平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき 第3回 2020年08月14日 |
その3 『宮本常一 写真・日記集成』――最後の暗室作業
文 平嶋彰彦 写真 宮本常一 『宮本常一 写真・日記集成』の上下巻に収録した写真は約3000カット。宮本常一の撮影ネガは約1700本。撮影年は1955年から1980年。フィルムはフルサイズが3分の1、ハーフサイズが3分の2という感じだろうか。所蔵する周防大島文化交流センターによると、総カット数は約10万とされる。その中から約5400カットを選んで、六つ切りサイズのプリントを2セットつくった。1セットはもちろん印刷用原稿であるが、1セットは周防大島文化交流センターへの寄贈するためだった。 写真選びは周防大島へ出向き伊藤幸司と2人で行った。プリント作業は、最初から私1人でこなすことにし、他人にまかせるつもりはなかった。 一番の理由は、編集経費を抑える必要があったからである。 専門のラボに外注することは予算的に問題外だった。といって、私の古巣だった出版写真部にも頼むわけにもいかなかった。社内制度がそうなっていなかった。仮に引き受けてくれたとしても、プリント代は予算の許容範囲を超えていた。しかし、私自身が処理すれば、印画紙代と薬品代の実費ですんだ。社内業務であるから、さすがに暗室の使用料を払えとまでは言わない。 編集経費だけでなく、印刷経費も圧縮しようと考えた。 そのため、写真集しかも豪華本の体裁であるにもかかわらず、1折(16ページ)か2折を除いて、色校はとらない方針だった。その前提として調子の揃った統一感のあるプリントが必要不可欠だった。しかもカット数は4桁と中途半端ではない。私自身で暗室作業をするのが、手っ取り早いだけでなく、安全かつ確実な方法だった。 西井一夫と2人で、『20世紀の記憶』(全20巻)の準備作業として、毎日新聞写真部のネガ倉庫を探索し、埋もれた写真資料を発掘したことがあった。そのときの経験から、1日平均50カットはプリント出来そうに思われた。実働日数を20日とすれば、1ヶ月に1000カットということになる。 事前に選んだのは4000カット前後だった。印画紙4枚で完成品2枚、つまり1カットにつき没プリント2枚という目安で予算を立てた。実際に作業を始めてみると、思ったほど無駄を出さなくてすんだ。そこで、その分だけプリントするカット数を増やし、最終的には約5400カットをプリントした。ネガは2回に分けて借り出したが、その間に予期しない空白期間が生じたりして、暗室作業を始めてから終わるまでに半年余りかかった。 1日の作業時間は、ほかに予定がなければ、朝9時半に出社して、夜8時には作業を打ち切った。それ以上やっても能率が悪くなり、翌日の作業に支障をきたした。朝はネガの見直しと準備、夜は後片づけとプリントの整理で、それぞれ1時間から1時間半を費やした。1日に暗室に籠れる時間は7時間半程度だった。昼食は時間が惜しいので、妻に弁当をつくってもらい、出版写真部のスタジオでとった。 引き伸ばし機はイルフォードのマルチグレード・システムで、現像機はやはりイルフォードの自動現像機。自動現像機の利点は、プリントが出力されるまでの間にもう1台の引き伸ばし機を使って、同時並行的に作業を進行させられることにあった。 テストプリントは本番と同じ六つ切りサイズ。結果がよければそのまま完成品にし、気に入らなければ、全体の露光時間の増減、焼き込みと覆い焼きの仕方、それぞれの場合の印画紙の号数の使い分けなどをテストプリントに書き込み、それを見ながら焼き直しをした。出力したプリントは1枚ごとに、明るいところへ持って出て、プリント見本と見比べた。これはあらかじめ印刷所と相談し、傾向の違うネガから引き伸ばして10枚ほど用意しておいた。展示用のプリントとしては、少しコントラストが足りない気もしたが、印刷用のプリントとしては、その方が画像調整しやすいというので、それにしたがった。 もう一つ、私が自分でプリントすることにこだわった理由がある。 宮本常一の写真をプリントした2003年には、報道メディアの撮影機材は、フィルムカメラからデジタルカメラにほとんど移行していた。そのため、白黒写真のプリント暗室は無用の長物となり、毎日新聞社でも4本社1支社の写真部に置かれた暗室はすべて撤去されてしまい、たった一つ出版写真部の暗室だけが残っていた。 東京本社のあるパレスサイドビルが竣工したのは1966年で、3年後に私は入社した。そのころ、プリント暗室は写真部(新聞部門)と出版写真部(雑誌・書籍部門)の2つに分かれていて、どちらも最新鋭の仕様になっていた。引き伸ばし機の主力はフォコマートで、壁の両側に何台も並んでいた。また、部屋の中央には、半切の印画紙が処理できる現像液と定着液のバットが1列に置かれていた。現像液は硬調と軟調の2種類があり、現像液も定着液も蛇口をひねるだけ、液温も自動的に調節される仕組みになっていた。 私が写真を覚えたのは白黒写真が全盛の時代だった。印画紙を現像液のバットに浸すと、わずか1分半か2分の間に、画像が浮かび上がってくる。まるで神仏の奇跡を目の当たりにするようなわくわくする興奮は、この年齢になっても忘れられない。出版写真部での仕事は白黒写真とカラー写真が半々だったが、私にとって写真と言えば白黒写真のことで、撮影もさることながら写真は暗室でつくるものだった。 暗室が必要でなくなれば、白黒写真のプリント技術者も必要でなくなる。中間管理職になり撮影をほとんどしなくなっても、出版写真部に在籍していた間は、毎日欠かさず暗室に入るように心がけた。撮影もプリントもスポーツと同じで、日ごろの訓練を怠ると、感覚が鈍り技術も衰える。白黒写真のプリント技術は、私にとってカメラマンとしての存在理由でもあった。宮本常一の写真5400カットをプリントする仕事は、カメラマン人生の最後として願ってもない檜舞台だった。 この六つ切りの印刷原稿をそのまま使って写真展を開催することが2回あった。 最初は『宮本常一 写真・日記集成』の刊行直後で、写真家の伊藤愼一から連絡があった。写真雑誌『グラフィカ』の創刊号で、宮本常一の写真を巻頭特集に組みたい、併せてギャラリー・ガレリアQ(新宿3丁目)で個展を開きたい、という。伊藤は毎日新聞写真部の後輩にあたり、「ガレリアQ」の中心メンバーで『グラフィカ』の編集人の1人だった。 雑誌に掲載した写真は約60カット、個展の点数はそれよりやや少なかったと思うが、どちらも写真選びと構成は伊藤愼一が行った。この個展では、額装して見せることにした。晴れの日のよそ行きの衣装という感じだろうか。 もう1回は、その年の「写真の会賞」をもらったときの記念展覧会で、フォトギャラリー・Place M(新宿1丁目)が会場だった。このときは200点余りを透明のビニール袋に入れ、それをピンで止め、壁面に隙間なく並べた。こちらの写真選びと構成は私が行い、ガレリアQでの展示との重複感を避けるため、印刷原稿の雰囲気を生かす方法を考えた。 『宮本常一 写真・日記集成』(上下巻別巻1)には附録があり、そこでは私の敬愛する写真家のと森山大道から、聞書きの形であるが、好意的な感想記事を寄せてもらっていた。そのおかげで、自分が的外れな企画に血道を上げているのではないか、という不安に悩まされることはなくなっていた。そして、予期もしなかったこの2つの写真展を開いてもらったとき、それまで自分がしてきたことを、自分でも少しは褒めてやっていいかも知れないと思えるようになった。 【写真】 香川県丸亀市本島笠島。草履の芯縄をなう。1957年8月31日。 山口県萩市見島。剣崎イカを干す。1960年8月3日。 佐賀県東松浦郡玄海町。農耕牛を連れた若い女性。1962年10月2日。 青森県むつ市大字田名部。恐山地蔵堂。死者の口寄せをするイタコとそれに聞き入る参詣客。1964月7月22日。 写真は『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(毎日新聞社、2009)からの転載。 (ひらしま あきひこ) ・ は毎月14日に更新します。 ■ 1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「 」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『』(池田信、2008)、『』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。 「平嶋彰彦のエッセイ」バックナンバー 平嶋彰彦のページへ |
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