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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第1回 2020年06月14日
その1 『昭和二十年東京地図』と西井一夫のこと

文・写真 平嶋彰彦


 ポートフォリオ『東京ラビリンス』の初出は、『毎日グラフ』の「昭和二十年東京地図」。1985年10月27日号から1986年1月26日号までの12回連載で、その年の8月、同名のタイトルで書籍として筑摩書房から刊行された。書籍化にあたっては、相当数の撮り直しと追加取材をおこなっている。
 「昭和二十年東京地図」のタイトルは文を担当した西井一夫(註1)がつけた。昭和二十(1945)年は、日本が第二次世界大戦の終戦を迎えた年で、西井と私は、学年はちがうが、二人ともその翌年の1946年に生まれた。
 企画のきっかけとなったのは『コンサイス東京都35区区分地図帳』(日地出版)。戦災焼失区域を赤く色分けして表示した区分地図で、1946年9月15日に発行された。その地図帳が復刻されたことは『朝日ジャーナル』の読書欄で知った。発行日は1985年3月10日。東京大空襲からちょうど40年後にあたる。
 3月10日の大空襲で、下町を中心におよそ10万人もの一般人が命を奪われたことは、学校でも習った。しかし、この地図帳を見れば、下町ばかりではなく、都心のどこもかしこも焼け野原になっている。戦災を免れた地域はごくわずかでしかない。そんなひどい状態になるまで、どうして戦争を続けたのか。私たちはそのことの理不尽さにもっと驚いていいと思われた。
 この地図帳を手に入れてしばらくして、西井から飲みに誘われることがあった。何かの話題のついでに、バッグから取り出して見せると、思いのほか興味を示し、「連載企画を考えてみるから、しばらく時間をくれないか」という。それから2ヶ月ほどして、私の在籍する出版写真部にやってきて、「編集長の了解はもらった。デスクには君が担当してくれるように、これから話をつける」とのことだった。
 そんなことで、その年の9月ごろからだったか、地図を手に二人で東京を歩くことになった。取材期間は3ヶ月前後だったと思うが、ちょうど『サンデー毎日』で海野弘の「都市周遊」(註2)という連載を担当していた時期で、また事件があればそちらにも駆り出されたから、かなりあわただしい仕事だったという印象がある。その日に歩く道筋は、西井が決めていたが、おもしろそうな裏町や路地を見つけると、迷わず予定を変えることが少なくなかった。どこで何を撮るかも、ほとんどが出たとこ勝負の感じで、しかも放し飼い状態にさせていた。「あれこれ言うと嫌な顔をするし、言った通りに撮っても、それはそれで写真がつまらない」というのがその理由だった。彼と組んだ仕事は相当な数になるが、脚本はあってもなしがごとし、取材するにつれてテーマまで変わりかねないというのが、いつものパターンだった。

 この連載企画を取材するにあたって、西井からどんな説明があったか、ほとんど忘れてしまったが、ただ一つ、「逓信住宅」のような方向性で、と言っていたことはよく覚えている。
 国分寺のお鷹の道に湧き水があるが、逓信住宅というのは、その近くにあった郵政省の官舎である。そこを西井の企画で、「昭和二十年東京地図」の1年か2年前に取材したことがあった。周りにはケヤキ林もあって、平屋の二軒長屋が軒を連ねていた。一軒の間取りはたしか4畳半と6畳で、それに台所がついていた。1980年代にもかかわらず、住宅街の道路は舗装されていなかった。雨が降ると水たまりのできる泥道に沿って、生活用品の商店のほかに理髪店や共同浴場などもあった。見わたすと、再開発の計画が進んでいるらしく、歯が抜けたように更地があちこちに出来ていたが、それをこれ幸いとばかりに、残った住人たちが思い思いに野菜や草花を栽培していた。
 西井は『昭和二十年東京地図』の「あとがき」で、逓信住宅には彼の「小さい頃の記憶の光景」がそっくり残っていて、その佇まいの美しさに感動したと書いている。子どものころ、父親が余ほど好きだったのだろう。映画の録音技師をしていたという父親のことを屈託なく話すことがよくあった。反発の感情がほとんどないのが不思議なくらいだった。父親にとっても、自慢の息子だったにちがいない。逓信住宅の4畳半と6畳に台所という間取りは、田舎育ちの私には、いかにも狭いと感じられたが、彼はそれだけの広さがあれば充分だといっていた。おそらく、子どものころは借家住まいで、間取りも似たようなものだった。勝手な憶測をさせてもらえば、裕福な家ではなかったが、一人っ子であったこともあり、両親の愛情を独り占めに出来た幸せな少年時代を過ごしたのである。
 彼には涙もろい一面があった。いつだったか、取材帰りの電車で、ふと気がつくと、ぼろぼろ涙を流しながら文庫本を読んでいる。何を読んでいるのかと思ったら、山本周五郎のなんとかいう小説だった。こんなの電車で読んだら駄目だよ、と言っても、彼はハンカチで涙を拭いつつ、読むのを止めようとしなかった。二人で映画をみていてもそうだが、「小さい頃の記憶の光景」が目に浮かぶと、とたんに涙線が決壊してしまうようなところがあった。

 私が大学に入るため東京に出てきたのは1965年。前回の東京オリンピックの翌年になる。生まれたのは館山市のはずれで、農家といっても田畑はわずかしかなく、明治か大正のころから、代々出稼ぎで暮らしを立てるしかなかった。父親は東京港を仕事場にするダグボートの船長で、ふだんは乗組員と船上生活をしていた。休暇は2ヶ月か3ヶ月に一度まとめて取り、館山の実家で過ごしていた。ところが大学2年のとき、それ以外のたまの休みにも、陸(おか)で寝たいと父親が言い出した。
 文句の言える立場ではないから、それまで住んだ板橋の下宿を引き払い、金杉橋のすぐ近くにあった洋服の仕立店に間借りすることにした。金杉橋を流れる古川(渋谷川)の対岸の旧地名が芝新網町で、明治の三大貧民窟の一つであることは、ずいぶん後になってから知った。
 仕立店の主人は島根県益田市の出身で、一男四女の子沢山だったが、そのうちの二人は嫁いで家を出ていた。仕事場兼住宅の二階建ての建物は20坪ほどしかなかったが、戦後の一時期には、五人の子どものほかに、地方から上京した複数の若者を住まわせて世話をしていたという。私よりも一回りほど年上と思われるその若者たちが、ときどき訪ねてくることがあった。そんなとき、奥さんは決まったように彼らを引きとめて、ありあわせの総菜を分けて夕御飯をふるまった。
 これは郷里を離れて間もないころに垣間見た東京下町の人間模様であるが、この一家の暮らしぶりを見ていて、なにが人の幸せかを教えられたような気がした。世話になったのはわずか1年足らずに過ぎないが、社会人になって2年目の1970年、私はその家の一番下の娘と結婚することになり、店の主人と奥さんは義理の父親と母親ということになった。

 西井一夫は「小さい頃の記憶の光景」にこだわっていた。取り憑かれていた、と言ってもいいかも知れない。『昭和二十年東京地図』の取材で街を歩いていると、私たちはいつのまにか表通りを外れ、横丁から横丁へ、路地から路地をたどる迷走を繰り返した。ふりかえってみれば、西井の眼差しの先にあったのも、貧しいながらも互いに励ましあって生きる、こうした庶民社会の人間関係ではなかったかと想像される。

【註】
註1 西井一夫
編集者。1946年、東京都江戸川区小岩に生まれる。1968年、慶應大学経済学部卒業。弘文堂新社を経て、1969年、毎日新聞社に入社。『サンデー毎日』『カメラ毎日』『毎日グラフ』編集部を経て、『カメラ毎日』編集長、クロニクル編集部長を務める。2000年、『20世紀の記憶』全20巻の完結後、早期退職。2001年、食道癌で死去。
社外活動として、1989年に「写真の会」を設立する。また著書は正続『昭和二十年東京地図』(筑摩書房)のほか、『日付けのある写真論』(青弓社)、『写真というメディア』(冬樹社)、『暗闇のレッスン』(みすず書房)、『なぜ未だ「プロヴォーク」か』(青弓社)など。

註2 「都市周遊」
『光の街影の街 モダン建築の旅』のタイトルで、1987年に平凡社から刊行された。

【写真】
202006平嶋彰彦ph1-6V7A1211-bポートフォリオ「東京ラビリンス」01と同じ建物。賄いつきアパート「日本館」。新宿区高田馬場1丁目。2017年2月17日。

202006平嶋彰彦ph2-6V7A7162-b右は賃貸アパート「モリヤ荘」。左は「岩渕荘」。旧吉原遊郭。建物は双方とも1957年まで遊郭として使われた。台東区千束4丁目。2012年6月21日。

202006平嶋彰彦ph3-IMG_5895-b
おかず横丁の北側にある一画。正面を銅板で葺いた商店。一階が店舗で二階が住居。屋上にペントハウスを増築している。台東区鳥越1丁目。2012年1月25日。

202006平嶋彰彦ph4-6V7A7857-b同潤会「上野下アパートメント」。最後の同潤会アパート。1年後の2013年に取り壊された。すぐ目の前に落語長屋があった。台東区東上野5丁目。2012年6月29日。
ひらしま あきひこ

●新連載・平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。

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