飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」 第4回 「植田正治―世界に開かれたローカリティ」 2012年8月17日 |
植田正治は1913年に鳥取県西伯郡境町(現境港市)に生まれ、生涯を中国地方の日本海側(山陰地方)の小さな町で過ごした。その意味では典型的な「地方作家」といえる。だが、その作品世界はむしろ日本の写真家には珍しいスケール感と構成力を備えたものであり、国際的にも高い評価を受けてきた。実際に、植田が2000年に亡くなった後、スペイン、フランス、イタリアなどを巡回した回顧展は評判を呼び、「Ueda-cho(植田調)」という言葉がそのまま通用するほどになったという。たしかに、彼自身が「砂丘劇場」と称した、鳥取砂丘を舞台にした群像やオブジェの写真などを見ると、どことなくシュルレアリスティックな雰囲気さえ感じさせる。
植田が鳥取県米子市の米子写友会に入会して写真の世界に踏み込んでいった1930年前後は、日本の写真家たちが絵画的な美意識の「芸術写真」から、モダンな都市の文化を背景にした「新興写真」へと大きくシフトしていこうとしていった時期だった。彼自身も初期のピクトリアルな表現から、すぐに画面を抽象的なパターンとして構成していく作風へと転換していく。1937年には、岡山県や広島県の写真家たちと中国写真家集団を結成し、見事な造形感覚で横長の画面に人物を配置する、のちの「砂丘劇場」につながっていくスタイルを確立していった。 戦後になると1947年に写真家集団「銀龍社」に参加し、1955年からは二科会写真部の会員として、積極的に作品を発表するようになる。この頃から植田の名前は東京でも広く知られるようになり、1971年には写真集『童暦(わらべごよみ)』(中央公論社)を刊行して大きな話題を集めた。この写真集は、山陰の風土に根ざした子供たちの暮らしぶりを、叙情性と理智性とを融合させた作風で四季を追って描写したもので、植田の代表作の一つとなった。また、1974〜85年に『カメラ毎日』に断続的に掲載した「小さい伝記」は、1930年代の汚れや傷がついたネガからあらためてプリントするなど、実験的な意識の強いシリーズだった。1980年代にはファッション写真(「砂丘モード」)に挑戦するなど、最後まで写真家としての意欲はまったく衰えを見せなかった。 来年(2013年)には植田正治の生誕100年を迎える。彼の写真がなぜ今なおみずみずしい魅力を保っているのか、展覧会や写真集の刊行を通じて、その秘密をさまざまな角度から解き明かしていくべき時期にきていることは間違いない。 (いいざわ こうたろう)
■飯沢耕太郎 Kotaro IIZAWA 写真評論家。1954年生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒。筑波大学大学院芸術学研究科(博士課程)修了。1990〜94年季刊写真誌『デジャ=ヴュ』編集長。著書に『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)、『日本写真史 を歩く』(ちくま学芸文庫)、『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)、『私 写真論』(筑摩書房)、『「写真時代」の時代!』(白水社)、『荒木本!』(美術 出版社)、『増補 戦後写真史ノート』(岩波現代文庫)、『写真的思考』(河出ブックス)、『「女の子」写真の時代』(NTT出版)など多数。きのこ文学研究家としても著名。その著に『きのこ文学大全』(平凡社新書)『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)ほか。 「飯沢耕太郎のエッセイ」バックナンバー 植田正治のページへ |
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