平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき 第18回 2022年01月14日 |
その18 根津新坂のS字曲線と根津清水谷の牡丹燈籠(前編)
文・写真 平嶋彰彦 根津神社南側の大鳥居のあたりから西方に向かう急こう配の坂道がある。本郷通りと根津谷をむすぶ新しい坂なので、新坂と呼ばれている、と現地説明板には書かれている。「江戸切絵図」には見あたらないから、明治時代になってから造られたものとみられる(註1、2)。 この坂を上りきる手前に、大正末か昭和初期に建てられたと思われる西洋風の木造住宅が何年か前まで残っていた(ph1)。街歩きの通りすがりにたまたま見つけたのだが、塀も門もないこの家のひっそりした佇まいに、言葉にならない懐かしさを覚えた。半世紀以上も前に、郷里の館山でみた街並みをふと思い出したのである。 森鴎外の『青年』にこの坂が出てくるという。鴎外は『山椒大夫』と『鈴木藤吉郎』しか読んだことがない。まさかと思ったが、不肖の息子の本棚を見ると、文庫本の鴎外全集がならんでいた(註3)。 主人公の純一は、本郷三丁目で電車を降りると、本郷通りを歩き、追分から高等学校(東大教養学部の前身)に沿って右に曲がり、訪問先の根津権現の表坂上にある下宿屋の前にたどり着いた。そこが訪問先である。すぐそばがT字路になっていて、右折すると、左手に出来たばかりの会堂(東京聖テモテ教会)があった(註4)。約束の時間にまだ早すぎた。そこで純一は新坂すなわち根津権現の表坂の方にむかって歩き、坂の上にでた。 ph1 根津新坂。西洋建築風の住宅。現存しない。根津1丁目。2009.12.14 ph2 アパートと思われる建物。奥は東京大学。向ヶ丘2-1。2021.11.11 ph3 東京聖テモテ教会のフェンス。弥生1-3-12。2021.11.11 割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている。純一は坂の上で足を留めて向うを見た。 灰色の薄雲をしている空の下では、同じ灰色に見えて、しかも透き徹った空気に浸されて、向うの上野の山と自分の立っている向うが岡との間の人家の群れが見える。 『青年』は鴎外の49歳のときの執筆で、1910(明治43)年3月から雑誌『スバル』に連載された。日露戦争の終結から5年後である。この年には大逆事件が起きている(註5)。 作品名の『青年』は小説家を志望する地方出身の青年純一のことだが、鴎外自身の青年時代をコラージュ風に点描するだけでなく、急激な西欧化と富国強兵に悲鳴をあげる近代日本の姿を折り重ねた印象がある。「Sの字をぞんざいに書いたように屈曲」した坂とは、鴎外自身の半生であると同時に、明治という時代の血の轍であったかもしれない。 「上野の山」は忍が丘と呼ばれた。「向うが丘」(向丘)は忍が丘の向かいにある丘の意味で、現在の本郷から駒込一帯の総称である。この二つの丘陵の間には、で書いた藍染川(谷戸川)が、そのころはまだ、北から南に流れ、不忍池に注いでいた。 「上野の山」では1877(明治10)年から殖産興業政策として内国博覧会が開催され、第三回の1890年には、東京音楽学校(現・東京芸術大学)が開校した。東京大学の創設は第一回内国博覧会と同じ1877年である。当初、「向うが丘」(旧金沢藩上屋敷)に置かれたのは4学部のうち医学部だけだったが、1884年と85年に、それまで神田錦町にあった法学部・文学部と理学部が移転してきた(註6)。 新坂の上からは、上野と向丘の間に「人家の群れ」が見わたせた。藍染川の流れを境に手前が根津で、その向うが谷中である。坂を下りたところに根津権現の大鳥居があった。 境内に入ると、社殿の縁には、ねんねこ袢纏(ばんてん)の中へ赤ん坊を負って、手拭の鉢巻きをした小娘が腰を掛けて、寒そうに体を竦(すく)めている。純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝のような池があって、向うの小高い処には常盤木の間に葉の黄ばんだ木の雑じった木立がある。濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見ると、厭になったので、急いで裏門を出た。 「溝のような池」とその「向うの小高い処」というのは、現在のつつじ苑のあたりのことである(ph4)。続けて、鴎外は「濁ってきたない池の所々には泡の浮いている」と書いている。小説のなかの情景描写といってしまえばそれまでだが、『青年』を執筆した1910(明治43)年のころ、根津神社の境内は、見事に整えられた現在の景観とちがって、かなり荒廃していたことがうかがわれる。 ph4 根津神社。観光客でにぎわうつつじ苑。根津1-28-9。2021.04.15 ph5 根津神社。六代将軍家宣の胞衣塚。根津1-28-9。2021.11.11 ph6 根津神社。本郷追分一里塚から移した塞大神の石碑。根津1-28-9。2021.04.15 『江戸切絵図』を見ると、楼門の左手前、すなわち現在のつつじ苑のあたりに「清水観音」の御堂が、その奥には、上記の引用文にある「常盤木の間に葉の黄ばんだ木の雑じった木立」とそっくりそのままの絵が描かれている。根津神社は根津権現と表記され、観音堂の右側には別当の昌仙院が記されている。ということは、明治維新までの祭祀形態は神仏混淆だったのである。(註7)。 社殿の縁には赤ん坊を負ぶった少女が腰かけ、寒さに体を竦ませていた、と鴎外は書いている。言い方を換えれば、体を「Sの字をぞんざいに書いたように屈曲」させていた。根津権現の表坂と同じである。この寒さに竦む子守の少女と泡の浮く池のものさびしい情景は、鴎外の目に映った近代日本の身も蓋もない現実ではなかっただろうか。 つつじ苑の手前に池があり、その近くに水飲み場がある。この水飲み場はもと日露戦争戦利品の砲弾を飾る台座だったという。銘が刻まれ、砲弾は森林太郎の奉納で、1906(明治39)年の建立だとのことである。『青年』を執筆する4年前だから、主人公の純一の目に留まっておかしくないが、小説にはそれについての言及はなく、泡の浮く池を見ると、「嫌になったので、急いで裏門を出た」とあるのみである。 現在、清水観音と昌仙院は、根津にかぎらずどこにも見あたらない。確証があるわけではないが、1868(明治元)年に神仏分離令が布告されたさいに、廃仏毀釈が行われたことが推測される。根津権現を根津神社と改称し、昌仙院およびその他六院の別当・社僧を還俗させるに止まらず、さらには観音堂や本尊の千手観音などを取り払ったのではないかとみられる。 根津神社の境内は、もとは六代将軍徳川家宣の父綱重の屋敷地だった。家斉が五代綱吉の養子となり、西の丸に入ると、その屋敷地は家宣の産土神である根津権現に授けられた。根津権現はそれまであった団子坂上から現在地に遷座し、1706(宝永3)年には、綱吉により、国重要文化財として現存する権現造りの社殿・透塀・楼門などが建立された(註8)。 明治維新は、根津神社からすれば、徳川将軍家という最大の後援者と別当・社僧という神社経営の中枢をともに失う危機存亡の一大事だった。翌1969(明治2)年、根津神社の神官伊吹左京と井上帯刀から、花街(遊郭)開業の願上が提出された。東京府がどう対応したかというと、この申請に許可を与え、根津神社周辺にあった遊郭は、晴れて復活することになったというのである(註9)。根津権現がみずから遊郭を営んでいたとは考えにくいが、神社経営の浮沈が色街の発展と二人三脚の関係にあったことを示唆する。 江戸時代の根津遊郭については、『徳川制度』「岡場所」に、次の記述がある(註10)。 宮永町 天保の頃遊女屋三十二軒、局見世百軒あり。(中略)その後八重垣町・藍染町などあい連なりて、多数の遊女屋あるに至れり。天保十三年水野改革のとき各所の遊女屋を禁絶されたるも、独り根津と四宿は取り残されたり。 根津の遊郭はいわゆる岡場所で、非公認の私娼窟だった。局見世は下級の女郎屋のこと。1842(天保13)年、水野越前守忠邦の改革にさいして、江戸の各所にあった岡場所はことごとく禁止された。しかし、根津と四宿(中山道の板橋・東海道の品川・日光街道の千住・甲州街道の内藤新宿)に限っては、表向きはともかく、黙認される形で営業を続けていたことになる。 【註】 (註1) 現地説明板(文京区教育委員会、平成14年3月)。 (註2) 『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」(尾張屋版、嘉永6・1853年、国会図書館デジタルコレクション) (註3) 『森鴎外全集2 普請中 青年』(ちくま文庫、1995) (註4) 聖テモテ教会礼拝堂。竣工は1909(明治42)年。(『日本聖公会東京教区』HP) (註5) 『森鴎外全集2 普請中 青年』解説(田中美代子) (註6) 『東京大学』HP「東京大学の歴史」。『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(平凡社)。『精選版 日本国語大辞典』(小学館) (註7) 『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」 (註8) 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』 (註9) 同上 (註10) 『徳川制度 (中)』「岡場所」(加藤貴校注、岩波文庫、2015)。『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」。 引用文にある宮永町、八重垣町、藍染町は明治時代の旧地名である。宮永町、八重垣町は現在の根津1、2丁目。藍染町は根津2丁目。『江戸切絵図』を見ていただきたい。根津門前町とあるのが八重垣町のことで、その南側が宮永町。藍染町は根津門前町の東側にある森伝右衛門・小役人などと書かれた武家地。その東を北から南へ流れるのが藍染川で、『日本歴史地名大系13 東京都の地名』によれば、町名はこの川に由来する。根津門前町と宮永町の中央を南北につらぬく道路がある。これが現在の不忍通り。いっぽう、根津門前町と宮永町の境を東西に通う道路が、現在の言問通り。不忍通りと言問通りは、明治以降に現在のような形態に整備されたものとみられる。根津権現への参道の惣門は、不忍通りの言通りとの交差点に建っていた。 (ひらしま あきひこ) ・ は毎月14日に更新します。今回は前編・後編と2部に分けてご紹介します。 ■ 1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「 」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『』(池田信、2008)、『』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。 2020年11月ときの忘れもので「」を開催。 「平嶋彰彦のエッセイ」バックナンバー 平嶋彰彦のページへ |
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