー史編纂室」という名刺を貰い、現存する日本最古の画廊史の調査編纂作業に没頭していた。 736頁の大著の大半は資生堂で開催された展覧会の詳細な記録で埋め尽くされている。膨大な記録だけでは読む人も辛かろうと、49名の執筆者による 191本のコラムを掲載した。資生堂ギャラリー史に登場する有名無名の人々へのオマ-ジュである。私以外の48名は錚々たる第一線の研究者だが、「版画は綿貫が専門だから」と、恩地、今純三、西田武雄らについては、編集者の分際で私が書かせていただいた。
恩地孝四郎に会ったことはない。しかしお嬢さんの恩地三保子さんにはとても可愛がっていただいた。1974年に現代版画センタ-を創立したころ、私たちの唯一の常設展示場となったのは飯田橋にあった「憂陀」という飲み屋だった。この飲み屋の壁面を使い、今思うと夢のような話だが、田中恭吉や恩地孝四郎の展覧会を開いたのである。作品をお借りするため三保子さんに手紙を出して初めてお会いしたのは、当時銀座の泰明小学校の前にあったリッカ-美術館だった。2階にあった喫茶店でご馳走になり、1階への螺旋階段をおりるとき、そっと私の腕に手を回し「若い人っていいわね」と、微笑まれたことがつい昨日のことのようである。
同じ頃、後に町田の国際版画美術館の初代館長を務めた、屈指の版画コレクター久保貞次郎のもとに私は毎週のように通っていた。久保は年少の私に戦前からの自身のコレクション購入の経緯や、有名な滝川太郎贋作事件などについて語り、「三千点位じゃあコレクションとはいえません」「身銭を切って贋作を買ったからこそ眼が鍛えられたんです」などと、商家出身らしい明解なコレクション学を伝授してくれた。久保が最も悔いていたのが「恩地孝四郎を一点も持っていない」ことだった。これは久保一流の言い方で、彼にとってのコレクションとはその作家の作品を根こそぎ収集することだったから、一点も無いはずの蔵の中から私は何点もの恩地作品をひっぱり出したのだった。惚れ込むとエッチングプレス機一式と大量の紙を作家のアトリエに送りつけ、ひたすら版画をつくらせ、それを全て買い取るというのが彼独特のコレクション術であった。
「ボクは若い頃から西洋カブレでしたから、木版なんて古くさいと認めなかったんです。だから恩地孝四郎がわからなかった」という通り、瑛九をはじめ戦後の創美運動の中で久保が支持した作家たちは、恩地が育てた日本版画協会の系統とは明らかに違っていたのである。
創作版画運動の初期において版画のオリジナリティを確立するために「絵の複製であってはならない」という主張が、自画自刻自摺という言葉に置き換えられ、やがてスローガン化し、逆に運動のエネルギーが矮小化してしまった。創作そのものが袋小路に陥ってしまったことを免れたのは恩地らごく少数の作家だけだった。
「夢二学校の出藍の生徒」だった恩地孝四郎の生涯の作品を見れば、彼がそのようなスローガン化した教条的な考え方から全く自由であったことは明らかである。
久保はそのことに気付き後悔を表明することに躊躇しなかった。北軽井沢の恩地三保子さんの別荘に初めてお連れしたのは私である。久保は恩地孝四郎の生前になしえなかったパトロネ-ジュを、当時三保子さんが心血を注いでいた父孝四郎の版画集への絶大な資金援助によって果たし、『恩地孝四郎版画集』は1975年形象社から刊行された。お二人をひきあわせることができたのは私の密かな誇りである。