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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第12回 2021年05月14日
その12 私の駒込名所図会(3)染井吉野と霜降・染井銀座(前編) 

文・写真 平嶋彰彦


 染井通りは、連載その10で書いたように、江戸時代につくられた由緒のある通りで、六義園の北側で本郷通りから分岐し、北西方向に真っすぐ伸びている。
 『江戸切絵図』「染井・王子・巣鴨辺絵図」とGoogle地図を重ね合わせると、染井通りの南側には、六義園すなわち大和郡山藩松平(柳沢)家の下屋敷に隣接して、伊勢津藩藤堂家の下屋敷があった。さらに進むと播磨林田藩建部家の下屋敷につきあたる。そこが現在の染井霊園である(ph1〜3、註1)。それにたいして、染井通りの北側はどうかというと、植木屋の店舗が軒をつらねていた。通りから奥へむかって、なだらかなくだり斜面がひろがり、植木屋たちはそこを開発して花園をつくり、浮世絵にも描かれたような江戸名所の1つに発展させていた。
 染井霊園をはじめて訪れたのは2012(平成24)年の暮れだった。園内には冬空を仰ぐように枯れ枝をのばすソメイヨシノ(染井吉野)の古木が立ちならんでいた。
 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。

 なんとなく梶井基次郎の『桜の樹の下には』の冒頭が思い浮かんだ(註2)。
 そういえば、西行にもサクラの花を死と結びつけた有名な歌がある(註3)。
  ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃
 染井霊園に咲くソメイヨシノを眺めてみたくなり、翌年の春にもう一度訪れることにした。出かけてみると、サクラは花の盛りだったが、死者たちに遠慮があるのかどうか、墓参りの人をのぞけば、一般の花見客は数えるほどしかいなかった。

ph1-6V7A0966-cph1 染井霊園。慈眼寺墓地(左)との境を谷戸川が流れていた。豊島区駒込5。2020.3.25

ph2-6V7A0938-cph2 染井霊園。慈眼寺墓地(正面奥)との境が谷戸川跡。2020.3.25

ph3-6V7A1852-fph3 染井霊園。車いすで花見に訪れた高齢の女性。2013.3.22

ph4-6V7A0944-bph4 染井霊園。高村光雲、光太郎・智恵子夫妻の墓

 全国各地の公園・街路・川堤・学校などに植えられている花樹の多くはサクラだが、サクラといっても、その筆頭はソメイヨシノである。ソメイヨシノの特徴は、接ぎ木で容易に増やすことができ、幼木のうちから花を咲かせることにある。それも葉の出る前にたくさんのみごとな花をいっせいに咲かせる。オオシマザクラとエドヒガンザクラの交配種だとされるが、自然によるものか人工によるものか、またその現場がどこかもはっきりしない。しかし、これを日本中にひろめたのは染井の植木屋の功績だということである(註4)。
 染井の植木屋たちがソメイヨシノを売りだし始めたのは幕末のころらしい。徳川幕府がたおれ、明治維新になると、新政府は近代国家に見合う社会的環境を全国に整備していった。そのときに、公共の場所にふさわしい花樹として選ばれたのがサクラだった。そのなかでもとりわけソメイヨシノが好まれ、それも1本とか2本ではなく、たいがいは相当数を集合させる形で植えられた(註5)。
 ソメイヨシノが出はじめたころの呼び名はヨシノ(吉野)だった。ヨシノは地名と同時にサクラの総称だった。奈良吉野はサクラの名所として知られる。古典文芸に出てくる吉野山のサクラはヤマザクラだそうである。ヨシノのままだと奈良吉野のサクラと紛らわしい。そこで、頭に産地のソメイ(染井)をかぶせ、ソメイヨシノと呼ぶことにしたのだという(註6)。
 駒込の染井はソメイヨシノの故郷である。電車に乗って駒込へやってくる人に、薦めてみたくなるサクラの名所はどこかとなると、染井霊園のほかに思いつかない。かつて植木屋が軒を連ねた染井通りにソメイヨシノの大木は見あたらない。江戸一番の植木屋とうたわれた伊藤伊兵衛政武の墓のある西福寺門前の染井よしの桜の里公園とか、染井坂通りの門と蔵のある広場の周りには、ソメイヨシノの大木がないことはないが、周りにならび立つビルの現代的な景観に埋没してしまっている。これはなんとなくさびしい気がする(ph6、7)。
 染井霊園は、東京の市街地の周縁につくられた共同墓地の1つである。1874(明治7)年、青山霊園(現港区)・雑司ヶ谷霊園(豊島区)・谷中霊園(台東区)とともに開設された。園内には二葉亭四迷・山田美妙・岡倉天心・高村光雲と高村光太郎智恵子夫妻などの墓がある(ph4、註7)。染井霊園の周りには慈眼寺・泰宗寺・専修院・蓮華寺・勝林寺・本妙寺などの寺院と境内墓地が建ちならび、一大埋葬地としての景観を呈している。いずれの寺院も染井霊園が開設されてから約30年後の明治時代の終わりごろに、東京の市街地から移転してきている(註8)。そのうちの泰宗寺・専修院の墓地およびその隣の天理教の墓地などがある場所は、植木屋伊藤伊兵衛の屋敷地だったところだともいわれている(ph5、註9)。

ph5-6V7A6609-bph5 専修院。植木屋伊藤伊兵衛の花園があったとされる。駒込7-2。2021.1.15

ph6-6V7A7108-bph6 西福寺。江戸一番の植木屋と評された伊藤伊兵衛政武の墓。駒込6-11。2021.3.16

ph7-6V7A7115-bph7 西福寺。三界萬霊塔。右は豊島区内最古とされる1655年造の六地蔵。2021.3.16

 「江戸切絵図」をみると、染井通りを遠巻きにするように、西から北へさらに東へと向かって、川が流れている。川の名前は書いていないが、川を挟んで右側には「此辺染井村植木屋多シ」とあり、左側には「此辺西箇原(西ヶ原)村」とある。
 これが谷戸川である。
 谷戸川ついて、『新編武蔵風土記稿』は「上駒込村」のなかで、源流は染井の長池から発していると書いている。(註10)。
 谷戸川 北境西ヶ原村の接地に流る、或は境川とも呼ふ。染井の内長池と云池より西ヶ原村へ沃(そそ)く。
 駒込は上駒込村と下駒込村に分かれていて、染井は上駒込村の枝村である。だが、染井だけではちょっとつかみどころがない。谷戸川の源流とその川筋については、『御府内備考』の「千駄木坂下町」に、より具体的な説明がなされている(註11)。
 一 堀 幅九尺程
 右は字谷戸川と唱澁江長伯様御預り、巣鴨御薬園ゟ出、田端村新堀村下駒込村と町内東の方谷中感応寺古門前町と当町の間を相流、谷中駒込の堺に御座候。
 一 石橋 長さ弐間、幅八尺
 右は谷戸川へ掛り候て合染橋と唱候者も有之由
 千駄木坂下町は現在の文京区千駄木2、3丁目のことである。千駄木坂は、団子坂の別名で、その坂下に開かれた町ということから千駄木坂下町と称した。そこを幅9尺(約2.7m)ほどの川が流れていて、合染橋という名の石橋が架かっていた。これが世にいう谷戸川で、その水源は巣鴨にある澁江長伯預りの御薬園である、というのである(註12)。
 そうすると、『風土記稿』のいう染井の長池は、『御府内備考』のいう巣鴨御薬園のなかにあったようにみられる。では、それは現在のどこらへんにあたるのだろうか。
 『江戸切絵図』で谷戸川の上流方向をたどってみると、建部家の下屋敷(染井霊園)の西側をさかのぼったその先で、藤堂家の下屋敷と巣鴨御薬園の境にたどりつく。どちらも武家地である。屋敷内のようすを知りたくとも、邸主の名前のほかはなにも書いてない。しかしながら、それより先に川らしきものは見あたらない。だとすれば、このなかに水源があったと考えてよさそうである。
 『御府内備考』のいう御薬園があったのは、現在の中央卸売市場豊島市場のあたりとされている(註13)。これと隣接するのが藤堂家の下屋敷だが、その西側の端が薬園との境で、現在の岩崎弥太郎墓地のあたりとみられる。したがって『風土記稿』と『御府内備考』の記述を『江戸切絵図』に照らし合わせると、中央卸売市場豊島市場と岩崎家の墓地があるあたり、すなわち、染井霊園の南側かその周辺のどこかにあった、という推定が成り立つ。
 ところが、長池があった場所は、染井霊園の南側ではなく、北側であったともいわれている。たとえば、江戸・東京の歴史研究で知られる鈴木理生は「現在の豊島区巣鴨五丁目(駒込5丁目の誤り)の染井霊園の北側にあった長池を水源とし」と『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』に書いている(註14)。
 また文京区教育委員会は藍染川と枇杷橋(合染橋)の現地案内板で、「長池(現在の都営染井霊園の北側低地)」としている。あるいは、豊島区HPの「桜・ツツジの花香る町散策コース(駒込方面)」には、「(染井霊園は)元は建部内匠頭下屋敷跡で、西側には谷戸川源泉の長池があったそうです」とある。
 どれも専門家の記述だから、それなりの根拠があるにちがいなく、無視できないのだが、筆者の力不足もあり、該当する史料を見つけだせないままでいる。

ph8-6V7A7129-bph8 染井坂通りの露地。川添登の育ったあたり。駒込6-11。2021.3.16

ph9-6V7A7135-bph9 染井坂通り。手前を右折すると妙義坂通り。駒込6(左)、3(右)。2021.3.16

ph10-6V7A7144-bph10 染井坂通りの坂下。左右が染井銀座(谷戸川跡)。駒込6(右)、3(左)。2021.3.16

 それはさておき、川添登は『東京の原風景』のなかで、「オタマジャクシといえば、なんといっても染井通りにいまもある天理教の教会の庭の池であった」という少年時代の思い出に続けて、この長池について、次のように回想している。
 染井の墓地にいくと、コジュケイが行列をつくって歩いていた。墓地のはずれには池があり、終戦直後までは釣り堀として残っていた。これがかつての谷戸川の水源地、長池だったのではないだろうか。
 染井霊園を見わたすと、東側は台地の上で、西側は台地の下という地形である。それにたいして、染井霊園の西側にも、向かい合うように、やはり台地がある。つまり、霊園の西側の端は、2つの台地から斜面が落ちこむ谷間の底、いわゆる谷戸の地形になっていて、それが南北を線状に貫いているのである。したがって、川添登の引用文にある「墓地のはずれ」とは、そのどちらかの端ということになる。
 染井通りからの染井霊園の入口は、方角的には霊園の北東の外れになる。園内を西側にまっすぐ歩いて、斜面を下りきったその向かいが、慈眼寺とその境内墓地である。ここが「墓地のはずれ」の候補地の1つになる。鈴木理生や文京区あるいは豊島区のいう染井霊園の北側とは、このあたりをさすものとみられる。
 染井霊園と慈眼寺墓地の境は、駒込5丁目と巣鴨5丁目の境でもあり、それに沿って人と自転車だけが通れる生活道路がつくられている。慈眼寺の墓地は、南北に細長い短冊形になっていて、道路を南に向かって歩いていくと、墓地がつきたところで、中央卸売市場豊島市場の塀が右側にあらわれる。それにたいして、左側は染井霊園の南側の端にあたるところで、谷戸のつきあたりといった感じの窪地になっている。
 「墓地のはずれ」に該当するもう1つの候補地は、おそらくこのあたりのことだと思われる。終戦直後までそこに残っていた釣り堀が長池ではなかったか、と川添登は推測しているが、この場所は『江戸切絵図』に描かれた谷戸川の川筋ともおおむね合致する。もしそうだったとすれば、暗渠化するまでの谷戸川は、染井霊園と慈眼寺墓地の境になっている生活道路に沿って流れていた可能性が高いと考えられる。

(以上、前半)

(註1) 『江戸切絵図』「染井王子巣鴨辺絵図」。この絵図は国会図書館デジタルコレクションで公開されている。
(註2) 『桜の樹の下には』(梶井基次郎、『梶井基次郎全集』所収、筑摩書房、1966)。
(註3) 『山家集』「上巻・春」(岩波古典文学大系)。「きさらぎの望月」(旧暦2月15日)は、お釈迦さまの命日。花はサクラで、ヤマザクラ。
(註4) 『豊島区史 通史編2』「第四章 園芸農業の展開」(1983)。『東京の原風景』「二 庭園モザイク都市」(川添登、ちくま文庫、1993)
(註5) 『東京の原風景』同上
(註6) 『東京の原風景』同上
(註7) 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(平凡社)
(註8) 『豊島区史 通史編2』「第五章 教育と宗教」
(註9)  同上
(註10) 『新編武蔵風土記稿 第一巻』「巻十九 豊島郡之十一岩淵領 上駒込村」
(註11) 『大日本地誌体系A 御府内備考 第二巻』「巻之三十八 駒込三」(雄山閣、2000)
(註12) 合染橋は、千駄木坂下町(文京区千駄木2丁目もしくは3丁目)と、谷中感応寺古門前町(谷中7丁目)ではなく、谷中三埼町(台東区谷中2丁目もしくは3丁目)の間に架かっていた。
(註13) 「このあたりは、(中略)寛政10年(1798)頃に幕府に仕えた渋江長伯が管理する巣鴨薬園となった場所である。(中略)明治維新後、巣鴨薬園は廃止されてしばらくの間私有地になっていたが、昭和12年(1937)3月、東京市中央卸売市場豊島分場が開発され、その後東京都中央卸売市場豊島市場となり現在にいたっている」(平成14年3月 東京都豊島区教育委員会)

 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。今回は特別に前編・後編と2部に分けて駒込をご紹介します。後編は5月17日に掲載します。
3月14日ブログ:私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(前編)
3月18日ブログ:私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(後編)
4月14日ブログ:私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(前編)
4月19日ブログ:私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(後編) 

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

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