平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき 第17回 2021年12月14日 |
その17 サトイモの花(後編)
文・写真 平嶋彰彦 サトイモの花をきっかけに読み直したもう一冊が、坪井洋文の『イモと日本人—民俗文化論の課題』である。ここでいうイモとはサトイモのことである。日本の正月を祝う儀礼食がどのように変遷したかをたどり、イネの文化とは別に、イモに象徴される畑作の文化ともいうべき価値体系があることを立証しようとした異色の論考として知られる。そのなかに次のような思いがけない記述があるのをみつけた(註8)。 千葉県安房郡冨崎村では、不幸のあった年には里芋だけは種子を切るといって、自分の家の里芋はすべて他家へ貰ってもらい、種子を絶やしてしまってから他から貰って植えるといっている。 この民俗事例を分析して、坪井洋文は「里芋に対してある種の霊的感覚とでもいうべき霊質の存在を認めた一つの証拠となるだろう」と論じている。思いがけない記述というのは、この冨崎村は現在の館山市布良付近のことで、私の実家はそれより西側になるのだが、わずか6キロほどしか離れていないからである。私が生まれ育った集落には冨崎やその近くから嫁いだ人もいるが、サトイモを特別視するそうした風習については耳にしたことがない。 サトイモはタネイモの周りにたくさんのコイモやマゴイモをつけることから、子孫繁盛の象徴とされた(註9)。それにとどまらず、作柄の良し悪しにより、その家の吉凶を占うようなこともあった、ということかもかもしれない。冨崎村では、悪いことの続くのを避けるため、サトイモの「種子を切る」とか「種子を絶やす」とかした。とはいっても、実際は廃棄も焼却もしないで、よその家に譲っている。どういうわけか。サトイモは植えつける畑を換えれば、衰えようとする生命力を復活させると考えていたのではないだろうか。 サトイモが特別視された作物であることについては、思いあたることがないわけでもない。子どものころ、正月の雑煮やお節料理の煮しめには、かならずサトイモが入っていた。というよりも、正月の料理というと、餅の次に思い浮かぶのはサトイモなのである。雑煮も煮しめもハレの日の特別な御馳走だった。まず仏さまと神さまにお供えをし、その前で家族そろって食事をとった。 村ではほとんどの家がサトイモを栽培していた。しかし、作付け量は、どこの家もごくわずかだった。サトイモは日常的に大事な食料というよりも、ハレの日に欠かせない食料だったように思われる。さらにいうなら、サトイモを畑作栽培の代表的作物とする忘れられた集合意識が働いていたような気がしないでもない。 ph6 ニラの花。アリが蜜を吸っている。2021.08.29 ph7 ゴーヤ。クモが巣をかけている。2021.08.29 ph8 アカジソ。葉を食べにやってきたオンブバッタ。2021.08.29 サトイモは正月のみならず、盂蘭盆の行事にも欠かせなかった。お盆には盆棚を作る。私の家では、仏壇の前に棚を設けて、コメと水にミソハギの枝、スイカなどの果物のほか、サトイモの葉を供え皿にして、その上にナスとキューリを飾っていた。 母親の話では、キューリは馬、ナスは牛の見立てだという。祖先の霊は馬に乗るか牛(車)に乗るかして、あの世とこの世を行き来すると想像していたのである。8月13日と16日の夕方に盆の迎え火と送り火を焚く。その炎のなかに、ミソハギの枝で水を掛けながら、コメ粒を撒き、「ショウロゥ(精霊)さま、ショウロゥさま、ヤンゴメ(焼米)食いくい、ミズ(水)飲みのみ、来さっしぇ、来さっしぇ(帰らっしぇ、帰らっしぇ)」と唱えるのである。 私の家では、サトイモの葉を供え皿にしていたが、地方によってはハスの葉を用いていたようである(註10)。サトイモの葉はハスの葉の代用で、蓮華の台のつもりではなかっただろうか。蓮華の台に坐すのは、馬に乗るか牛(車)に乗るかした先祖の霊、ほかならぬ神さま仏さまということにならないだろうか。 それから1ヶ月ほどして、サトイモの花のあとを覗いてみた。花を咲かせたのは、16株のなかの5株で、それぞれ3本か4本の花茎をつけていた。もしかしたらと思ったのだが、実をみのらせた花は一つもなかった。私と妻の目を見張らせた仏焔苞と呼ばれる花の部分はすっかり干乾びてしまい、枯れ葉と区別のつかない状態で、地面に横たわっていた。 ph9 アカジソの実。2021.10.29 ph10 収穫したショーガ。2021.10.25 ph11 収穫したサトイモ。2021.11.14 【註】 (註8) 『イモと日本人—民俗文化論の課題』「餅なし正月の背景/三 餅正月とイモ正月」(坪井洋文、未来社、1979)。 (註9) 『イモと日本人—民俗文化論の課題』「餅なし正月の背景/二 正月儀礼における餅とイモ」 (註10) 。 (ひらしま あきひこ) ・おまけ <ソラマメのその後のご報告。添付ファイルをご覧ください。一週間前にカラス除けの網を外し、草取りと土寄せをしました。>(2021.11.29) 平嶋先生から届いたソラマメの画像です。 画像はクリックで拡大します。 ・ は毎月14日に更新します。今回は前編・後編と2部に分けてご紹介します。前編はに掲載しました。 ■ 1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「 」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『』(池田信、2008)、『』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。 2020年11月ときの忘れもので「」を開催。 「平嶋彰彦のエッセイ」バックナンバー 平嶋彰彦のページへ |
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