ときの忘れもの ギャラリー 版画
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井桁裕子のエッセイ−私の人形制作
第19回 「ポーランドへの旅(中編)」 2011年1月20日
一月もそろそろ終盤にさしかかりますが、皆様、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年は本当にお世話になりまして、私にとっては実に大きな一年でした。
先日ついに年賀状を出し終え、大掃除もやっと昨日終わりました。
つきあいの良い方はどうぞ今一度、一緒にめでたくなってくださいませ....。

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ポーランドの「四谷シモンと友人達」展覧会。
私は昨年10月31日、その撤収のお手伝いという目的で旅立ちました。



あちらの美術梱包さんはベテラン揃いで、あのモナリザだって運んだ人たちですから、本当はお任せしても大丈夫だったのでしょう。
しかし、きっと私が行くことになったのはボランティアで準備に関わってきた事へのお礼も兼ねてくれているはずで、実にありがたく思ったのでした。

私は人形本体の梱包にセロテープなど粘着テープを使うのが嫌いで、いつもひもでくくって包みます。次に人形を出すときに粘着テープがうっかり本体に張り付いたりする事故が起きそうで怖いからです。
日本通運の美術梱包スタッフの皆さんは、日本に帰って来た人形達の箱を開けて点検した時、「あっこれは井桁さんの結んだ紐だ!」とすぐにわかって面白かったとのことでした。
外国の美術梱包さんが紐を使うときは、途中でほどけないためか必ず固結びにするのだそうです。
言われてみれば私は、全部の紐を「リボン結び」にしてきていたのでした。

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シレジア(シロンスク)美術館のある「カトヴィツェ」とギャラリー・クロニカのある隣町の「ビトム」は、どちらも歴史の古い居心地の良い街です。
シロンスク(ドイツ名ではシレジア)地方と呼ばれるこのあたり一帯は石炭が出る所で、産業革命の頃から大規模な炭坑がありました。
あまりに掘りまくったため、落盤による地震が頻発するそうです。
炭坑夫たちを住まわせるための住宅も大規模に整備され、初期は一軒家の住宅群、やがて煉瓦造りの団地街、さらにコンクリートの団地群などが、今は各時代ごとに観光用に保存されています。



しかし長い間、このカトヴィツェの豊かな地下資源を手中にしていたのはドイツでした。また、さらに歴史が下って冷戦時代は、ポーランドは旧ソビエトの支配下となってきたのでした。
ヨーロッパの中心部にある美しく豊かなこの国は、ロシア、ドイツ、オーストリアなど近隣の国にその国土を奪われ分断され、苦難の歴史を重ねてきたのです。

カトヴィツェでも街のあちこちにナチス・ドイツ占領時の民衆蜂起の慰霊・記念のモニュメントがありました。
首都ワルシャワでは街のいたるところでパルチザン達の処刑が行われ、400カ所以上の慰霊碑が残されているのだそうです。
当時ワルシャワ、特に旧市街は完全に破壊し尽くされたのでしたが、このカトヴィツェは占領本部がおかれていたためかえって破壊をまぬがれたと聞きました。
この国が建国以来千年も求め続けた自由と独立の悲願は、1989年の旧東欧初の自由選挙(90年ワレサ議長が大統領就任)によってようやく実現されたのです。

カトヴィツェの対ドイツ民衆蜂起を記念した像。

ほかに文献に特筆されていることは宗教のことで、国民の80%以上がカソリック教徒、といった記述が必ずあります。
私がそこに何か力こぶのようなものが入っていると感じたのは正解で、その背景には深い意味がありました。
カソリック教会は社会的・政治的にとても大きな影響力を持っており、人々は常に教会に結束して祖国の文化を守ってきたのです。
かつて国がロシア、プロイセン、オーストリアに分割統治され、ポーランド語の使用が禁じられた時も、教会の中だけはポーランド語での会話が許されていました。
ソ連型社会主義支配体制下ではカソリック教会そのものが困難な状況にあったわけですが、人々は教会を捨てずそこが支配勢力への抵抗の拠点となった面があるようです。
前のローマ法王、ヨハネ・パウロ2世は「連帯」運動の強力な支持者でもあったのです。
教会は、聖俗両面でポーランド人の拠り所となってきたのでした。

ちょっと前置きが長くなってしまいました。にわか仕込みの知識はこのくらいにしておきましょう。

多少のトラブルはあったものの、ともかく私は出迎えのKubaさん親子と会うことができました。
カトヴィツェまで車で3時間ほど、日本とは8時間の時差があるので眠いはずだし、外も寒いはずなのですが、どちらも感じません。
夜空は澄んでいて星が瞬いていました。
連れて行ってもらったホテルはAngelo Hotel、立派な高級ホテルでした。

明けて11月1日。
この日は祝日で、街は静かでお店も軒並み閉店です。
「死者の日」と呼ばれますが、お盆のようなもので、この日は家族でお墓参りをします。
お供えのための花とランプが街角のあちこちの露天で売られていました。
お昼にスワベックが忙しい中を来てくれて、数少ない開いている店で食事を御馳走してもらいました。

スワベック、スワヴォミール・ルミヤックさんはアーティストで、日本でも何度か展覧会をやっています。
しかしそれだけではなく何か日本とポーランドの文化的な架け橋になるようなことをしたい、と言ってくれて、今回の企画をArs Cam.に持ち込んでくれたのでした。
自分の制作や発表を差し置いて海外の作家を紹介するために奮闘するなど、なかなかできることではありません。
彼もArs Cam.も実に粘り強く、いろいろな困難を乗り越えてこの展覧会を成功させていたのでした。
その準備期間はもちろん苦労ばかりではなく、たとえば資料をお借りするためのご挨拶に鎌倉の澁澤龍彦邸に伺ったりもしました。
シモンさん、マネージャーのSさん、スワベック、通訳のMさんと私の5人でしたが、写真や映像でしか見たことのない「あのお部屋」に実際にお邪魔するというのはなんとも感動的なことでした。
遠足のようにみんなで電車に乗って行ったのが実に思い出深いです。
偶然というのか、スワベックは舞踏家・吉本大輔さんとも知り合いで、それを知ったときも本当に驚きました。
何年か前、吉本大輔さんの稽古場に一緒にお邪魔してみんなでお好み焼きを食べたりもしましたが、以来スワベックはお好み焼きが気に入ってしまい、私は今回の彼へのおみやげにお好みソースを持って行ったほどでした。
彼の笑顔は日本で会うよりずっとリラックスしていて、それもそのはずでカトヴィツェは彼が生まれ育った街なのでした。

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スワベックが自分のアトリエに帰った後、私はホテルの前庭に出てなんとなく歩いていました。
まだ午後4時で、空はやや日が傾いたくらいです。
一本の木があって、その下に50代半ばくらいのおじさんがしゃがんで何か拾っています。
こちらでは、たとえば年頃の青年が女の子をデートに誘う場合、「ねえ、山にきのこ採りに行かない?」などというのがごく普通の事なのだそうです。
つまりポーランドでは人々が自然の恵みを日常的に楽しんでいるわけですが、この人も特に変わった人などではなく、そこにはただ、食べられる木の実がたくさん落ちているようなのでした。
私は、ご挨拶して、なんとなく和やかな感じだったので一緒に木の実を拾うことにしました。
おじさんは、拾ったのは自分で食べるといいよ、おいしいよ、とポーランド語で話してくれました。
英語はまったく通じないのですが、まあ、簡単なことは身振り手振りでなんとなくわかるのでした。

ポーランド語は動詞はもちろん形容詞、名詞までも状況に合わせて活用形がたくさんできてしまう、恐ろしく難しい言語なのです。
たとえば名前の「アンナ」が「アンネン」などと変わるので、ただ単語の原形を覚えただけでは会話にならないのでした。
私は、名前を名乗り「日本、昨日、夜、飛行機」と単語を並べたら、かろうじて伝わったようでした。
このようなわけのわからない異邦人の私を、おじさんは「これからお墓参りに行くけれど来るかい?」と誘ってくれたのです。
私はありがとう!と言って、並んでついて行きました。
私はこの時まだ気づいていませんでしたが、アジア系の人はここではとてもとても珍しい存在でした。おじさんにとってはもしかしたら人生初の東洋人との邂逅だったのかもしれません。
私はたまたま、あの便利な「旅の指さし会話帳」を持ってきてはいましたが、いきなり知らない人のお墓参りに同行するときの会話というのは、どうしたものでしょうか。
日本語で考えてもなんだか難しいような気がするのですが、あまりおしゃべりなどするでもなく、しだいに暮れていく街路を、私たちは町外れの墓地へ向かって楽しく歩いていったのでした。
墓地は大勢の人々がおおむね家族連れで訪れていました。しかし皆静かで、それでいて暖かい雰囲気が漂っていました。
どの墓標の前にもたくさんのランプと菊の花が手向けられていました。墓地全体が光の海のように幻想的な美しさでした。
お墓にはおじさんのお母様と甥御さん(あるいは弟さん)が眠っている、とのことでした。
お参りを済ませて、さらにカテドラルまでついて行きました。
別れ際に私は心からお礼を言いました。大事な日を一緒に過ごさせてもらって感謝しています、などと言いたかったのですが、言葉が不自由なのが残念でした。

私はきっとこういうことを「一期一会」と言うのだな、などと思っていました。
ところがその数日後、近くのスーパーに買い物に出かけたところ、なぜかそこに見知った顔が.....。
Ars Com.の人以外では地元で唯一の私の知人となったそのおじさんは、なんとホテルから一番近いスーパーマーケットで警備員をしている方だったのでした。
その晩は約束もなかったので、おじさんとの再会を祝して一緒にビールを飲みに行き、今度は私のノートに絵を描いて、筆談しました。
やはり紙と鉛筆は必需品です。

ちなみに、拾った木の実は東京まで持ち帰りました。
濃厚な味の、本当においしいナッツでした。
木の実の名前も、おじさんの名前も、今となってはわかりません...。

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この調子で書いていくと今年1年ずっとポーランドの話で連載を費やしてしまうので、次回はなんとかまとめに入りたいと考えています。
ともあれ、来月こそ遅れずに書こう!と決意しております....。
どうぞよろしくお願いいたします。
(いげたひろこ)


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