平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき 第16回 2021年09月14日 |
その16 第2回目ワクチン接種の一日(前編)
文・写真 平嶋彰彦 新型コロナの第1回目ワクチン接種のことはで書いた。第2回目は7月23日だった。場所は同じ大手町の合同庁舎。炎天下に街中をうろつくのもどうかと思ったが、まっすぐ帰るのもなんとなくもったいない気がした。地下鉄東西線の途中に市川市行徳がある。会社員時代に40年以上も通った路線だが、この町をゆっくり歩いたことがない。 1992(平成4)年になるが、松尾芭蕉が『鹿島紀行』で歩いた軌跡をたどるという雑誌企画があり、行徳を訪れたことがあるのだが、江戸川河畔の常夜灯のほかはなにも覚えていない。『鹿島紀行』は目を通していたと思うが、なにも覚えていないのは、下調べもろくにしないで、編集者にいわれるまま、写真を撮っていたからに違いない。あるいは、1泊2日の取材日程だったから、時間に追われて余裕がなかったのかもしれない(註1)。 インターネットで検索すると、市川市公式Webサイトに「行徳・南行徳界隈」のページがあり、案内の記事と地図を載せている。行徳の今と昔をていねいに紹介していて、とりわけ「文化の街かど回遊マップ 行徳・妙典地区」は一目瞭然でわかりやすい(註2)。 それによると、東西線の妙典駅東口から寺町通りに出て、北西方向に400メートルほど歩くと、江戸川(旧江戸川)に突き当たる。その手前を江戸川と併行して南西から北東に通じる道路が行徳街道である。歴史的な街並みの中心はこの街道に沿った一帯で、寺町通りとの丁字路から南西方向に400メートルほど歩いた川沿い公園には、かつての繁栄を象徴する石造りの常夜灯が残されている。 脇道に逸れても、往復2キロ前後。写真を撮りながらだと、所要時間はおよそ2時間ということになる。自宅から最寄りのJR津田沼駅までは約2キロだが、雨でなければたいていは歩く。ワクチン接種直後ではあるが、無難な街歩きの行程ではないかと思われた。 ph1 ワクチン大規模接種会場の大手町合同庁舎。千代田区大手町1-3-3。2021.07.23 ph2 大手濠。中世までの日比谷入江最奥部。近くに将門塚。千代田1-1。2021.07.23 行徳には本塩・塩焼・塩浜などの地名が残っている。東京メトロ東西線やJR京葉線、あるいは東関東自動車道から目に入るのは、大小の工場が立込んだ埋立地特有の沈んだ風景ばかりだが、かつてこのあたりは干潟の海岸線がどこまでも続き、潮の干満を利用した塩田が開かれていた。 多少の知識はないわけでもなかったが、改めて調べてみると、1590(天正18)年、徳川家康が江戸城に入ると、直ちに着手したのが小名木川の開削で、家中を総動員させた1年越しの突貫工事でこの人工河川を完成させたということである。目的は行徳の塩を江戸に運ぶことにあった。その当時、行徳のあたりは関東一の製塩地帯で、塩は生活必需品であると同時に軍事的な戦略物資でもあったからである。(註3)。 先に述べたように、芭蕉の紀行文集に『鹿島紀行』がある。1687(貞享4)年、茨城県鹿島市への月見の旅を記した俳句と散文からなる短編であるが、そのなかに行徳の地名が出てくる(註4)。 このあきかしまの山の月見んと、おもいたつ事あり。(中略)門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。(中略)日既に暮れかゝるほどに、利根川のほとり、ふさという所につく。 「かしま」(鹿島)には、臨済宗妙心寺派の根本寺があった。この寺院の21世住職を仏頂和尚という。そのころは住職を退き、根本寺の近辺に隠居していた。芭蕉は月見の風雅を表向きの理由に、その居所を訪ねたのである。勝手な憶測だが、月は天空の月であると同時に、仏頂その人の象徴的な表現ではなかったかと思われる。旅の同行者は浪人姿の曽良と墨染の衣の宗波の2人。芭蕉は自分自身については、つぎのように書いている。 いまひとりは僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠のあいだに名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく 自分は僧に似せた身なりをしているが、僧侶でもなければ市井の人というわけでもない。いわば、鳥と鼠の中間の蝙蝠のような存在だといっている。「とりなきしま」は「鳥なき里の蝙蝠」のもじりで、「しま」は鹿島。鳥は本物の僧侶で、蝙蝠は偽物の僧。鼠は市井の人。本物の優れた僧侶は鹿島にいない。それをいいことに、偽物の僧である自分が出かけて、我が物顔に幅を利かせよう。という逆説的な言い回しである。ここでいう鳥とは、文脈から考えれば、鹿島根本寺の前住職であった仏頂和尚のことにほかならない。 鳥類は、わが国の古くからの信仰では、この世とあの世を媒介する存在とみられた。神仏の意思を伝える聖なる使者ということである。神仏の託宣の多くは夜間で、多くの場合、夢の形をもって顕現した。 それにたいして、鼠には夜行性の動物で、ひそかに悪をなすものとか、つまらない者という意味があるらしい。蝙蝠は鳥の仲間だが、鼠と同じように、夜行性である。鳥類は夜になれば眠る。神仏の夢を見るためである。蝙蝠は夜になると目を覚まし、月見に興じる。月見の風雅とは、鳥でも鼠でもない蝙蝠が隠れてする仏道修業の真似事ということになる。 仏頂和尚は、『鹿島紀行』には言及がないが、鹿島神宮に不当な形で寺領を奪われたとして訴訟を起こした。1674(延宝2)年から9年にわたり争った結果、ついに勝訴して寺領を回復した。地方裁判所などなかった時代だから、吟味(審理)は江戸の奉行所で行われた。したがって、その度ごとに、鹿島から出府しなければならなかった。つまり、仏の道にありながら、寺領回復の俗事に、かまけざるをえなかった。そのさいに、身を寄せたのが、深川の臨川庵(後の臨川寺、江東区清澄3-4-6)だった。芭蕉は、1680(延宝8)年、この仏頂と出会い、師弟以上の親交を結んだ。芭蕉が桃青と名乗ったのも、仏頂による命名だともいわれている(註5)。 ph3 商店だったと思われる瓦葺の建物。市川市妙典3-12。2021.07.23 ph4 看板建築の商店。店は閉じている。妙典3-3-1。2021.07.23 ph5 寺町通り。徳願寺(浄土宗)。鐘楼。本行徳5-22。2021.07.23 ph6 寺町通り。徳願寺。山門に祀られた大黒像。本行徳5-22。2021.07.23 (註1)『毎日グラフ別冊 松尾芭蕉 詩と風雅』「鹿島の山の月見んと 「鹿島紀行」の旅」(毎日新聞社、1993)。編集・取材は西山正。会社員時代、一番多く仕事をした尊敬すべき相方である。 (註2)「行徳・南行徳界隈」() (註3)『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「第五章 利根川東遷物語」(鈴木理生編著、柏書房) (註4)『芭蕉文集』「鹿島紀行」(『日本古典文学大系46』、岩波書店) (註5)『江東区の民俗(深川編)』(2002)。『日本古典文学大系』「鹿島紀行」校注。 (ひらしま あきひこ) ・ は毎月14日に更新します。今回は特別に前編・後編と2部に分けてご紹介します。後編は10月17日に掲載します。 ■ 1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「 」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『』(池田信、2008)、『』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。 2020年11月ときの忘れもので「」を開催。 「平嶋彰彦のエッセイ」バックナンバー 平嶋彰彦のページへ |
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