画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。
綿貫不二夫 2002年2月
季刊美術誌『プリンツ21』2002年2月62号に所収
美術界に入ってそろそろ三十年になるが、十年周期で仕事は激変している。74年日本初の本格的な版画の版元・現代版画センターを創立、80作家七百点のエディションをつくったが、草間彌生の版画など全く売れなかった。83年にウォーホルの大規模な展覧会を企画したが、既にポップアートの神話的存在だったにも拘らず、銀座の画商、デパート、美術館ほとんどすべてに断られた。逆に闘志がわいてNYのスタジオへは桜と菊の花のポジフィルムや玉三郎、川端康成の写真を大量に持参した。ウォーホルは菊を選び「KIKU」連作が生まれた。渋谷パルコ、宇都宮大谷の地下空間、地方の画廊などで開催したウォーホル全国展は幸い大反響を呼んだが、時代が早すぎたのか、私の無能ゆえか現代版画センターは85年にあえなく倒産した。だから私はバブルには遭遇していない。
倒産の後始末が一段落した後は版画から離れ、青山の仕舞屋に編集事務所を開いた。国会図書館に通いつめて現存最古の画廊『資生堂ギャラリー七十五年史』(*1)の調査・編集に没入していた。ひたすら歴史の波間に消えていった作家たちの足跡を追い続けた。六年かけて95年に求龍堂から刊行されたのを機に、事務所を改装して夫婦ふたりで『ときの忘れもの』という小さな画廊を始めた。
二度目の倒産は御免だが、連戦連敗である。師匠の故久保貞次郎(町田市立国際版画美術館初代館長)は「支持することは作品を買ってやることだ」といっていたが、言葉の真の意味でのパトロン文化は日本には根付かないようだ。熱しやすく冷めやすい日本の金持ちは自国の文化資産の素晴らしさには気付かず、ブランド品に群がるように知名度と流行にのみ反応する。前衛をサポートするドン・キホーテには極端に冷淡である。誰かのお墨付きがないと博打は張らない。それじゃあまともなコレクションなんてできないよ、と叫んでもこの国では負け犬の遠吠えである。
敬愛する同時代の作家と、とき(歴史)の彼方に忘れ去られた作家を発掘し後世に伝えたいと、限定 135部のオリジナル版画入り美術誌『版画掌誌ときの忘れもの』(*2)を創刊したのは負け犬の意地である。1号/小野隆生・三上誠、2号/磯崎新・山名文夫、3号/草間彌生・リュバルスキー、4号/北郷悟・内間安瑆とやっと4号まで出した。40号まで出して死にたいが、それまで買い続けてくれるお客が何人残っているだろうか。
*1『資生堂ギャラリー七十五年史』富山秀男監修・1995年 3月・資生堂刊
*2『版画掌誌ときの忘れもの』は1999年 3月創刊
室伏哲郎氏が編集発行する季刊美術誌『プリンツ21』に依頼されて、今までの美術界渡世を振り返って執筆した(2002年 2月62号に所収)。
題名は安藤忠雄先生の著書から勝手にいただいた。