飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」 第13回 「奈良原一高——複眼のヴィジョン 」 2019年03月18日 |
奈良原一高は1931年、母の実家があった福岡県大牟田市で生まれた。父が裁判所の判事だったので、少年時代は転勤続きで居場所の定まらない時期を過ごす。彼は写真家として活動し始めてからも、ヨーロッパやアメリカに長期滞在するなど、旅と移動を繰り返すようになるが、それはこの時期の経験が作用しているのかもしれない。
奈良原は、1956年に最初の個展「人間の土地」(東京・松島ギャラリー)を開催する。石炭採掘のために埋め立てられた長崎沖の人工の島、端島(通称、軍艦島)と、活火山の桜島の麓の集落、黒神とを、「社会機構対人間」/「自然対人間」というくっきりとした二項対立で描き出したこのデビュー写真展は、大きな反響を呼び起こす。早稲田大学大学院で美術史を学んでいた一学生は、この展覧会の会期終了後には、注目すべき若手写真家に変身していた。 1958年の個展「王国」(東京・富士フォトサロン)も、二元論な思考の産物である。北海道の男子修道院(「沈黙の園」)と和歌山の女子刑務所(「壁の中」)という二部構成で、男/女、宗教/世俗、自由意志/強制といった対極的なテーマを浮かび上がらせている。結果的に「人間の土地」と「王国」は、閉ざされた空間における人間の生存の条件を問い直す作品となった。 奈良原は、1959年に東松照明、細江英公、川田喜久治、佐藤明、丹野章と写真家グループ、VIVOを結成し、日本の写真表現における最も輝かしい季節の一つを作りあげていく。 1961年にVIVOが解散すると、1962〜65年にパリを中心にヨーロッパ各地に、1970〜74年にはニューヨークに居を定めて長期滞在する。その前後に刊行された『ヨーロッパ 静止した時間』(鹿島研究所出版会、1967年)、『スペイン 偉大なる午後』(求龍堂、1969年)、『ジャパネスク』(毎日新聞社、1970年)、『消滅した時間』(朝日新聞社、1975年)といった写真集は、彼が西欧世界と日本とを行き来することで育ってきた、内と外とを同時に見渡す「複眼のヴィジョン」とでもいうべき作品世界が成熟し、完成したことを示すものとなった。 奈良原は1980年代以降も「外にある現実と内にある心の領域とが出合ってひとつになった光景」(『王国』朝日ソノラマ、1978年)を求め続け、多様で豊かな写真作品を制作し続けていった。今のところ、彼が最後に発表した作品の一つが「Double Vision-Paris」(2000〜2002年)と名づけられているのは示唆的といえる。パリで撮影した写真を少しずらして二重にプリントしたこのシリーズを見ると、まさに彼がこのように世界を見てきたということが納得できるのだ。 (いいざわ こうたろう)
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