平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき 第16回 2021年10月14日 |
その16 第2回目ワクチン接種の一日(後編)
文・写真 平嶋彰彦 「門よりふねにのりて」とあるが、門とは芭蕉庵の門こと。深川の芭蕉庵は、芭蕉が1680(延宝8)年に日本橋小田原町から移り住み、1691(元禄七)年に大阪で客死するまで仮寓した住まいで、現在の芭蕉稲荷神社(江東区常盤1-3)のあたりにあったとされる。 『江戸切絵図』「本所深川絵図」をみると、隅田川から分岐し、西から東へ向かってまっすぐ延びる水路がある。これが小名木川で、行徳の塩を江戸に運ぶ水路である。その西端に架かるのが「万年ハシ」(万年橋)。この橋の北側に「松平遠江守」の下屋敷があり、「芭蕉庵の古跡庭中ニ有」と記されている。 芭蕉庵の東側をみると、やはり水路になっていて、こちらは六間堀と呼ばれ、竪川と小名木川を南北に結んでいた。門は六間堀に沿ってあったらしく、芭蕉一行は、そこから舟に乗り、小名木川に出たところで、方向を南から東へ転じ、行徳方面に向かった。(註6) 行徳までの航路は『鹿島紀行』に記されていないが、小名木川を4.6キロ航行すると中川に出る。それより新川に入り、これを3.7キロ進むと、こんどは江戸川に行き会う。それより3キロ余りさかのぼり、本行徳の河岸に至ったものと思われる。新川というのは、徳川家康が行徳の塩を運ぶため、小名木川と同時並行して開削させた水路である。 もう1つ、家康が同時期に開削を命じた水路がある。それが道三堀で、江戸城和田倉門(皇居外苑1-1)のそばにあった辰口と日本橋川の一石橋付近を結んでいた。1909(明治42)年に埋め立てられ、現存しないが、この水路の目的は江戸城建設の物資補給にあった。行徳の塩も、道三堀から江戸城内へ供給されたものとみられる(註7)。 芭蕉は行徳よりは陸路で、「やはた」(市川市八幡)・「かまがいの原」(鎌ケ谷市)というから、現在の県道59号市川印西線、木下(きおろし)街道を歩き、深川を出発したその日の夕刻に、利根川のほとり「ふさ」(我孫子市布佐)に着いた。「なまぐさし」漁師の宿でいったん休憩したあと、夜舟をさして利根川を下り、鹿島に到った。ということは、仏頂和尚が寺領回復の訴訟で、江戸の奉行所に通った100キロ前後の道筋を逆方向に、片道1泊2日、しかも舟中仮泊の強行軍でたどったことになる。 布佐の利根川を隔てた対岸が布川(茨城県利根町)である。その河畔で少年時代の柳田國男が間引き絵馬をみたことは、で書いた。布佐は手賀沼が利根川に流れこむ北側に開かれた町で、それにたいして、南側に開かれたのが木下である。どちらの町も明治時代に成田線ができるまで、銚子など利根川下流域や常陸方面からの物資を江戸に運ぶ中継点として発達してきた。布川からは、松戸街道を陸路で松戸に出て、それより江戸川を下って行徳に着いた。木下からは、先に述べたように、木下街道を経由して、やはり行徳に着いた(註8)。 ところで、鹿島に到着したその日は、あいにく昼間から本格的な雨で、月見どころではなかった。だが、翌日のあかつき、すっかり寝入っているところを、仏頂和尚に起こされた。思いがけないことに、雲の間から月が姿を現したのである。 そのときに芭蕉の詠んだ2句。 月はやし梢は雨を持ちながら 寺に寝てまこと顔なる月見かな 「梢は雨を持ちながら」と「寺に寝てまこと顔なる」の言い回しは、非僧非俗の蝙蝠のような存在である芭蕉自身の心象風景であったかもしれない。 ph7 行徳街道。塩問屋だったという加藤家の主屋。本行徳6-1。2021.07.23 ph8 行徳街道。瓦葺平屋の家屋。松を植えている。本行徳18-7。2021.07.23 ph9 行徳街道。藤井畳店。関ヶ島5-2。2021.07.23 ph10 江戸川河畔の常夜灯。1812(文化9)年の建立。関ヶ島1-9。2021.07.23 2回目のワクチン接種を受けた日は、太陽が容赦なく照りつける猛暑だった。接種会場の大手町合同庁舎は皇居大手濠のすぐ傍にある。お濠を見わたすと水草がはびこり、暑さのせいだと思うが、枯れるか腐るかして褐色になっていた(ph1、ph2)。 このあたりは、でも書いたが、太田道灌が江戸城を築いたころは、日比谷入江の最奥部だったところで、神田川の前身である平川の河口があった。合同庁舎から二重橋方向へ400メートルほど歩くと和田倉門がある。その傍から日本橋川との間に道三堀が通じていた。それより先には、塩の道とも呼ぶべき水路が開かれていて、行徳は江戸城と繋がっていたのである。 東西線の妙典駅で途中下車し、市川市の「回遊マップ」を片手に、寺町通りから行徳通りに出て、常夜灯の付近まで歩いた(ph3〜ph10)。 常夜灯は1812(文化9年)に、江戸日本橋の成田山参詣の講中が建立したものである。行徳と江戸(日本橋小網町)とを往還する舟便の営業を始めたのは1632(寛永9)年である。その後、この航路は房総や常陸からの物資運搬のみならず、成田山や鹿島神宮・香取神宮などの参詣路に利用されたということである。したがって、常夜灯は芭蕉の『鹿島紀行』のころにはなかったわけだが、河岸場の位置についても、1690(元禄3)年までは、現在常夜灯のある場所よりも、もうすこし上流にあったということである(註9)。 行徳道に併行して権現道がある。徳川家康が東金の鷹狩に赴くときに通った道で、行徳らしい町並みが今でも残っているという(註10)。この道を歩いて妙典駅へは戻るつもりだったが、本八幡行きのバスがやってくるのが見えた。これだと遠回りになるのだが、思わず飛び乗ってしまった。どうしてかというと、すっかり身体がまいってしまい、それ以上は歩く気にならなかったのである。 その日は暑さのせいだと思って、早めに寝ることにしたのだが、翌朝になってもすっきりしない。それどころか、倦怠感はますます酷くなり、なにもかも投げ出したくなった。そこでようやく、心身の不調がワクチンの副反応であることに気づいた。 【註】 (註6) 芭蕉稲荷掲示板(江東区)。『日本歴史地名大系13 東京都の地名』。『江戸切絵図』「本所深川絵図」(尾張屋版、嘉永5・1852年)。 - 国立国会図書館デジタルコレクション (註7) 『江戸川区』HP「新川千本桜」。『千葉県の歴史散歩』「葛飾早稲」(山川出版社)。『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「第五章 利根川東遷物語」(鈴木理生編著、柏書房)。『日本歴史地名大系13 東京都の地名』。 (註8) 『日本歴史地名大系12 千葉県の地名』。 (註9) 『日本歴史地名大系12 千葉県の地名』。「行徳・南行徳界隈」() (註10) 『新訂 江戸名所図会6』「巻之七 塩浜」(ちくま学芸文庫)に以下の記述。「天正十八年(一五九〇)関東御入国の後、南総東金へ御狩猟の頃、この塩浜を見そなはせられ、船橋御殿へ塩焼きの賤の男を召し、製作のことを具さに聞こし召され、御感悦のあまり御金若干を賜り、なほ末永く塩竃の煙絶えず営みて、天が下の宝とすべき欽命あり」 (ひらしま あきひこ) ・ は毎月14日に更新します。今回は特別に前編・後編と2部に分けてご紹介します。は9月17日に掲載しました。 ■ 1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「 」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『』(池田信、2008)、『』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。 2020年11月ときの忘れもので「」を開催。 「平嶋彰彦のエッセイ」バックナンバー 平嶋彰彦のページへ |
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