画廊主のエッセイ
このコ-ナ-では、画廊の亭主が新聞や雑誌などに依頼されて執筆したエッセイを再録します。
綿貫不二夫
11923(大正12)年9月の関東大震災は首都東京を壊滅させた。江戸の名残はもちろん、文明開化の煉瓦の銀座も殆どが焼失してしまった。その後の数年はいたるところで工事の槌音が高く響き、東京は大変貌をとげる。復興なった新しい東京の街を八人の版画家が描いたのが『新東京百景』である。木版のもつ柔らかな線と色彩によって1920年代の大都会の夜と昼の情景が、あるいは復興で整備された街並が情趣豊かに競作され、小品ながら近代の風景版画の傑作である。
1928(昭和3)年の秋に前川千帆(1888~1960)、藤森静雄(1891~1943)、恩地孝四郎(1891~1955)、逸見享(1895~1944)、平塚運一(1895~ )、川上澄生(1895~1972)、深沢索一(1896~1946)、諏訪兼紀(1897~1932)の卓上社を結成した八人がそれぞれの分担を決めて制作にかかった。
「新橋演舞場」「国会議事堂」「日比谷公園」「向島」「桜田門」「行幸道路」「江戸橋」「芝浦ハネ橋」「丸之内仲通」「浅草六区」「深川塵埃焼却場」「市政会館(市公会堂)」の十二点を制作したのが最年少の諏訪兼紀で、当時資生堂の意匠部に在籍するサラリマーンだった。浅草の繁華街をカップルで歩く蝶ネクタイにダブルの背広姿は銀座マンの自画像だろうか。
『新東京百景』は版元の中島重太郎により翌年から1932(昭和7)年の完成まで足掛け五年をかけて100点ちょうどが刊行されたが、諏訪は完成の年の4月29日盲腸炎の手術後の経過が悪く、あっけなく世を去った。急遽ギャラリーで遺作展が開催され、恩地孝四郎は「七年前、高貴多趣味を以て世の知る所なる資生堂の意匠部に入り、その修練と才能を揮つた。遺作展にみるその成果の片鱗をみても、君の誠実と精緻を覗ふことが出来る。(中略)遺作展初日の夜、追悼懇談会の資生堂によつて結ばれた席上、(中略)主人福原信三氏が、社員として以外に何か云ひしれぬ親しみを覚えると云はれたが、誠に君の温和な、圭角のないしかも誠実を湛えた其の人格を偲ばすものだつた」(アトリヱ1932年7月号)とその死を悼んだ。
諏訪は、1897(明治30)年鹿児島(東京ともいわれる)に生まれたが、早くに父と死別、神戸市灘で幼時から母一人子一人で暮らす。中学四年頃から版画を手掛け、1914(大正3)年上京して本郷洋画研究所で藤島武二の指導を受ける。1919年の創作版画協会第一回展を見て感激し版画家を志したという。翌年神戸の桜井如一を知りその「やまとことばをよみがえらせる」運動に共感、ローマ字文芸誌『YOMIGAERI』に木版によるカットなどを発表する。資生堂に入りデザインを担当するのは1925(大正14)年からだが、スマートで都会的なセンスが福原信三に愛された。日本写真会のマークも諏訪のデザインである。しかし、生涯独身だった諏訪には名を継ぐ人もなく、今ではその生地すら定かではない(3205D)。
「浅草六区」諏訪兼紀
1930年 25.3cm×17.6cm
*3205D 「故諏訪兼紀遺作展」1932年5月16日~5月18日
資生堂意匠部員であった諏訪の36歳の短い生涯を悼み、資生堂が急遽遺作展を開催した。木版画35点の他、意匠部員として制作した広告作品などを陳列した。同年の第二回日本版画協会展にも遺作が陳列された。
『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』(富山秀男監修 1995年 資生堂刊)に所収
昭和初期の復興する東京を描いた『新東京百景』は、日本の創作版画史上に残る名作版画集だが、刊行後70年を経て、完全なセットで残っているのは恐らく数部だろう。内1セットは東京都現代美術館が所蔵している。私は1970年代に、あるイギリス人コレクタ-の依頼を受けて、創作版画の収集に没頭していたことがある。この『新東京百景』も素晴らしいコンディションのものを完全な形で入手することができ、そのコレクタ-に納めた。いまはロンドンにある。
諏訪兼紀は私の大好きな作家だったが、後に資生堂ギャラリー史の編纂に携わることになり、諏訪が同社の社員だったことを知り、驚くとともに運命のようなものを感じた。いつか諏訪のきちんとした回顧展をやり、作品集をつくりたい。
他のエッセイ<『資生堂ギャラリー七十五年史』の編纂を終えて>に書いた通り、1990年から95年の足掛け六年にわたり、私は「資生堂ギャラリー史編纂室」という名刺を貰い、現存する日本最古の画廊史の調査編纂作業に没頭していた。 736頁の大著の大半は資生堂で開催された展覧会の詳細な記録で埋め尽くされている。膨大な記録だけでは読む人も辛かろうと、49名の執筆者による 191本のコラムを掲載した。資生堂ギャラリー史に登場する有名無名の人々へのオマ-ジュである。私以外の48名は錚々たる第一線の研究者だが、「版画は綿貫が専門だから」と、諏訪をはじめ、恩地孝四郎、今純三、西田武雄らについては、編集者の分際で私が書かせていただいた。